★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

赤シャツ

2022-09-30 23:33:59 | 文学


挨拶をしたうちに教頭のなにがしと云うのが居た。これは文学士だそうだ。文学士と云えば大学の卒業生だからえらい人なんだろう。妙に女のような優しい声を出す人だった。もっとも驚いたのはこの暑いのにフランネルの襯衣を着ている。いくらか薄い地には相違なくっても暑いには極ってる。文学士だけにご苦労千万な服装をしたもんだ。しかもそれが赤シャツだから人を馬鹿にしている。あとから聞いたらこの男は年が年中赤シャツを着るんだそうだ。妙な病気があった者だ。当人の説明では赤は身体に薬になるから、衛生のためにわざわざ誂らえるんだそうだが、入らざる心配だ。

――漱石「坊っちゃん」

今倭水人好沈没捕魚蛤

2022-09-29 23:43:08 | 文学


我くるしむも是ゆへなり。藤には春の。雨風をだにいとひしに。ましてや人の手して。折事の情なし。昼見らるゝさへ。惜きに。見ぬ人の為とて。折て帰りし人の。妻や娘のにくさに。かく取かへしにありくと。いふかとおもへば。いつともなふ。影消てなかり。

二〇世紀初頭の西洋の女優の写真など見ると、花で自身を飾っていることがある。そういえば、我々はあまりそこまで直接的には飾らなくなった気がする。お花の柄などはどちらかというと中年以降の主張みたいな見方すらあるほどである。我々は抽象性に美意識までをおかされている。

今日、はじめて『魏志倭人伝』をしっかり読んでみたが、なかなかいい紀行文だと思った。邪馬台国論争の道具にされてしまったこの書であるが、紀行文としてみれば十分だ。伝聞や事実誤認はもちろん含まれているのは当然なのであるが、感じられるのは、――海中の孤島に広がる様々な倭国の諸国を、今のような上から目線や差別心ではなく観ている感じである。差別心と観察眼は人の考えるほど前者に常に支配下に置かれる訳ではない。

夏后少康之子、封於會稽、斷髪文身、以避蛟龍之害。今倭水人好沈没捕魚蛤、文身亦以厭大魚水禽、後稍以爲飾。(夏后少康の子が、會稽(浙江紹興)に封ぜられ、髪を断ち体に入墨をして、蛟竜の害を避ける。いま倭の水人は、好んで潜って魚やはまぐりを捕らえ、体に入墨をして、大魚や水鳥の危害をはらう。後に入墨は飾りとなる。)諸國文身各異、或左或右、或大或小、尊卑有差。(その道里を計ってみると、ちょうど會稽の東冶(福建閩侯)の東にあたる。) 其風俗不淫。男子皆露紒、以木緜頭。其衣橫幅、但結束相連、略無縫。婦人被髪屈紒、作衣如單被、穿其中央、貫頭衣之。(その風俗は淫らではない。男子は皆髷を露わにし、木綿 (ゆう)の布を頭に掛けている。その衣服は横幅の広い布を結び束ねているだけであり、ほとんど縫いつけていない。婦人は、髪は結髪のたぐいで、衣服は単衣(一重)のように作られ、その中央に孔を明け、頭を突っ込んで着ている。 )

(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AD%8F%E5%BF%97%E5%80%AD%E4%BA%BA%E4%BC%9D)


「今倭水人好沈没捕魚蛤、文身亦以厭大魚水禽、後稍以爲飾」と、自分の文明から観てちがうようでいて同じ肉体の様子をみている。入れ墨が飾りとなる歴史まで日本人の肉体から想像する。入れ墨が動物への威嚇の方法だったこと、つまりほかの動物の大げさな形状との関係において描かれるくらいなのである。同じ人間の違いなど無に等しい。そのなかで生じてくる戦争と中国との権力関係は、いまの権力関係はちがっていたに違いない。相手を野蛮に思うことは、自らの野蛮性と相通じていたに相違ない。わたくしはとりあえずそう思った。

昨日から、菅前首相の弔辞、あれは誰かゴーストライターがいたに違いない、みたいな話題が盛んである。役所的観点から言えば、スガ氏個人の完全なる原稿がああいう場でそのまま成立することはありえない。もとは自分で書いてるかもしれんが。逆に、なんのチェックも入っていなかったとすればそっちの方が問題だ。おれは子供の頃から弔辞を5、6回ぐらいやってるけれども、誰かにチェックしてもらって読んだし。。。ケースにもよるが、弔辞であまりに個人的な感情を吐露しすぎるのはよくない。一部は涙してくれるかもしれないが、「調子に乗るな」という反応も必ずあるものなのだ。故人は弔辞をする者にとってだけの故人ではないからである。菅氏の弔辞が個人的感慨を強調しているのは、安倍氏の評価を我々が決めますよ、「国葬」の意味合いも公共的には決めませんと宣言しているようなものだ。そもそも友人代表みたいなのが国葬で弔辞をやるべきとも私は思わない。総理大臣がAIみたいに喋ればそれでよいと思う。要するにAIなら、国民の総意が機械的に生成されるかもしれないからである。

むろん、冗談である。そんなことをしても意味はない。国民の総意とは合意形成プロセス全体のことであって、意見の集合のことではないからである。総理大臣とか国会議員はわれわれの抽象的存在で人間じゃないんだ。しかし現実はもうちがっている。今回のように、現象として――街の声がAIみたいになって、お偉方が「人間的」になっている。三島由紀夫のいった、毛沢東の言葉は人間的だが幇間たちの言葉は読めたもんじゃない、という現象の本格的な到来である。

で、現象ではない我々の実態は、そのいずれかでもなく、全体的に読めたもんじゃないのだ。ナルシスティックなセンチメンタリズムがぬけない場合が多いからである。自虐も保守もナルシスティックなのでお互いにキモくてやってられないのであった。個人の輪郭は結構だし、決然的自我も結構だが、その甘さとふにゃふひゃしたかんじが耐えられぬ。で、それを自意識上に投影した観念は怨恨である。本当は、我々の世界はもっと魚を捕まえて入れ墨で相手を脅す世界から離れていないにも関わらず、である。

ズッ友だったかはともかく、安倍政権は菅氏のおかげである。で、菅氏を支えていた強力なやつもいる。個人のリーダーシップなんかしれたもんだ。

わたくしは、「新しき言葉はすなわち新しき生涯なり」っていう高校の玄関の前に据えられた藤村の碑をみて高校時代を過ごした。これはなかなか言えないわ。新しき言葉は、魚との関係ではなく、権力関係としての人間関係に絡め取られ、言葉の意味は権力によって決まってしまう。だからわれわれは、つい、もう言葉を信用しないあり方、友情とか信頼とか、そういうものに惹きつけられてしまうわけである。菅氏の弔辞の内容は、嘘が支配する権力関係の言葉にもかかわらず、その生々しいあり方への意欲に於いて正しいような方向だけは向いている。それ以外は間違っていても、それで人々がそこに酔うことは至極当然の話なのである。

エレキングとホルスタイン

2022-09-28 23:46:29 | 文学


牧場といふとひどく大げさであるが、牛は六七頭しかゐない。みなホルスタイン系の乳牛で、その乳は重病室の患者達に飲まされてゐる。この中には東洋一と折紙のついてゐる名牛もゐるさうで、名前は、ジョハナ・インカー・メー・バートルハイム号、ホルスタイン純血だと牛舎の人達は誇つてゐる。
 二三日前の夕方、納骨堂のあたりで暫く雲を眺めてからそこを通ると、Y君が私を呼んで、牛乳を振舞うてくれた。冷いのを、私は湯呑にすくつてがぶがぶと飲んだ、その時彼は、夕陽を浴びながら草を食んでゐる牛を指して、
「あの中でどの牛が一番好いかね。」
 と訊くのであつた。私は牛のことなど勿論判らないので、一番毛並の良く、艶の優美なのを指してみた。すると彼は、
「あれがジョハナ・インカー・メー・バートルハイムだよ。」
 と教へてくれた。やつぱり名牛になると、どんな素人にも判るのに違ひない。


――北条民雄「牧場の音楽師」

粟散辺地とて心憂き境なり

2022-09-27 23:03:26 | 文学


独ねられぬまゝに。世の無常をぐはんずる時。寝させ置たる。二人の子共。現に声をあげて。びくびく身のうごく事。三十七度也。

猟師の夫が鳥撃ちを生業としていたが、妻はそんな殺生はやめてほしかった。そして夫が仕事に行っている間、懊悩していたら、子どもが三七度びくびく動いた。ちょうど夫が殺した鳥の数だった。このはなしは「物は仕入によつて何事も。」(物事は訓練次第だ)と始まっている。思うに、この仕事の熟達というもののオソろしさ、というか、物事は熟達するとそれだけで世界の「構成」を変えてしまうところがあるのだと思う。いまだって、自称「プロ」はたくさんいて、彼ら自身は、単に自分の範疇だけが美的に映っているであろうが、それによって、見え方ではなく実際に世の中がゆがんでいる可能性があると思うのだ。

今日は、安倍氏の「国葬儀」であったが、こういう行事が、明治や戦後の吉田茂のころと同様に遂行され得ないのは、内閣が頭悪くなっているからではなく、葬儀自体が素人がやってはならぬプロのビジネスと化しているからでもある。我々は、国葬儀どころか葬儀自体に対する肉体的感触を忘れかけている。わたくしは。国葬なんかはもともと我々の文化とは何の関係もなく発動した張りぼてだと思っている。が、それでも、「ごんぎつね」みたいに、自分の家族を近所の人間と送ったことがある状態だった場合には、「国葬」にもまだ「国葬」の内実が国民によって仮想的に意味づけがなされる可能性があったと思う者だ。しかしいまは、わたくしの目には武道館も文化的なものにみえず、下品な施設にしか見えない。そもそもあそこは葬儀をやるところではねえ。

日本近代文学は嘔くような努力で、西洋文学と漢文と古文の合体を果たしたが、これは言葉だからなんとかなった側面があり、音楽とか建築のそれにはなんか猛烈な異和感があるのだ。しかしそれはわたしがそれらを余り勉強しなかったからで、我々の習合的文化への納得はどこかで勉強が必要じゃないかとも思う。しかしまあ考えてみりゃ、言葉の分野こそ勉強が必要で、そうじゃない場合はしなくてもよいのかもしれない気もする。すなわち、近代文学が異形な形で習合を遂げた事態を学んだわたくしにとっては、なにかハードルが高い気がするだけかも知れないのだ。しかし、たぶんそうではない。文化が「生活」に近づいた学校的なものに駆逐されつつある証拠なのだ。

安倍氏がもたらしたものは大概、日本の学校文化もどきに適応した多くの人民の望んだことだっただろう。学校文化の儀式とは、未来が空白というところに特徴がある。学校は実はその空間の維持が最優先で、未来に責任をもたないし、持ってはならない。「二十四の瞳」みたいな、労働からの解放を学校がになっていた時代とはちがい、そこでは良くも悪くも自足的な何かになっている。しかしこれは我々の国家そのものの姿である。それは、何も崇拝せず、なにも目指さない。そのかわり「未来もガンバロウと思う」というせりふだけがあるような世界である。今回の国葬儀は安倍の神格化ではなく、安倍の神格化に移行しない雰囲気の神格化ともいうべき事態をもたらしている。

いろいろな人が言っていたが、ほんと、今回の国葬儀、どこかの体育館での卒業式みたいだった。もうすこしちゃんとみてりゃ、在校生による呼びかけでもはじまりそうな雰囲気だった。(途中でテレビ切っちゃったからしらないけど、もしかしてやったのか?)国技館はモデルの夢殿というよりやはり体育館だ。

かかる、「二一世紀の日本の教育」を輸出しようという動きはほんとにあって、「大東亜共栄圏」もどきは教育から再出発という感じである。冗談じゃねえわなという気がする一方、日本で多くの人間に抵抗感がなかったことをあまりなめてはいけない。

学校の現場は、アクティブラーニングとかもっともな理屈を伴いながら、実際には、学力的・人間的に卓越した教師が減少することによって、ゆるい子ども同士の協働の練習の場みたいなものになりつつあるが、これを最低の全体主義ととるべきか、なにか革新的なものとみるべきか。前者ととるのが常識だとしても、我々はその何も無い虚無からなにかを生み出さないとも限らない。いまのところ、仕事が出来る一部に残った仕事を押しつけることでなんと社会をまわしているようにみえるので、その協働の練習とやらは大失敗だと思うが、人間将来的にそんな底のような状況でもなんとかしてしまう側面もある。

日本はもはや閉じていないことも幸いするかも知れない。西洋列強にいろいろぶっ壊されたところから何か独特な者が出てくる可能性があるのか、今日来てたある種の諸外国のお偉方はちょっとは考えただろうと思う。文学と思想しか塹壕はないんだとわたくしは思うが。。。経済のことだけを無理に考えてると自分の姿に盲目となり、ほんとに昔のくり返しになりかねない。本質的に、負け犬意識、「弱者」の意識が絡んでいるからである。

とにかく弱い者いじめはよくないというのが、昨今、国民の集合意識みたいになっており、国葬をやったほうも国葬に抵抗したほうも自分こそいじめられていると思っているところがやっかいだ。そして少しずつそれは当たっているからである。内田樹氏なら、「それは植民地だから」と言うであろう。しかし内田樹氏に言われるまでもなく、それは意識すべき当為ではなく、現実をつくっているコモンセンスなのである。するべきなのは、その意識がどのような作用を人間にもたらしているか、に対する冷徹な観察である。思うに、人間いじめられると、けっこう嘘をつくようになるのだ。いじめてる方もそうかもしれないが、この自意識的なめんどくささから逃げ回ってると、嘘をつくことに抵抗感がなくなって、そのなかの一部の人は脅迫とかも平気になる。安倍氏もその周辺も最後までいじめられっ子の自意識がついてまわっていた。脅迫と嘘というのはおもったよりも近いものだ。そして、脅迫された嘘をつかれたという怨恨は、それをしてもよいという意志に簡単に転化してしまうのである。「羅生門」の下人をみるがいい。

弱者にはいろいろな奴がおり、素直な善人(そんな人間はいないが)だけじゃなく意地も悪けりゃずるい奴もファシスト紛いもいるわけである。そこにピタッと寄り添っちゃうのは、通俗唯物論に似た暴力だと思う。芥川龍之介は、そうではないあり方をじっくり探っているうちに、不可能だと思ったのだろうと思うのだ。だから亡くなった。

この弱者意識は、わが国の状況のみからきたものではない。ヒューマニズムからもきたものだ。我々が子どものときに暴力を禁じられたために、かなり身を守られるようになった一方で、加害者であることの感覚が分からなくなってしまっている。で、潜在的に暴力を受けることがあり得る弱者と自分を規定しがちなのだろうと思うのだ。こんな状態では、なにをやっても行為が受け身的に意識されることになるだろうと思う。ついに遅れてきた、「客観的状況に責められる近代的主観」的意識の誕生である。そんなものは現実には存在していないのである。むしろ現実に存在するのは、客観と主観の混淆である。これはアニミズムですらない。菅前総理が弔辞でこんなことを言っていた。亡くなった安倍氏は岡義武『山県有朋』を読んでいた途中で、その読んだ最後の頁には伊藤博文暗殺をうけた山県の歌が載っていたという。

総理、いま、この歌くらい、私自身の思いをよく詠んだ一首はありません。「かたりあひて 尽しゝ人は 先立ちぬ 今より後の 世をいかにせむ」


言うまでもなく、責任とかを考えるタイプの人間であれば、自分で歌をつくるとかしないといけない。菅氏は山県ではないし、伊藤博文は安倍氏ではない。たしかにここで聖書みたいなものがある国は便利だ。しかし、それをありがたがるのも飽きていることは確かである。

アクチュアリティと「意味」の世界

2022-09-26 23:03:12 | 文学


あまたのけんぞくを集め。さてもさても世の中に。檜物屋程。おそろしき物はなし。かさねて行事なかれ。思へばにくし。けふのうちに。此御山を焼拂ひ。細工人奴をはだかになすべしと。


天狗が美少女に化けて檜物細工屋のところにやってきて、何の拍子か鼻に道具の一部が当たって腹をたててしまったのである。その怒りは上のようにすごく、高野山を焼き払い、細工人を裸にしてやると。ここである坊さんが身を天狗道に落としてなんとかしようと障子を翼に飛び立っていったのだが、結局その寺は天狗のものになってしまった。

怒りの矛先はいろいろあるものだが、そのままの結果をもたらさない。例の暗殺事件だってそうなのだ。我々は歴史に拠ってしか、事態を知ることはない。明日の国葬に、当該暗殺事件を元にした映画の上演がぶつけられるということで話題になり、その上映を九州の映画館がとりやめたみたいなニュースもとびこんできた。そもそも、ほにゃらら事件をもとにした映画というのは結構難しいジャンルだ。考えてみりゃ大河ドラマだって過去の暗殺事件をやたらなめ回しているわけで、これはこれで見られなくはないわけだ。が、現在に立脚して描くのは結構難しいことだ。大河ドラマなどは、「歴史が判断する」みたいなカスみたいな意味では有効なのではなく、歴史が我々の不見識を助けてくれるところはあるからである。アクチュアリティを実現するのは――、映画と違うけど、若い大江健三郎ぐらいだろう、なんとかやれるのは。三島も何回もそういうことやったけどあまり上手くいってない気がする。(訴えられたぐらいだ。彼の派手な死に方は、アクチュアリティの実現という意味もあったに違いない。)アクチュアリアティに立脚するってことが、三島にとっては、なんか燃え上がるきれいなベッドシーンになっちゃうところがあるが、大江の場合は、例えば「炎症をおこして懊悩する僕のペニスのための!」(『万延元年のフットボール』)といった台詞にそれがあって、――こういう台詞を投げ込んでくるタイミングがイチローのヒット並みに精確なのだ。

この運動神経は、人間特有のものがあるような気がする、というかそう信じたい。思うに、ゴダールの「映画史」なんか、これからAIがそれっぽい映画史を紡ぐことへの先制攻撃だったのかもしれない。

そういえば、さっき、中国語訳の『万延元年のフットボール』の当該箇所をみてみたが、あんまり感じが出ないな。(中国語がわからない筆者の感想です)というか、我々の読書の感覚の大部分は、カタカナとか横文字とかから受ける感覚をでこぼこさせているだけなのではないかと思うのである。これが漢字だけとか横文字だけだと、感覚以上に敏感にならないと「意味」を読めない。その敏感さが、「意味」――行動や思想への欲望をつくる癖を生んでいるかも知れない。少なくとも、我々は自分たちの文章のでこぼこした感覚でなんとなく「意味」以前に世界と和解しているところはある。

大学生のころ、自分の方が正しいんじゃねえかなと授業を受けてて思うこともあったし、先生と屡々意見の交換になったこともあるが、たぶん正しいかどうかで言えばいまでもいくつかは自分の方が正しいことがあったと思う。ただしそのころわたくしがわかってなかったのは、正しいことよりも何をしたかで人生は決まるということであった。そして、その正しさと自分の体や精神との戦いの方のほうを、正攻法で行わないとすべてが崩壊するということであった。そういう意味で、いま大学教員やジャーナリストが行っている面従腹背みたいなものは、その戦いを精神上のものとしてのみ捉えている意味でたいがい自己欺瞞に陥っている。だから、ますます言葉の上で正しさにすがるみたいなことが起きやすくなるわけである。これはリベラルでも権力の幇間でも同じことだ。

そう考えた上で、だいたい言ってること総体で欺瞞的であるかどうかは判断がつくという世界があり得る。そのときはじめて、リラダンのいわゆる、

Vivre? les serviteurs feront cela pour nous.(生きることか?召使いに任せるよ)

というせりふが意味を持つのである。

殺された下男と出家したお姫様

2022-09-25 16:52:51 | 文学


おのおの世の不義といふ事をしらずや。夫のある女に。外に男を思ひ。または死別れて。後夫を。求るこそ。不儀とは申べし。男なき女の。一生に一人の男を。不儀とは申されまじ。又下々を取あげ。縁をくみし事は。むかしよりためし有。我すこしも不儀にはあらず。その男は。ころすまじき物をと。泪をながしたまい。此男の跡。とふ為なりと。自髪をおろしたまふとや。

お姫様に惚れていた下男であったが、お姫様の方でもそのぶおとこを好きになり、二人で出奔したところ、見つかってしまう。男は死刑、姫様も自害をすすめられるが、「私は不義などおかしておらぬ。不義というのは相手があるのに裏切ることである。辞書持ってねえのかよこのスカタン」といいはなち、ついに坊主になってしまった。

お姫様だけ助かるのは許せない。

「生きづらさ」とか「困りごと」という言葉が流行っているが、それを訴えてくる奴がたいがい俺よりもハッピーであるようなので許せない。たいがい、長く苦悩した方が負け、刹那に感情を動かしたような奴が生き延びるのがこの世の中である。大概の人を救う理論もそうで、長く我慢した人用にはできていない。長く反戦運動して係累を殺され自分も乱暴されたりして心をおかしくした人よりも、ベトナム帰還兵のほうがケアがあついのだ。「アサーショントレーニング」はそういうものであって、――おれなんか、こんなものを処された日にゃ、思弁的実在論の話の途中で突然「おれはそんなことより広瀬すずが大好きだ。でんでん虫に似てるから。」とか言ってしまいそうである。しかもそれが結論で。正直に言表出来たなら、「生きづらさ」や「困りごと」は、おれたち自身でも恐怖するぐらいの想像を超えた複雑さで現れるのだ。自分も周囲もおかしくなってしまうであろう。

複雑すぎるのか偶然なのか、そこはわからないが、「悲劇」というものはそれを表現するために生じた。でも、シェイクスピアでさえ、王様の息子や金持ちのお姫様に同情的であって、かわいそうな我慢し続けている人々を観客に押し込めたままである。例えば、マルクス主義者が官僚的になるのは分かるけれども、もともと官僚も官僚として生まれたわけでもなし、官僚しか逃げ道がなかったと考えた方がいい時代も状況もあるに違いないのである。

精神

2022-09-24 23:32:51 | 文学


二郎兵衛は。そろそろ庭にをりて。天目ひしやくを取て。息つぎの水呑ありさま。舌の音して。人にすこしも替る事なし。其跡はあつもりの。若衆人形にとりつき。またはおやま人形にしなだれ。色々の事ども。宵のこはさやみて。おかしくなりぬ。

「形は昼のまね」――、若衆人形やおやま人形にしなだれかかったりしている人間を操っていたのは狸であった。もっとも浄瑠璃を操っている人間が狸など及ばない怖ろしいものであることは明らかである。

浄瑠璃の黒子にしろ狸にしろ、人間には精神があることを示すものであった。ただの人間ではそれを示せないのだ。同じ趣味や好みを持つ集団にいくと、かならずその集団のもつ「思想」?に共鳴出来ずに離れてしまうのを繰り返す人間がいる。たいがいわたしもそうで、こういう人間は思想的共鳴に免疫がなく、危ない存在であることは言えると思うが、――その「思想」とやらが、人間には属しない何かであることは気付いている。だから、これに対しては「精神」で対抗する他はないと思う。こういう人間はいつも歴史上いたと思う。

この「精神」は制度にはならない。わたくしが大学院に行ったのは、やっと学校制度から遁れて遊んだり修行できると思ったからというのが大きい。今みたいに学校みたいになってる状態だったら行ってない。行ってみたら、やっぱり学校だったわけだが。はじめは、ほんとの話、学者になるかどうかはあんまり考えてなかったのだが、就職活動としての学問が始まってからほんと調子狂っちゃって、それ以来体調が悪い。わたくしを支えていたのは「精神」しかない。当然であるが、博士何人出すみたいな目標がうまいこと達成されるときは、その計画によって目標が達成出来たように錯覚されるが、そうではない部分からエネルギーをもらっている場合が多く、案外計画制度がしっかりするより前に最盛期があって、そのあとは衰退の一途を辿る。こんなのはよくあることでそんな常識的な事態を忘れたやつが制度設計をやろうとしているのが狂ってる。実際のところ、いまの日本が全体主義的戦争すらできないのは、抵抗の「精神」すら存在していないからなのである。

昨日の夜から大江健三郎よんでいたんだが、わしはかなり影響を受けていたんだと判明した。そうか、長年読んでなかったけど、こういう息づかいがやってみたかったんだなと思った。いまはとても読みやすい文章だと思う。人文系の論文のセンスをきめているのは、その業界内じゃなく、大江みたいな「精神」的存在である場合がある。業界人が業界内のみで人格・学問形成を行う場合には事態が好転しているとは言えない。もうほんとはそれは「業界」ではなくなっているからである。大江健三郎の文章はリズムの力でたぶんそこかしこを削って成り立っており、その意味では和歌的かもしれない。むろん、大江は和歌ではないものを目指していたから和歌的なのである。

経験とモノ

2022-09-23 23:06:59 | 文学


もともと生活環境がひと世代くらい遅れていたところに、古い世代を研究しているせいもあって、昭和初年代生まれぐらいのひとと馬が合っていたのだが、もはや彼らもだいたいいなくなり、若造臭がする戦後生まれは名誉教授となった。そして気がついたら、おれよりも年配な感じがする、大正生まれみたいなファシストたちが20歳ぐらい下から台頭し始めている。わたくしはやっと自分より年配であるような連中と一緒に生きているのだ。

わたしは昔から虚弱で喘息だったせいかあまり動かない人で、その意味で、同じような動きの老人たちと気があったのかもしれない。――とは思うが、そんなことはない。わたくしの信じるのは精神的経験のみである。

我々はほとんどそういう「経験」を経験しない。なぜかというと、その経験に対する意味を経験することが頭がいいことになっているからである。教育実習でも目撃するのは、テキストの「経験」を、一般的で、しかもまったく使えない原理(エッセイの書き方とか、意見の言い方)を置き換えてしまう授業ばかりで、つまらないこと限りない。つまらないというのは社交辞令で、ハッキリ申し上げて精神に対する暴力といってよいと思う。これは、文科省やある種の教育者の気が狂っているのはもちろん、社会のあり方の変化にも原因がある。例えば、メディアの発達やコンサートのある種の世俗化で忘れられがちであるが、音楽はそのほとんどが演奏する者自身の「経験」=楽しみにこそある。オーケストラのなかにいると、自分の音は下手すると自分でも少し聞こえないときがあるが、一緒に演奏している面白さがあるのでいいのである。それを聴衆の満足とかで相対化するのが頭がいいみたいな意見があるが、頭が悪いのはそういうことを言うやつである。

さっきスコアをみてて気付いたんだが、ショスタコービチの第7交響曲の最初の主題は、弦の裏?でファゴットが必死に演奏している。これは普通の再生装置だとほとんど聞こえてないが、当然ながら経験されている。しかし奏者ほどの経験は他の奏者はしていない。ショスタコービチの交響曲におけるファゴットの重要性は言うまでもないが、――大音量をほこる楽器群との関係で、演奏者は自分の音の意味を演奏中に考えるにちがいない。演奏はほとんど社会の経験に近いものだ。上で、「弦の裏?でファゴットが必死に演奏している」と述べたが、正確にはこの曲のファゴットは、弦に1小節遅れて入って来のだ。これにもおそらく意味がある。ファゴットは曲の中で孤独な者のようにみえるが、孤独な者もあわてて大勢について行くときがある。

彼塚をほるに。初めのしやれかうべなき事。不思義ながらよもやこたで置べきかと。心をつくせし甲斐なく。判八も又。かへり打にあいぬ。

「因果の抜け穴」で、敵討ちに失敗した親子がいて、子は捉えられた親の首をきり取って逃げた。首を埋めようとすると、殺された兄のしゃれこうべが出てきた。で、前世にてあの家の8人を殺したことがあったので、因果だったのだ、と語る。因果が明らかになった以上、その生き残った子も最終的に返り討ちにあって死んだ。

ショスタコービチの世界では、こういう因果は描けない。しかし、西鶴には因果みたいな『あるかないのか』の世界ではない、主題と主題の絡まり合いみたいなものが描けない気がする。交響曲は二項対立の世界であるにもかかわらず、二項のかたちによっては調和がありうるのだという不思議が語られている気がする。西洋音楽は、そういう調和を見捨ててしまったが、それを夢みた記憶が残っている。二項それぞれが豊かな「経験」でありうる希望がある。日本では、まだ二項がモノ化して同一化しがちなのである。しゃれこうべの同一性みたいなものである。

Qu’est-ce que l’art? Prostitution.

2022-09-22 23:36:40 | 文学


信長公の。御前にての物語に。りやうじゆせんの。御池の蓮葉は。およそ一枚が。弐間四方ほどひらきて。此かほる風。心よく。此葉の上に。昼寝して涼む人あると。語りたまへば。信長笑せ給へば。和尚御つきの間に立たまひ。泪を流し。衣の袖をしぼりたまふを見て。只今殿の御笑ひあそばしけるを。口惜くおぼしめされけるかと。尋ね給へば。和尚ののたまひしは。信長公天下を御しりあそばす程の。御心入には。ちいさき事の思はれ。泪を洒すと。のたまひけるとて。

信長の野望と、二間四方の蓮の花とどちらが大きいのか。いまも、権力を前にしてこういうおべんちゃらを言う人間があとを絶たない。もっとも、この坊主は、信長が仏教に対してどんな態度に出るか恐れていたのかもしれず、笑われただけだけだったのでついほっとしてしまったのかも知れない。

そもそも、蓮の葉が大きいとか、竜がでかかった、みたいな話は、必ずしも殺伐とした話にはならない。そういえば、『ドラゴンボール』のアニメバージョンには、ピッコロ大魔王を倒した孫悟空が、牛魔王の娘チチと結婚して彼女の実家に帰ったら、火焔山が大爆発し、芭蕉扇で消そうとする話がくっついている。鳥山明の原作にはない話であり、孫悟空の新婚生活が甘く描かれているのだが、もともと「西遊記」のパロディである側面が復活し、悟空の人為的なパワーではどうにもならない世界が描かれているのであった。これは蓮の葉がでかいという類いである。しかし、ここでなんかしらんけれども、悟空夫妻の愛の力みたいなものが大きいという話にもなっているわけだ。

思うに、――戦争も火焔山が大爆発みたいなものであり、これを内戦に転化するとか言ったレーニンだがは、あまりにもピッコロ大魔王と孫悟空の戦いみたいに世の中を見ているのではないかと思う。戦争を内戦に転化できなかったところをみると、このまえの戦争は戦争ではなかったのであろう――か。そんなことはないであろう。あるいは、高度成長やバブルこそが内戦をもたらした意味で、経済戦争こそが戦争なのであろうか。そうでもないであろう。

原爆もインターネットも制御不能なものでやばいことは誰でも知ってるが、もともと人間は制御不能なものをつくりたがっているということも否定出来まい。そして、本当に少しつくってしまうのである。しかし、つくられたものは、我々を制御し始めるのだ。昔からそうなのである。斧や原爆だけではない。言葉もそうなのである。大学生の頃、菅谷規矩雄を読め読めと指導教官に言われて、頑張って読んだ。実際、文学研究者の一部に対しては吉本隆明よりも影響力があったくらいだ。吉本になく菅谷にあったのは、言葉を自然に帰すみたいな欲望だったと思う。ただ文章を追っていけば分かるような書き方をすべしみたいなのが幻想なのは、こういう人を読まされた人間には自明である。クリティカルリーディングみたいなのは御託宣みたいなものだ。コミュニケーションが決死の飛躍であることがわかるのに、解釈みたいなのが批判可能なほどに安定的でありうると思っているのが理解出来ない。言葉は、我々には制御不能であり、解釈や批評で制御しきることは出来ない。

同じ國文系の人間からみると、折口信夫というのは怪物的にすごい。しかしこの怪物みたいな感じが國文というやつの本性だと思う。これはわれわれの言語が、「國文」である場合、われわれの人間関係、社会、自分自身、思想と結びあった結果、我々には言葉に見えるものが、その実、その結びあい全体であるところの怪物と化しているからである。ここにしか我々の自我も社会もないが、それはよく分からない。結局、わたしが哲学に行かずに國文に行ったのは、この感覚が理由だなと思う。

昨今の、発達障害の話題は、その者がトラブルを起こしてしまった失言の具体性に欠けがちだが、わたくしはどちらかというと、その具体性だけにしか興味がない。その具体性への分析と原因追求抜きに現状の変革は無理であろう。おそらくその具体性には、我々の社会や思想との関係それ自体が実にさまざまにあらわれていて、――ことに空気が読めないみたいな把握で内容が看過されがちであるが、そんなことで済むはずがない。発達障害の問題を属人的に扱うのは、それが言葉を巡っている病気である限りムリなのである。

その意味で、ボードレールは、芸術が個人のものではないことをよく知っていたのではなかろうか。

Qu’est-ce que l’art? Prostitution.(芸術とは何か?「売春」)

――「火箭」

カタツムリ

2022-09-21 23:05:47 | 文学


アル アサ 王サマハ、石ノ カベニ 一ピキノ カタツムリヲ ミツケマシタ。カタツムリガ ツノヲ フツテルノヲ ミテ ヰルト、王サマハ、子ドモノ ジブン、何ダカ、カタツムリノ ウタヲ ヨク ウタツタ コトヲ オモヒダシマシタ。
「デンデン 蟲々 ツノ 出セヤ ダツタカナア」ト、イロイロ カンガヘタガ、チツトモ ソノ ウタハ オモヒダセマセンデシタ。
「オ前タチ、デンデンムシノ ウタ シラナイカ」ト、オソバノ モノニ キイテモ、
「シリマセン」ト イツテ クビヲ カシゲテ ヰマス。王サマハ、
「デンデン ムシムシ」ト 口ノ 中デ イヒナガラ、ニハヲ グルリト マハツテ キマシタ。ソレデモ、オモヒダセナイノデ、トウトウ オコツテ、カタツムリヲ ツブシテ シマハウト シタ トキ、フツト オウサマノ ココロニ、
「デンデン ムシムシ ツノ フレヨ、夜アケニ、ヌストガ ヤツテ クル」ト イフ ウタガ、ウカビマシタ。ソレト 一シヨニ、ソノ ウタヲ、ヨク ウタツテ 下サツタ、ヤサシイ オ母サンノ コトモ オモヒダシマシタ。
 ソコデ 王サマハ、カタツムリヲ ツブサナイデ、青イ ハノ 上ニ ソツト ノセテ ヤリマシタ。


――新美南吉「カタツムリノ ウタ」


カタツムリは子どもの英雄である。子どもにとって、目を伸ばす動作やゆっくりとした動きが、まるで学校や世界に対する態度である。学校を消化しきれなかった高峰秀子様も『まいまいつぼろ』という本を書いている。彼女の場合は、自分の演技で殻をつくっていた様な気がする。

宇佐見りん氏の『くるまの娘』を読了したが、これもある種の殻の形成を描いたものである。彼女が手本にしているのかも知れない中上健次ですら、終末に向かって服が破れ裸になってゆく感じがするが、宇佐見りんの場合は、終末に向かってすべてを思い出し抱えこむことによって殻ができてしまう人物が描かれるような感じである。時代と寝ている作者なのだが、大江健三郎がテロリストや知的障碍者を小説で「実在」させたように、彼女もそういうタイプの書き手であって、まずはリアリティを抱え込む書きぶりに集中しているようだ。この書き手は、もっと先の書きぶりのことまで考えて勉強している気がする。いまはさしあたり、悪夢的なボレロ、カタツムリに形成してゆくような転がる自我を描いている。

妖蛸

2022-09-20 23:01:59 | 文学


普通五六十本の薪があれば、完全に焼けることになっているが、もう予定の薪は焚いてしまっても焼けないので、隠坊はがまんしきれなくなって、傍にあった漁師用の手鍵を執って死体の腹へ打ちこんだ。と、大きな音がして腹が裂けるとともに、その中から大きな蛸が出て来たが、それが猛烈な勢いで達磨の新公に飛びかかるなり、真黒い毒どくしい墨をぱっと吐いた。墨は新公の顔から胸のあたりを真黒にした。
 新公は悶絶した。それと見て人びとは隠坊に加勢して、蛸を撲殺し、更めて薪を加えて蛸もいっしょに焼いたが、今度はすぐ焼けてしまった。


――田中貢太郎「妖蛸」


蛸は文学でもいつも人気である。人間と似ていないのに、人間らしい。

自由のための雑感

2022-09-19 23:06:49 | 思想


SDGsはTODOリストみたいなものであろうか。そうではなく、いますぐすべてを関連づけてやるべきことなのであるが、そんな風に出来る政府と人民はいない。むしろ、そこには、例えば、社会保障政策をそういわずに「寄り添い政策」とか換言して平気な感性がある。これを看過してはならないのは、「寄り添い政策」なんて口走る人間はいつも何もしないからだし、社会保障の具体を看過するからである。持続化可能という言葉以外のノイズの除去はこれから行われるであろう。大概、持続するためには、無駄を省くことが重要だと受験勉強以来、我々は条件反射するように出来ているからである。すなわち、SDGsは、持続のための弱い者いじめに帰着する。

昨日、NHKの「中流危機を越えて」という番組みてたら、つい生産力理論みたいな言葉が頭の中によぎったやつは俺だけじゃあるまい。危機のための内部留保を、給料が上がらない理由として全体として合理化してしまうのは、いわゆる「一国の生産力の伸展を目標として社会構造の合理的改造を主張した」それとどこがちがうのであろう。現在の場合、生産力の進展ではなく、生産力の見かけの維持(持続)、みたいなものが目標だから、より欺瞞的な感じがする。生産力理論の問題はいろいろあったが、それが一応、国民からの批判的契機を否定出来ないシステムの構築みたいなものであったにもかかわらず、その批判的契機を所与のモノとして考えていたところが駄目だった気がする。システムのための批判は自由を失うのである。循環的だが、そうやって批判そのものが失われるのが、近代的人間の通常運転であった。大河内一男が思想統制は1937から太平洋戦争開始までの間が一番やばかったみたいなこと言っていたと思う。もしかしたら、彼らが自身の理論の現実との関係に悩んだことそのものが、思想統制みたいに感じられたこともあったかもしれない。自分の思想の自らによる「統制」が不能になってきたという。。。

プラグマティズムが一部で流行っているというか研究されているのは知っている。けれども、それは西田幾多郎みたいなアナキズムが好きな論者が多くなってくるのをわたくしは期待していたが、やはりあまりそうはならないきがするのである。例えば、20十年前ぐらいにでた、苅谷剛彦氏の『知的複眼思考法』も根本的にはプラグマティックであった。今回はじめて少し読んだけど、この本が書かれた頃わたくしも似たような教育方法をとっていたような気がして、これはこれで懐かしい気がした。いま多くの大学教員の悩みは、一方的な講義がしたいなあ、みたいなものに対するノスタルジーじゃなくて、知的複眼みたいなある種の葛藤を与える方法が不能になったからであった。しかし、思うに、学生の思考に対立物を与えるという、その精神自体がなにか自由を失ってはいないであろうか。

吉本隆明は「新興宗教ついて」で、教祖が女性であることについて考察してたとおもう。わたしも例の暗殺事件について、女の元首相だったら彼は撃ったのか、宗教にのめり込んだのが母親でなく父親だったらどうだったかと最初に考えたのは確かである。わたしはつい、そのエッセイで吉本が農と性のことを中心に語っていたことを忘れていた。しかし吉本も、その観点を自分の仕事でいかしきれたとは言えないようだ。思考の生産性はかように自分ではコントロール出来ず、むしろ自由をもとめてずれていってしまう。

花★清輝なんかは、その自由を、見かけの「精神的自由」ではなく紋切り型かも知れない「自明の理」に身を浸しその精神的経験に正直になることによる、――自然な弁証法に求めていたようだ。しかしこれもわりと理念的な想定なので、花田は文章上案外作為的に思考を混乱させようとしすぎたかもしれない。これにくらべると、たとえば、ヤンガージェネレーション・つかこうへいの『飛龍伝』なんか堂々と不自由さから出発する。主人公の神林美智子は高松の金持ちの妾の子の設定で、安保闘争で活躍することになるわけだが、この高松ってのがイメージとしてジャンプを感じさせるということなっている。これが高知とか福岡とか木曽だと意味が違ってしまうわけだ。そして、その主人公が機動隊員の男と付き合うところまであからさまに不自由な作為である。しかし、案外これは面白いぞというのが、戦後のエンターティメントだった。紋切り型に身を浸す不自由さに面白さを求めた段階である。しかしそれは、その経験に正直になることではなかった。

大江健三郎の「セブンティーン」や三島由紀夫の「鏡子の家」なんかは、その正直さに挑んだ作品だったと思うが、結局、占領下の日本という現実を打ち破るためには、やる気と気合いだみたいなところに落ち着いた可能性があると思うのである。例えば、本当は、先生というのは、先生なんかやっちゃいけねえわワシはという感じの人がやってちょうどよい世の中であるべきで、天性がないやる気満々の人はやってはいけない。そういう人たちが動員されてしまうのは政治家と同様、世の中に、普通に生きてて普通じゃない、狂ったやる気で乗り切るようなシステムの暴力性(これは子どもや親の行動を含む)がある証拠なのである。こんな状態で、システムに対する批判がありうるであろうか。だいたい社会はシステムではないし、生権力はあるのかもしれないが、そこまで人間は不自由になりきってはいないのではないだろうか。

溶けゆくもの

2022-09-18 17:53:03 | 文学


吉本隆明の大学紛争のころの時評みたいなものをよむと、他人の公的なふりをした私的感情をくさすのはうまいが、自分のそれをうまいこと対象化できない。しかしそういうタイプはつい自分を論理で追いつめてしまいがちで書けなくなってしまうのだが、このひとはどんどん書いてしまう。なにか文章から溶け出すへんなものがある。論理を強調しそれを鎧としてつかいながら、鎧自体が溶け出して次のちがう鎧になっている。普通は越境だとかになってしまうんだが、この人の場合は何かが溶けてしまう感じだ。溶けないのは、彼の生身である。

知的にも倫理的にもインテリや知的大衆の溶けてゆく姿が、彼にはよくみえていたに違いないが、それは自分の姿でもあった。

吉本を浴びた新左(右)翼たちはともかく、その下の世代はその溶け出す知性とはちがったものに向かった。我々の世代である。こいつらは何か溶け出すのをやめた代わりに、自分の皮を纏い続ける、マトリョーシュカみたいな反省する世代である。――ヒロシとか大久保佳代子とかマツコデラックスだとか、前田智徳だとか元木大介とかどこかしら笑いによって――自虐と悲劇性に伴って自分を支えている。最近は、東浩紀氏なんかもそんな雰囲気を纏いだしている。同世代の英雄たちには頑張っていただきたい。

「いや、こはいんだ。京都の人たちは軽薄で、口が悪い。そのむかしの木曾殿のれいもある事だ。将軍家といふ名ばかり立派だが、京の御所の御儀式の作法一つにもへどもどとまごつき、ずんぐりむつつりした田舎者、言葉は関東訛りと来てゐるし、それに叔父上は、あばたです、あばた将軍と、すぐに言はれる。」
「おやめなさいませ。将軍家は微塵もそんな事をお気にしてはいらつしやらない。失礼ながら、禅師さまとはちがひます。」
「さうですか。将軍家が気にしてゐなくたつて、人から見れば、あばたはあばただ。祖父の故右大将だつて、頭でつかちなもんだから京都へ行つたとたんにもう、大頭将軍といふ有難くもないお名前を頂戴して、あんな下賤の和卿などにさへいい加減にあしらはれて贈り物をつつかへされたり、さんざん赤恥をかかされてゐるんだ。京都といふのは、そんないやなところなのです。


――太宰治「右大臣実朝」


最近、吉本の実朝論を読み直したが、昔読んだときによりもあまり面白くはなかった。そこには、上のようなせりふがないからだ。吉本の詩も批評も、このようなせりふを抑圧している。だからその抑鬱感が「バカ」とか「死ね」みたいな罵詈雑言となってしまう。詩というのは、ギリシャの昔から案外公的なものなのである。これに比べて、小説の方が私的である。吉本が小説を書かないのは当然である。私的なものを抑圧しようとしているからである。学生運動のなかにはそういう抑圧と欲望があったと思う。だから彼らは就職による転向も違和感なくやってのけるのである。

悪い奴らは俺が殺る――SDGs

2022-09-17 18:13:55 | 文学


國中の色よき娘。十四より二五まで。いまだ男を持ぬをすぐりて。大踊のこしらへ。それはそれはまたあるまじき事也。其用意の。買物にまいつたと申。めしつれし者ども。何とやら磯くさく。かしら魚の尾なるもあり。螺のやうなるも有。萬の買物をもたせ出行時。あの國の女の。いたづらを皆々。見せましたい事じやといふ。

浦島は、たったひとりで竜宮へゆき、寂しく帰ってきた。晩年は寝覚ノ床で寂しく暮らした。――しかし、積極的に竜宮に人間を誘惑しようという悪辣なやつらもいる。こいつらは、いまでいえば、なんとかポイントで釣ろうとする奴であろう。まったくよのなか様々である。

SDGsというものに乗っかる人たちにも、昔からの地道な社会運動の人たちもいれば、この前アクティブラーニングとかいってたやつが同じ口調でそれを言っている、つまりいつもの人たちもいる。サルトルの言う、アンガージュマンというのに実存がかかっているというのは、飛び込むさきが理念ではなく人間の集団である限りは、その行為自体が必ずしも正しいわけではないからだ。持続可能性とかいうけど、お金持ち、貧乏人、卑怯な性格の人、ひとりも取り残さず持続するというのはいやである。むろん、上のやからはそういうことを狙っているわけで、正しさのルネッサンスを阻止しようという運動がSDGsでもあるのである。これは別にイジワルな見方でも何でもなく、あらゆる理念に関して起こっている人間的な事態である。

しかじかかように、わたくしは優しいリベラルなので、――うちの庭は生物多様性にみちている。おかげで、今年はわたくしのうえた大半の美しい植物が雑草ファシストによって栄養をたたれ殺されてゆきました。来年の手段はひとつ皆殺しである。

わたくしがリベラルなので、――うちの家の庭は生物多様性に満ちている。昨年から、イボ蛙たちのパラダイスと化している。当然蚊などの餌たちもたくさんいる。
1、蚊が俺の血を啜る
2、蚊を蛙が飲む
3、隣家の子どもたちが蛙たちと遊びたがっている。がっ時々庭に出てくるきたないおじさん(わたくし)が不気味(←イマココ

細が庭を芝生にしたがっている。生物多様性を維持するため、かかる画一主義には断固決然抗議していかなくてはならぬ。

わたくしの植えた百日草はことし、なぜか巨大化の一途を辿っている。のみならず、しらないうちに子孫をばら播いていたらしく、庭全体に勢力を広げつつある。花言葉は「不在の友を想う」であるが、どうみても根性は、友人不在の間に人妻を寝取る輩であろう。来年は、所定の位置以外に花開いた奴は姦通罪で殲滅する。上の「行末の宝船」でも、美少女の淫乱な何かを観に行った連中は、帰ってこなかった。竜宮で楽しくしたのではなく水死したのである。因果応報である。

林達夫の作庭記は正直なところちょっといい子ぶってると思う。

二項対立の生滅

2022-09-16 22:37:34 | 文学


ゐんきよくはどうの。氣色に極まり。さりとは頼すくなき身上なり。日比はたしなみ深く。見へたまふが。扨はかくし女のあるかと。尋ねければ。さやうさやうさやうの事はなきと申されける。我にしらせ給はぬは不覚也。命の程もせまるなり。

陰虚火動というのは、房事過度のおかげで精力が減退する病気だが、なんだろう、落ち込んでるが元気みたいな語感である。――というのは冗談であるが、我が国の文化はなにか、バイナリーというか、二面性を失いつつあるんではないかとおもうのだ。ポストモダンの人たちが、やたら「AとしてのB」を使いすぎたせいかもしれない。そりゃ、結局、Bではないか。

水島新司大先生の作品でも、「野球狂の歌」、これは辛うじて狂と歌が同居している。確かに、怨念とめちゃくちゃにあかるい歌が同居している作品である。しかし「ドカベン」は、「畳屋の歌」ではなかった。ドカベンは肥満体型の大打者だがこれはリアルにそれっぽい選手がいたからバイナリーにならない。岩鬼のあかるさは山田の明るさとよく混ざり合う。むかしの「ダイナマイトどんどん」は、ヤクザが野球で抗争する話で、ヤクザと市民、戦争と戦後、日本と米軍などのバイナリーが重ね合わさっているので和音が出る。ダイナマイトとどんどんも、その実バイナリーである。野球の場に移された爆弾が「どんどん」なのである。これが、野球選手がヤクザになっている設定の「ダイヤモンド」となるとなにかバイナリーがあるようでない。題名がなんとなく宙にういているばかりか、高橋慶彦をはじめとする選手たちが、もともとヤクザっぽい雰囲気をなくしていった世代に当たっていて、優しい大男たちが必死に(でもないか)ヤクザを演じようとしているが、演じ切れておらず、――その不完全燃焼の中で、最後の足立梨花氏のホームランシーンだけがすばらしく、結局、バイナリーの時代は終わり、「かわいい」崇拝の時代になってしまったことを思わせる。

そういう意味で、これから復興してくるのは、「男どアホウ甲子園」みたいな作品ではあるまいか。主人公は、甲子園優勝したあと、仲間のブロックサインかなんかをつかって、東大に受かった。その場面はたしか省略されていて、――「源氏物語」の雲隠れ並にすごい省略だった。野球以外は何でも省略なのである。

「いき」に関係を有する主要な意味は「上品」、「派手」、「渋味」などである。これらはその成立上の存在規定に遡って区分の原理を索める場合に、おのずから二群に分かれる。「上品」や「派手」が存在様態として成立する公共圏は、「いき」や「渋味」が存在様態として成立する公共圏とは性質を異にしている。そうしてこの二つの公共圏のうち、「上品」および「派手」の属するものは人性的一般存在であり、「いき」および「渋味」の属するものは異性的特殊存在であると断定してもおそらく誤りではなかろう。
 これらの意味は大概みなその反対意味をもっている。「上品」は対立者として「下品」をもっている。「派手」は対立者に「地味」を有する。「いき」の対立者は「野暮」である。ただ、「渋味」だけは判然たる対立者をもっていない。普通には「渋味」と「派手」とを対立させて考えるが、「派手」は相手として「地味」をもっている。さて、「渋味」という言葉はおそらく柿の味から来ているのであろう。しかるに柿は「渋味」のほかになお「甘味」をももっている。渋柿に対しては甘柿がある。それ故、「渋味」の対立者としては「甘味」を考えても差支ないと信ずる。渋茶、甘茶、渋糟、甘糟、渋皮、甘皮などの反対語の存在も、この対立関係を裏書する。


――「いきの構造」