★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

How to be BIG

2017-06-27 22:34:13 | 音楽


昔、谷沢永一と矢沢永吉を混同するという不思議なことが起こったのであるが、それはともかく、上の「成りあがり」という本は有名で、わたくしも持ってた。いま表紙を眺めてみると、「成りあがり」という文字が妙にやさしく、そのためか、「激論集」とか「How to be BIG」といった文字が飾りに見える。内容はよく知られているもので――、「自分に合ってる」のが才能というものである、とか、「バカ」は迷惑をかけるからだめ、学校の勉強は官僚になるつもりがなけりゃ適当に流すべし、あまり吸収しすぎるとポイントがぼける、グレるというのは「はぐれる」ということだ、彼らの八〇%は目的を失ってるだけであとがどうしようもないやつ、資本主義のエリート社会に反撃しろ、いや精確にいえば、妥協しながらじゃなく「負い目なく反撃しろ」……。などなど、割と我々が失いがちな「常識」が書いてある。

矢沢氏には自分でも言っているように、猛烈な自己陶酔の才能がある。これは一般的には(屡々ナルシシズムと混同されて)悪い面にもみえるが、不安を周密な作品で押さえ込むという能力に似て、上のような金言をはく能力とも関係があると思われる。なんというか、完璧な円を描くことに似ているような気がする。氏のファンは多いが、「はぐれる」タイプにはここまでの自己陶酔の才能がないのだ。淋しさは心を砕いてしまうのが普通である。やはり、音楽は、そういう淋しさをなんとかしてしまう魔術があるようだ。

とりあえず、こういう本の読後感は「野口英世の伝記」などに似ている。それは、能力がどこにあるのか分からない若者達に「屈辱を忘れるな、そして、しっかりしろ」と呼びかける。

授業とコノハゲー

2017-06-26 23:59:31 | 思想


授業のやり方とかを考える……。
寄り道せずにゆっくりじっくりとまとまった授業をしたいなあ……。

授業の問題は、対人関係のそれと似ている、――というより同じ問題である。ラインやらツイッター風の世界に生きている我々は心理的な飢餓感から、これを「学生に寄り添う」とか「学生主体」とか言ってしまうから問題がずれてしまうのだが、深いコミュニケーションは、社交辞令的な漫談風ではないきちんとした話をすることからはじまるのである。そうでないと、相手が上から目線だ下から目線だと、自分が低くあつかわれることだけを気にして生きるようになる。内容が空虚である限り、そりゃ発言の「態度」だけが問題になってしまうに決まっている。だから、社交をしなければ成立しないグループワークばっかりやっていても、ますます内容の検討からは遠ざかるのは当たり前であって、むしろ、きちんとした講義が行われる必要があるのである。

コノハゲー、と暴言を吐いた議員が問題になっていたが、彼女がこの暴言のなかで「私の心をこれ以上傷つけるな」とか言っていたことが気にかかる。おそらく政治家の世界が、政策の内実とかイデオロギーとかよりも、上のような空疎なコミュニケーションの世界になっていることの証拠であると思う。内容があれば暴言が暴言にならない場合だってあるが、そうではなく、コミュニケーションが暴力的な装置としてしか機能していないような世界があるのである。彼女は別にヤクザものではなく、本当に「心が傷ついていた」可能性があると思うのである。安倍首相がそうであるように、今の政治には自民党共産党公明党その他にかつて少しはあった「政治思想」が完全に欠落している。これが一番の問題で、民主主義はイデオロギーの対立によってこそ成りたつのが良く分かる。そうでなければ、多数派が弱者をいじめる世界になるだけだ。(麻生の暴言とは別の意味で、彼女が女性議員だったことはおそらく看過できる点ではなく、政治家の世界への過剰適応が問題なのだ。彼女の場合、魑魅魍魎が跋扈する世界での成功体験から、ある意味正直なその世界の生き方を身につけたがゆえのあれだったのではなかろうか。)

教育の世界もそうなっている。学校の世界の暴力的な事件は、そういうコミュニカティブアプローチのパロディみたいな環境からでてくるのであって、単に教員の地位が下がった現象だけにとらわれると、例の「教育勅語」のすっとこどっこいおやじに逆戻りである。

小景

2017-06-24 23:51:28 | 文学


今日は、授業その他の予習で、林光の「原爆小景」の勉強。楽譜を見ながら何回か聴いた。わたくしが中学の時に最初に聴いたときには、トーンクラスターとナレーションとシュプレッヒコールの散乱的な印象がすごく、スコアはさぞかし原爆後の風景のような感じになっていると思っていたのだが、――今回じっくり見てみたらそうでもない。「夜」で、「ヨル」と「オカアサン」が同時に歌われることの意味を今日は考えた。この楽章が終わったところに、(Feb.1971)とあって、わたくしが産まれる直前なのでなんだか怖かった……。

こんな夢を見た

2017-06-23 23:27:26 | 文学


いま演習は漱石の「第二夜」。
昨日は光子力研究所の夢を見た。ロケットパ「チーン」と時計が鳴ったと思い羞恥心で死にたくなり、目が覚めた。

学生諸君には、窃盗事件もテロも殺人も、それがどんなにショッキングでも論理的にはあり得るということが自明だが、文学作品は簡単にはわからない、そこが重要だと述べておいた。我々は、簡単にわかることには興奮して不可思議なふりをできるが、本当にわからないことからは逃避する。

一般の方と慷慨談

2017-06-19 23:30:58 | 思想
「一般の方が捜査の対象になる事は、ぜっ・・・、対象になる事はありません」

といってしまった我が首相ですが、それはそうだろう。一般の方という妙な人たちが何処にいるのかわたくしに教えてほしい。たぶん、この国には一人もいないはずである。



今日は出来心で上のようなやくざな本を読んでしまったのであるが、こういう本も大概、「『一般の方』というものがわかっていない浮世離れした知識人を同じような知識人がディスる」という感じであろうと思ったら、本当にそうであった。確かに、経済学を元にするマルクス主義が弱まってから、リベラルみたいな人たちは、明治以来の文三タイプ、――法学部経済学部は自分の想い人を強奪するような悪いやつらの巣窟、という倫理観に戻ってしまった側面がある。また最近は、確かに、「エビデンス厨 対 概念操作厨」の戦いを演出してツイッターで囀りあっている人たちもいる。内田樹もいつのまにか正義の味方に、東浩紀も若手を使い捨ててるだけ、宮台真司は社会学をちゃんとやってるか怪しい、柄谷行人は「比較優位説」を勉強しろ、そうじて経済学と若者の窮乏がわかっておらぬ……、某古市はいいかげんにしろ(←これだけはわたくしでもすぐわかる)、とまあそうかもしれぬ。でも、「大学の先生は、みんないいところに住んでる」「荒川区とか足立区に住んでみろ」とかいう議論が最後の方で出てくるので、なんだかなあという感じがした。北田栗原後藤の仕事をちゃんとフォローしていないので何とも言い難いが、このままだと昔の「社会問題講座」にはまったマルクスボーイと同じではないか。昔も、そういう人たちが「一般の方」の複雑さとバカさに絶句して何も言えなくなってしまい、相変わらずの煩悶で抵抗者面をしていた。井戸端会議のような鼎談の企画だから別に過剰な期待はできないが、もう少し小出しでいいから、おっ、という認識を入れ込んでほしいものだ。

もう、批評のプロレスで溜飲を下げる時代は様々な意味でおわっとるのである。

確かに、内田宮台東なんかがある時期から若者に対するあからさまな絶望を口にするようになったことが何らかの思想的な事件なのはわかるし、2007年の「丸山真男をぶん殴りたい」の人の登場が一つの曲がり角だったのもわかる。わたくしも、調子こいてそのころプロレタリア文学を再読して恥ずかしい論文を書いたことがあるからだ。しかし大概、そのころから数年の間に、大学で若者を相手にする教育者は、想像を超えたショッキングな目に遭っているに違いないのである。病気なのか病気のふりをしているのか、お偉方や親をまねしているのかよくわからんが……、信じがたい人間が大学で大きい顔をするようになったのだ。だから、――確かに、若者論を刷新したいのなら具体的なところから始めるのには大賛成だが、内田氏に限らず彼らは病棟みたいな大学を抜け出し、論壇で息をついているのである。――ナルシスティックになって当然だとわたくしなんかは想像する。まだ息をつく能力があるんだから煩悶するよりもましなのだ。

それにしても、誰が誰のおかげでデビューしてきたとか、業界の人はよく知ってるなあ…どうでもいい…

わたくしも、内田氏の二〇一三年の発言――「私は今の30代後半から45歳前後の世代が、申し訳ないですが、“日本最弱の世代”と考えています」http://trendy.nikkeibp.co.jp/article/column/20130108/1046779/?rt=nocnt
を覚えている。しかし、わたくしは北田氏のように激怒しなかった。北田氏とわたくしは確か同い年であるが、わたくしは大学院の頃からそのあたりの(自分たちの)世代を相対主義的な幼稚さにあふれた「日本最低の世代」と考えていたからである。わたくしは内田樹の言う「最弱の世代」に、なにか、弱い怪獣に対する哀れみみたいなものを感じて、わたくしの怨恨に凝り固まったセンスを呪った。

いずれにせよ、慷慨談は表現として心を打たなければらない。内田や宮台や東に勇み足の言説が多いのは当たり前ではないか。慷慨談なんだから。そして、慷慨談の流行は必要でもあるがそれだけではどうにもならないのも当たり前である。生身の彼らを知らないが、どのような行動をする人たちなのかが非常に重要だ。教育の世界では、こつこつと現場を支えている人と、研究授業がまあうまくて偉ぶりたいタイプというのはだいたい別人物であり、大学や思想結社の場合はちょっと微妙なところがあるが、果たして……

そういえば、朝、『週刊読書人』をめくってたら、千葉雅也氏と増田聡氏が対談してて、これがまた、ちゃんと対立すべきところが対立していない、なんとも煮え切らないものにみえた。彼らも「一般の方」への顧慮が強すぎるのではないだろうか。文章での彼らをそのまま対談でも生きればよいのにと……。

子ども目線の映画

2017-06-17 23:37:32 | 映画


子ども目線といったことばを聞くと、「ブルーベルベット」を思い出す。この映画は非常に素朴な映画でわたくしなど、小学生の頃のどぶ板とか田んぼの世界を思い出すくらいだ。世の中はふしぎなことばかりであるが、その代わり、チューリップや蟻などが大きく見える。この世界に帰ることはできない。大人や教師が想像する子ども目線など、疲れた大人の妄想である。

日米架空戦記 対 反知性主義

2017-06-16 23:35:23 | 大学


今日の授業では、『日米架空戦記集成』と森本あんりの『反知性主義』のお話をする。話が脱線して(してねえが)、「バックツーザフィーチャー」とか「不立文字」とか「自問清掃」とかの話もする。学生諸君には、今日の話が非常に深刻な話であることを自覚してもらいたいと思った。人ごとではないのだ。

学者が、学生に正攻法で語るのではなく、これ以上わかりにくいアイロニーで語ったりするようになったら終わりである。アイロニカルになるのは格好をつけているのではなく、正攻法で語ると自分の誤読を疑わない異常者の相手をしなければいけない危険性が高まるからである。だから、そういう人たちが理解そのものを諦めてもらえるようなレベルに表現方法を設定するのである。無論、そうなるとある程度言論の公的性格を諦めなければならない。そして勿論、そんなのは教育ではない。