★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

×川大学恋愛狂室──ふられ14

2012-01-31 23:11:56 | 大学


学問基礎科目「文学A」もそろそろ終了のお知らせが近い。今日は、共通科目FDの「公開授業」でもあったので、いつもにも増して放送コード無視。美事にビデオに撮られた。

見に来られたある先生がアンケートに書いてくれたことであるが、──やたらグループワーク導入だ学生とのコミュニケーションだ、とかいう風潮の中で、大量の印刷資料を使った一方的な講義形式でも、100人程度の学生に向けて十分面白く授業を展開できることを全力で証明しようとするのが、私が「公開授業」を引き受けた理由である。正直なところ、学生の質と状況によってはいつもやれる自信はないし、理想に過ぎないが──、90分喋り続けであっても学生の注意を引きつけておく能力がなければ大学の教員とは言えないと思うし、その資格はないように思う。これは喋りのテクニックとかの問題でもあるが、根本的には学問的な認識の問題である。小学校の授業とまったく同じように、予習で手抜きをすれば、わかりやすくしゃべることは出来ない。作品に対する厳密な認識は、素人にとって難しくなるどころかわかりやすくなるというのが、読解の基本的な姿勢であるべきだし、授業もまったく同じことである。(だからといって、学生がわかりやすいと感じた授業がよいということではない。すぐその見解に行きたがる方が多い訳だが。それに、素人といっても申し訳ないけれども「たちのよい」人間に限る。)

とはいえ、私は学生からのレスポンスを求めていない訳ではない。第一に、レポートを大量に課すことによって、私と学生は相互にコミュニケーションを図っている(笑)私が勉強した分だけ、学生にも勉強して貰う。これをコミュニケーションというのである。何にもしない学生がただ授業で発言するなど、コンビニでの「弁当あっためてください」発言と大して変わらん。第二に、演習の授業では学生の発言が授業の大半である(あ、これはやや嘘です。私が学生を虐める発言が多いかも)。現在のコミュニケーション主義を待つまでもなく、文学は弁論大会や歌合わせやサロンやらで発達してきたのだ。ただ、その対話空間に、極端な馬鹿が参入できないだけのはなしである。だから、私の大学の授業はこんな感じになっている。(なるべく学生を主語とし、「~できる」という形にしました。)

1年生=共通科目・学問基礎科目……私のおしゃべりによる一方的な文学的洗脳。学生は、文学作品のパロディを何回か書かされることで文学者気取りになり、世間的幸福より文学の方がよいという確信をもつことができる。無理だなあ……

2年生=文学史……読んでない奴はもぐりと見なされる作品の読書とレポートを宿題に出され、更に洗脳が強化されるてしまう。学生は自分がいっぱしの読書家と錯覚し始める。学生の研究室は、低レベルながら文学サロンに。苦しいなあ……

3年生=演習……精読と注釈の訓練。学生は自分が馬鹿だと、いや作品を見つめる静かな心持ちに気づく。

4年生1=文学講義……学生のレベルを完全無視した私の一方的なおしゃべり。前日研究したことを私が無秩序にしゃべる。学生はそれを理解したかのような顔をして頷くことができる。楽しさは最後に来るという……

4年生2=卒業論文……学生はたいそうなご託をならべることができる。これは非常に大事なことである。大学生は基本、思い上がっていなくてはならない。

社会人……我々は、世間から孤立し、文学を死守する。

天使はなぜ堕落するのか

2012-01-30 01:51:56 | 思想


私は哲学の訓練も受けていなければ、中世哲学についてちゃんと講義を受けたこともない。が、卒業論文のために、スピノザを読まなければならなかったことから──というのは嘘で、卒業論文をダシにスピノザを読みたかったのであるが──、引っかかっている事柄が哲学の方面で沢山ある。大学院の時は、必要があって、エックハルトやスコトゥスとかを読まなければならなかった。芥川龍之介の演習の前に、落合仁司の『地中海の無限者』を何が何だか分からないまま読んだのは悪い思い出である。

最近読んだなかでのヒットは、上の八木雄二の本である。多くのことを教えられた。テリー・イーグルトンの『宗教とは何か』よりもよほど私には啓蒙的であった。

ただ、私は、八木氏が言うように、ヨーロッパの論争的伝統に対して、日本の文化的伝統が「源氏」や歌合わせのような文学主義だとはあまり考えていない。

西×賢太を読む

2012-01-27 01:20:15 | 文学


このあいだ、高知のNさんと話した時に、「おれは西×賢太なんてやだよ」と言ったら「私は結構つぼなんですけど」と返されたが、かつて西×氏の『苦役列車』を読んだ時に、なにかトラウマをほじくり返されたような気がしていやーな気分になったからであった。

しかし、人がはまっている作家を一度は征服していい気になりたい文学青年上がりの性で、もう一冊、今夜読んでしまった訳だが、私が西×氏を厭だったのは、──あまりそうはいわれていないけれども──中卒で在野ではあるが研究者?あがりの小説家だからであった。氏は、藤澤清造にはまって、女(の親)から借金をしてまでも全集刊行まで企てたりする昔堅気の研究者であり、研究を生活とは別の仕事と称し、「宙づり」やら「協働」やら「コミュニケーション」やらマジックワードをちりばめて読者を強迫しがちな研究屋とは訳が違う。ちなみにこの文庫本で解説をやっている坪×祐×なんてのは、後者の一味であるような気がする。

カレーの食い方を女に「豚みたい」と言われて、彼女の肋骨を傷つけるほど蹴り上げたり、翻字を女に手伝わせ、ミスをあげつらってしまいにぶん殴ったりする場面を読むと、……これほど酷くはないが似たような経験があるような気がしてくるから小説の力は不思議である。私は確信を持って言うが、研究者は若い頃、必ず、似たような経験をしているはずである。実際の行為とは別に、精神的に。

つまるところ、研究は広い意味で暴力的なものと明らかに関係があるのだ。のみならず、その成果をみせびらかしたいという欲望に支えられている。西×氏の、暴力的な場面ほどスピード感に溢れコミカルさをましてゆく書きぶりは、そういうところからも来ているのではなかろうか。私は、ちょっと書き方にサービスが行き過ぎているではないかとも思う。最近テレビに出ているのをみても、タレントとしての才能もあるようだ。

エル・カミーノ・レアル

2012-01-26 02:37:17 | 音楽


youtubeにはおもしろい動画がたくさんあると思うが、元吹奏族のわたくしとしては、むかし演奏した曲を検索してみるとおもしろいのである。

神×川大学とか文×大学とか、わたくしのいた大学の全国大学出場を阻んだ(というか、あっちはこっちの演奏を笑いの種にしていたに違いないが……)団体の演奏は、うまければうまいほど腹立ってくるし、東京校×の演奏などは、課題曲の模範演奏で「こんな曲できねえよ」と絶望した思い出が蛆のようにわいてきて厭である。

というわけで、海外の小学生とか中学生の、ド下手くそだが、やはりなんというかどこかしら辺境ジャパニーズとは違うハイセンスが光る演奏など探しあてたときなど嬉しい。

今日は、アルフレッド・リード作曲の「エル・カミーノ・レアル」の様々な演奏を聴いてみた。演奏したことのある人なら分かるが、調子こいた調子の曲(笑)にもかかわらず、めっぽう難しい曲である。ときどきコンクールでホルンの女の子ががんばりすぎて唇から流血している。技術のある団体がときどきテンポ設定より猛烈に速く演奏したりするが、私が思うに、ちょっと恥ずかしい。テンポよく歌うというのがどれだけ難しいか……、ノリだけではまさに一生世間様に顔向けできない演奏となるのである。

今日、気に入った演奏はこちら

https://www.youtube.com/watch?v=xkPMyDAgQqE

https://www.youtube.com/watch?v=zr0LWS2j4lI


演奏直後の観客の雄叫びは、たぶん牛ではない。