★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

シン・キングギドラがみたい

2016-07-31 16:04:38 | 映画

昔、黒部山中?で、「みろ、何かかたちになってゆくぞ」という、提出日直前の学生の卒論に対する、指導教官の心の叫びみたいな声を合図に出現し、松本城をかすめてどこぞの地方都市を爆撃していたキングギドラであるが、最近活躍していない。ぜひ、ゴジラとかいう空も飛べない鈍くさいやつは封印して、世界中を焼き尽くすキングギドラ映画がみたい。

ゴジラ鑑賞前予習漫画

2016-07-31 15:41:05 | 映画

北朝鮮のテポドンと思いきや東京都にゴジラ来襲→P3C初めて大活躍→角栄の魂ようやく昇天→フクシマでいったんアンダーコントロール→集団的自衛権発動→アメリカは選挙に忙しく無視される→中国軍出動→瀬戸芸開幕→消費税20パーセント→小池都知事、日本会議にゴジラを招待→ゴジラ真っ先に京都を一瞬で燃えかすに→京都の町が駐車場に→安部首相「一億総生きよ墜ちよ社会」宣言→ゴジラ東京都知事選に立候補→ゴジラ、エヴァンゲリオンに変身(一番ありうる)→オタクども狂喜→ポケモンGOにゴジラと美少女が導入される→トランプ大統領、ゴジラ殲滅命令→日本消滅→週刊文春、安倍首相のスキャンダル大公開

男千匹株大将

2016-07-30 03:21:29 | 漫画など

男一匹狼がへたれ社会を相手にがんばり抜く話かと思っていたら、いまのところ全く違い、ガキ大将が無産階級千人をなぜか味方につけて株で大もうけする(ために暴力を使う話)であった。男千匹株大将としか言いようがない。つまり、きわめてふつうの意識の話であった。

水戸のばあちゃんという、敏腕経営者が出てくるが、これも「羅生門」の老婆みたいなもので、下人に「仕方がない」やくざな商売を教えるにすぎない。今のところ。

俺は大物だ、他人も俺を大物と見抜く、俺は大物を見抜く、親分ついていきやす、やっちまえ…

何か最近の殺人事件を思い出させるが――とにかくよくわからんが、こんなスピリットで日本の経済が成り立っていたとしたら、没落するのは当然である。

妹2の浴衣会

2016-07-28 16:56:04 | 文学
http://blog.goo.ne.jp/mimasaka_chiko/e/8147557553c7d1d8d2cd2c8b84bd8f40

 こゝに、「曲線美」といふ言葉がある。之は特に夏、外国人の身なりに就いて思ふ場合、誠にそこにあるものはこの「曲線美」だと思ふ。――或ひは言葉を変へて、形似(写実)的な味感と云つてもいゝ。
 それに反して日本の美しさは、――強ち「夏」乃至「服装のこと」には限らなくても云へるが、――直線的美感といふのがいゝ。より字の意味を大きくすると、象徴的味感といふことになる。
 就いてはその服装の直線的美感といふについて、思つて見ると、それには第一材料の浴衣それ自身を衣紋竹へかけた、その場合から判じてかゝるのが早いと思ふ。それは誠に角ばつた lineal なものである。――然しその服装の内部には元来丸味から出来てゐる身体が包まれる。
 そこで、殊に夏、衣裳の単衣となる場合には、上蔽の直線と内部の曲線との融合は美しさにおいて――といふのは肉感的にといふのとは一応はつきりと違ふ意味で――一層端的に結ぶ。
「浴衣」の美感はそこで材料それ自身、肉と衣裳――の仕組みに因縁が濃いことゝなつて、やがては美しさへの筋道を素直に定跡で行つてもたどれるものとなる。

――木村荘八「浴衣」

Gと現実

2016-07-27 20:21:18 | ニュース

読んだ。

改革屋や世直し屋が広い意味で殺人に走るのは、単なる論理的な必然であって、それが分からないのなら、教員や政治家をやってはならないと私は思う。我々はいつもその危険性と隣り合わせであるが、ずるがしこい連中は、最近の難局を「肝心な時に手を抜く」ことで切り抜けようとしている。確かに、それは危険性から撤退するという一つの手であるのだが、そんな時に誰かが処理しなければならないことに黙って堪えている人が必ずおり、彼らの犠牲が必要だと「手を抜く」人びとが考えている節がある。自分が危険性から撤退するために、よけいな事柄を遠ざけるため、同僚に対する細かいいじめには手を抜かないところからそれが推測される――こんな風景はよくは見えないから大変である。ポケモンやある種の管理職の苦労は見えるようになったかも知れないが……。

今回の殺人事件からは、「子どもや障害者に寄り添いましょう」とか「人間の瞳の輝きを忘れずに」、「希望がー」、「絆が~」といった明晰なセリフによる洗脳(忘我か?)で、現実の修羅場を乗り切ろうという教育業界(もはや日本中がそんな雰囲気であるが……)が、差別主義者への橋頭堡には全くならず、むしろ、ファシストを生み出す温床となっていることを思わせる。教育業界に於けるコミュ力(笑)信仰はもはや知的なものに対する暴力と化しているが、この場合のコミュ力というのは、上のような文句を平気で人前で口に出来る能力のことなので、知的な会話は寧ろ排除されるべきだからである。今回の容疑者もコミュニケーションがとれない人間を選んで殺している(曰く「意思の疎通ができない人たちをナイフで刺したことは間違いない」)。うちの学部なんかでも、初対面の相手に平気で明るく挨拶が出来る信じがたい不気味な人間が増殖中である。容疑者を知る近所の人間が「明るい子だった」「挨拶が出来る子だった」と言っていたが、内面とは関係ない明るい挨拶マシーン(を強いられているのを忘れることができること)こそがファシズムなのである。容疑者が参議院議長や首相に訴えた例の手紙の雰囲気は、今の大学には結構ある類のものである。「想像を絶する激務の中大変恐縮ではございますが、安倍晋三様にご相談頂けることを切に願っております。」……

明らかに、今流行の「お偉方にお墨付きをもらおうとしているヘイトクライム風のあれ」ではないか。

ヘイトクライムと言えば大げさのような気がするが、我々の組織では上昇欲の強いニーチェ的畜群や小役人がそんなことを日常的に行っているから別に珍しいことではない。しかし、アイヒマンのような小役人にばかり注目すべきでないのは、もっと積極的な政治的殺人志向の輩はいくらでもいたし、しかも彼等が「全く狂ってはいな」かったばかりか寧ろ明晰だったからである。彼らは、ただ、科学と文学を重視しない畜群(権威主義者)であっただけのことだ。――すなわち、我々全員にそうなる危険性があるということである。とはいえ、よくも「世界を平和にしましょう。美しい国日本!」とかいうレベルにシンクロできたりするものだ。いや、そういう人間がかなりいるのは教員をやっていて思うことであり、しかも障害者や在日の人びととかコミュ力がない人?(とか人文学者)を「役に立たない」という理由で抹殺すべきといった言説ももはやありふれているわけだから、それらはヤクザな宗教的政治家の存在と同じで自明の前提に過ぎず、――むしろ容疑者の心を奮い立たせたのは、そんなありふれたもの自体にはないのかもしれない。すなわち、そういった容疑者の「心理」は、障害者施設の労働の現実と障害者をめぐる言葉の現場をよくよく調べてみないと本当は推測できないであろう。障害者教育やその周辺に、たとえそれが専門家であっても、かなり暴力的な感性が存在することを私自身知らないわけではないが、よく知らないことは知らないことにすべきである。ファシストを「集団」として「存在」させてはならない。

ということで、今日は、内容学演習で「ポケモンO」に対する評論を何点かとりあげて、比較やアナロジーの必然性と危険性を考えた。ちなみに「ポケモンGO」について私は何も知らない。

仕方がないのでお手紙書いた

2016-07-26 23:21:25 | 文学

https://www.youtube.com/watch?v=OweQy6mcusM

せねば、饑死をするのじゃて、仕方がなくした事であろ。されば、今また、わしのしていた事も悪い事とは思わぬぞよ。これとてもやはりせねば、饑死をするじゃて、仕方がなくする事じゃわいの。じゃて、その仕方がない事を、よく知っていたこの女は、大方わしのする事も大目に見てくれるであろ。
(芥川龍之介「羅生門」)

猫と犬と

2016-07-25 23:25:18 | ニュース
沖縄での暴力沙汰をみててわたくしの脳裏に浮かぶのはやはり、「犬のおまわりさん」である。あと、最近、甲子園大会の予選で負けたぐらいで男の子がめそめそ泣いているのはどうかと思う。すぐ泣きやがって馬鹿みたいと私の超自我は思うね。前にも書いたように思うが、最近すぐめそめそしている人びとを見ると、普段よほど理不尽な目に遭ってきたんだなあ、としか思えないのである。複雑感情が我々を泣かせるのであって、「絆」とか「単なる悔しさ」で泣くというのを私は信じない。しかし、彼らが人間ではなく、こねこちゃんだったとしたらどうであろう。
https://www.youtube.com/watch?v=9CDd938DOaM


まいごのまいごの こねこちゃん
い ぬ の~
わんわん わわんわんわん わわん
わんわん わわんわんわん わわん
わんわん わわんわんわん わわん
にゃんにゃん にゃにゃん
にゃんにゃん にゃにゃん
ないてばかりいる こねこちゃん
い ぬ の~
わんわん わわんわんわん わわん

まいごのまいごの こねこちゃん
い ぬ の~ 
わんわん わわんわんわん わわん
からすにわんわん わわんわんわん わわん
すずめにわんわん わわんわんわん わわん
にゃんにゃん にゃにゃん
にゃんにゃん にゃにゃん
ないてばかりいる こねこちゃん
い ぬ の~
わんわん わわん
わんわん わわん

……言葉というものは大事だと思う今日この頃である。


しかし、芥川龍之介が漫画家になった設定のこの漫画、なぜか許せる気がした……

今年も惨敗の夏が来ております

2016-07-24 23:53:04 | 漫画など
駒ケ根工 5-3 木曽青峰

御嶽海 4勝10敗

中日 40勝49敗



東京都民というのは、石原慎太郎を長く戴いてしまったりするすっとこどっこいなので何が起こってもおかしくはない。Kさんなどになったらまた海外の一部に「アメリカドイツフランスイギリスに続いて極右が…」とか書かれてるであろうな…。お外の皆さんはわかっておられない、戦時体制以降日本ではまったく何も変わっていないということを…。問題は、いかにその中で作品を残すかだ(おそらく石原慎太郎だってそう思っているのだから……)。日本を変えるのは政治ではない。作品である。もっとも、日本では『ジャパッシュ』や『愛と幻想のファシズム』が書かれる時期が悪い気がするのである。芸術家は、あまりに変わらない日本の空気の中で、微妙な空気の変質を嗅ぎ取り、あまりにもはやく作品を書いてしまい、肝心な時には、変化しないものを嗅ぎ取っておとなしくなってしまう。そんな傾向がある気がします。

兵隊さんが行く

2016-07-23 22:22:29 | 映画


わたくしが「ポケモンGO」に期待しているのは、「ゆきゆきて神軍」のような映画が再評価されることを願っているからである。中沢新一の『ポケットの中の野生 ポケモンと子ども』を読みながら、まあそうかなあ……と思いながら、でもミヤマクワガタの質感とポケモンは一緒に出来ないだろう、ゲームがアジールって、東京の連中はそもそもアジールに逃げ込んでるつもりなんだよ……とぐずぐず思いながら、「虚構」の迫力は、「現実らしさ」からは来ないものだと『ゆきゆきて神軍』を見直しながら思った。

ポケモンGOって何かに似てるよな……と思ってたら、「電脳コイル」だhttp://blog.goo.ne.jp/shirorinu/e/f68e87cfe9bb6979788853f245b4e40f……わたくしでもそれくらいは連想できた。しかし、神社に『ゆきゆきて神軍』みたいなおじさんもリアルに現れたりするから、結局、「電脳コイル」も「三丁目の夕陽」じゃないかとも思うのである。