★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

犬――孔子と匹夫

2019-11-30 23:24:42 | 文学


孔子に語道に似たれども 愚意の及ぶ所をいふのみ。これは後のためなれば。」と理りを演て諫むれば、小文吾もききつつ感服して、「教諭まことにその理あり。[…]あへて武芸を見はし、誉れを求めて、匹夫の勇を好むにあらねど、和殿の諫めは千金にて、我があやまちを知るに足れり。

小文吾は、行徳口の戦いで奮戦する。金棒振り回すなんとかいう人と、鉞を振り回す「赤熊如牛猛勢」(しゃくまにょぎゅうたけなり)を相手に大立ち回り。疲れた金棒の人が斃れると、「朋輩の仇だ」と鉞赤熊牛の人は小文吾(犬田)に猛然と打ちかかる。牛の如しの方の鉞が、犬の人の馬の首を襲う。馬の首飛び散る。馬が斃れる前に、犬の人はさっきの金棒の人の馬を拝借。ついでに金棒も拝借。「赤熊如牛猛勢」の右肩に打ち下ろす。そのまま「赤熊如牛猛勢」は死ぬ。

こんなケモノの入り乱れた戦いを、荘介が諫める。あんたはすごい。しかし、弓で狙われたら危なかったですよ。軍隊が勝つことを考えて下さい、と。

確かに小文吾は「孔子」ではない。どちらかというと犬なので、素直に「ワンそうだね」と納得である。それにしても、「あえて強いところ見せたり、名誉を求め、深く考えず、ただ血気にはやるだけの勇を好んでるわけじゃないんですが、」といういいわけが調子に乗りすぎである。しかし、この犬は、金太郎や熊なんかを一撃に仆すスーパードッグであり、こいつが孔子だとか匹夫とかなんと記されていると逆に笑えてくる。

 武士道は斜面緩かなる山なり。されど、此処彼処に往々急峻なる地隙、または峻坂なきにしも非らず。
 この山は、これに住む人の種類に従って、ほぼ五帯に区分するを得べし。
 その麓に蝟族する輩は、慄悍なる精神と、不紀律なる体力とを有して、獣力に誇り、軽微なる憤怒にもこれを試みんと欲する粗野漢、匹夫の徒なり。彼らはいわゆる「野猪武者」にして、戦時には軍隊の卒伍を成し、平時には社会の乱子たり。


――新渡戸稲造「武士道の山」


近代になると匹夫も惨めなものである。匹夫が孔子であり犬であるような世界がそれ以前はあったのである。「賢い犬リリエンタール」というのはなかなかよかったが、犬が主人に優しいところがいまいちである。芭蕉曰く、

行く雲や犬の駆け尿村時雨

このぐらいの根性は欲しいものである。ただ、いかんせん犬なので、こういう犬は大概いざという時に遁走する。

ゲルギエフと松田華音のロシア音楽

2019-11-29 23:43:03 | 音楽


ゲルギエフがマリンスキー引き連れて松田華音さんと一緒に高松公演をするというので、今日は聴きに行ってきました。

松田さんは高松出身なのだ。六歳で露西亜に行き、数年前にしらんうちにドイツグラモフォンからデビューしていた……すごい……

ゲルギエフは、世界最高の指揮者だとわたくしは思うのであるが、わたくしがロシア音楽が世界一だと思うからでもあって、ゲルギエフのシチェドリンやプロコフィエフ、ストラビンスキーはいつ聴いても血圧上昇する。マリンスキー劇場のケーケストラとゲルギエフの組合せはたしか、プロコフィエフの2番のCDで初めて聴いたけど、やぱり後年の「春の祭典」の印象が強烈であった。最後の一発が、「北斗の拳」の悪者たちが斃れる時の音みたいであった。とにかく劇画みたいな音楽なのである。

最近のブルックナーとかを聴くと、なんだか弦楽主体の新境地に突入した気がしていたので、今日は期待して聴きに行った。高松に来るのはたぶんこれからも珍しいことであろう。もうこの機会を逃すと簡単には聴けないかもしれないお人である。

最初は、シチェドリンの 「お茶目なチャストゥーシュカ」で、よっぱらったデュークエリントンみたいな曲調から初めて、次第に行進曲風になってゆき、タンニングの練習かみたいなかんじで終わる。はあ、プロはウマイナア

二曲目は、華音さんのチェイコフスキーの第1コンチェルトである。ホルンの出だしの下降音って、解説にも書いてあったけど、確かに、その後出てこない気がするな……。華音さんのピアノは、小型のおしゃれな車をぴゅんぴゅん飛ばしている感じであった。ゲルギエフとマリンスキーもそれにあわせて余り強烈な音をださなかった。カラヤンとか、リヒテルに喧嘩売ってるようなでかい音だしおって……。なんだろう、この安定感は、さすが華音様。

三曲目は、ショスタコーヴィチの5番。いままでわたくしはゲルギエフとショスタコービチはなんとなく相性が悪いのかなと思っていた。しかし実演で聴くと俄然面白いではないかっ。特に第三楽章はとても美しかった。確かにこの曲って、第三楽章が20世紀最高の美しさなのである(個人の断定です)。精神の悲鳴のような音楽なのに。ゲルギエフは、楽章間に殆ど間を空けなかったがこれもよかった。第四楽章の冒頭なんて、本当は第三楽章の最後でもあるのである。今日の演奏でびっくりしたのは、バスドラム。あまりにでかい音に、一瞬「春の祭典」かと思った。しかし、これでいいのかもしれない。タコさんの音楽は、新たな楽器が入ってくるときには場面が変わる。そういえば、今日はハープの音が結構大きく聞こえたのだが、確かに、ハープとともに曲の風景が変わるのだ。CDだとここまでの風景の変化は分からない。第4番までの、あからさまな場面転換の面白さを狙った音楽の延長にありながら、場面転換を自然に有機的に連続させることをオーケストレーションでやってのけているのであろう。そのことで、場面転換は、音楽の表面的な変化ではなく、作曲者の内面の変化に感じられるのでした。そんな感想を持ちました……。

マリンスキーの弦楽器セクションってすごくよい。ここまでいい音とは思わなかった。すごい!

2019-11-28 23:14:03 | 文学


丶大を毛野と大角が戦いに参加するように説得する場面はあまり好きではない。

其風を起すの故に、敵を殺すの嫌ひあらば、凱旋の後、水陸道場もて、敵の菩提を弔ひ給はば、歓びて皆清果を得ん。夫生ある者は、必死あり、死して活仏の引導を受んことはかたかるべし。疎きは千慮の一失か。

殺生はよくないよ、という丶大に、いまは利害と損得が重要です。人はみな死ぬが、活仏の引導を渡してもらえるのはただでも難しいんだから、いっそのことぶっ殺した後で弔ってやった方がよくないですか?――こう言っているのは大角である。

じゃあ、弔ってやるから今すぐお前が死ねっ、とならないところが、丶大のあれなところである。「しからんには是非に及ばず」とすぐ折れてしまうのだ。確か小谷★敦氏がポストモダンしてた頃(してねえか)、この御仁こそ八犬伝の主人公、父親の回復だ、みたいなことを言っていた(いま本棚を捜したが当該書が見つからない)。大変鋭い。父親というのは、そもそもどこか間が抜けたところがあるものなのだ。父権論者というのは、こういう自明の理がわからないところがある。わたくしが大尊敬する戸坂潤などもなんとなく父権的なところがあるような気がする。隙がない論理がどこかしら間が抜けてる気がするからだ。何故だろう。

現代青年は貧困で下積みだったのだから、壮老年者が設定した家庭を離れては生活が困難なので、そこを覘って社会の壮老年者が、現代青年に家庭に帰れと強要しつつあるのである。家族主義の名の下に家庭主義が強制される。父権は却って拡張される(例えば民法改正に於ける自由結婚の否定)。母親だって息子よりも強くなる。本来なら息子に厄介がられるべきお袋も、今では息子の大学の入学試験にまで母権を拡大する。

――戸坂潤「思想と風俗」


さすが戸坂潤、「家庭」の中では父権と母権は同様の機能を持っていることを喝破している。とはいっても、八犬伝には大学入試はないので、残されるのはちょっぴり孤独な父権的な犬たちなのであった。で、丶大は、犬ですらない「毛野」の抜けた「大」である。こんな状態で悟りなんか無理である。しかも「大角」に説得されるとは

ちなみに、わたくしは自分より「大」きい人間を一切信用していない。

昨日、法華経を少し読み始めたが、「大」という字の実に多いことよ。

「皆是阿羅漢」のポリティーク

2019-11-27 23:24:27 | 思想


如是。我聞。一時。仏住。王舎城。耆闍崛山中。与大比丘衆万二千人倶。皆是阿羅漢。諸漏已尽。無復煩悩。逮得己利。尽諸有結。心得自在。


とにかく、仏のまわりには人が多い。しかも全員阿羅漢である。煩悩に打ち勝ち個々の自在を獲得している人たちが一二〇〇人。

こんな記述をみていたら自分も悟れる気がしてきました。四年生が全員卒業できると思い込んでいることと同じです。キリストだけが偉くて他の人間が裏切り者ばかりという情況においては、――人間たちはじめはイキってなんだか悟れる感じがしてみても、すぐ何かを裏切ってしまいそうです。

しかし、まだ裏切りを自覚するだけましで、阿羅漢のふりした餓鬼がほとんどのこの世であることだ。

虎と自己肯定感

2019-11-26 22:26:41 | 文学


かくてそ虎は両眼共に、射られて共窮手に堪へねば、立地に衰へ果てて、才に共尾を動かすのみ。


なぜか寄り道している親兵衛。絵から出てきた虎をやっつける。一体何をやっておるのか。しかも両眼に矢を射るとは、もはや人間としての情は失っている御仁である。どうもわたくしは、八犬士には、自己肯定感(笑)というものが感じられない。自己肯定感がないと、誰かをやっつけることでしか自分を確かめられないのである。かかる人々は、いつも、本来コミュニケートする人との間でコミュニケートする自信がないので、いきなり、親とかお上に泣きつく。

右の拳を握り固めつ、虎の眉間を、三四暇と地ちしかば、李広が弓勢、馮婦が強力、両ながら得たりける、勇士に勝つべき由もなく、虎は脳骨砕け皮陥りて、軟々として斃れけり

李広は、中国で弓で石を貫いた男。馮婦は素手で虎を捕まえたお人。――このふたりと親兵衛に何の関係がある?ない。

父 仕かたがないな。……ぢや昔大きい虎がね。子虎を三匹持つてゐたとさ。虎はいつも日暮になると三匹の子虎と遊んでゐたとさ。それから夜は洞穴へはひつて三匹の子虎と一しよに寝たとさ。……おい、寝ちまつちやいけないよ。
子 (眠むさうに)うん。
父 ところが或秋の日の暮、虎は猟師の矢を受けて、死なないばかりになつて帰つて来たとさ。何にも知らない三匹の子虎は直に虎にじやれついたとさ。すると虎はいつものやうに躍つたり跳たりして遊んだとさ。それから又夜もいつものやうに洞穴へはひつて一しよに寝たとさ。けれども夜明けになつて見ると、虎は、いつか三匹の子虎のまん中へはひつて死んでゐたとさ。子虎は皆驚いて、……おい、おきてゐるかい?
子 (寝入つて答へをしない)……
父 おい、誰かゐないか? こいつはもう寝てしまつたよ。
遠くで「はい、唯今」といふ返事が聞える。


――芥川龍之介「虎の話」


芥川龍之介のこの小話はなかなか見事な構成である。上は最後のセクションである。動物と人間の比喩的関係を縮めたりひっくり返したりと、芥川龍之介は悩むだけのことはある人間であった。

我々は行動を起こす前にいろいろ考えるべきことがある。近代人は、考えること以外に行動を制御する仕組みを持っていない。昔みたいに、心ある他人がとめるということはないからである。浅慮は必ずテロになると言っておきたい。

機械の外は、中は……

2019-11-25 23:13:03 | 文学


ナターリヤ・ソコローワ/リンマ・カザコーワの『怪獣17p』(草鹿外吉訳)というロボットSFがあるが、まだ最初のあたりだけを読んだだけ。なかなかの出だしで、ソ連の市民の歌う唄が記されたりして叙情的である。

夜よ 銀色のたなごころにのせて
つめたい月のかけらを さしだすがいい
わたしのほしいのは 地位でも金でもない
わたしのほしいのは おまえのまつげ!


ロボットというのは、なんだか叙情的な風景のなかにいるものである。

いまもアメリカの企業の創ったロボットなどが不気味に動物の動作を真似しながら動き回っているが、背景は案外草原だったりもするわけである。我々がパソコンで鬱病になりかけているのは、草原でキーボードを打たないからだ。機械の中の機械というのはいつも堪え難い物になってしまうのである。

ソ連が革命に成功したのは、良くも悪くも、草原の中に都市(機械)があったからではなかろうか。しかし、その機械主義を国家のものとしたとき、内部にいる人間は堪え難い獣であった。

いわでもしるき一朝の、筆ならざるを思うべし

2019-11-24 19:21:21 | 文学


嗚呼時なる哉、至れる哉、八犬爰に具足して、八行の玉聯串の功、丶大の宿望虚しからぬを、看官もうち微笑まるべく、作者は二十余年の腹稿、その機を発く小団円、いわでもしるき一朝の、筆ならざるを思うべし。


ついに八つの玉は、一つの聯串となった。まさに「団円」という感じである。感激の余り、作者自ら「二十年以上もこのことを書こうとしてきたのだ」と泣いている。八犬たちと作者は一心同体、二十年も一緒に生きてきたのであった。

最初から会わせれば問題ないのでは……、と思うが、人生、人が集まるのにも二十年以上かかったりするのはよくあることだ。本当の師や友との出会いなんてのはそういうものだ。伴侶との出会いはもっと意図的なものが多いのでなんともいえない。わたくしは、八犬たちの「縁」と、結婚みたいな「縁」を一緒にするから社会がクズみたいなものになってゆくとおもうのである。親との出会いは「縁」ではない、「因果」である。これも師や友とは比べものにならないほど浅はかなものだ。八犬伝がやや社会に媚びているのは、この犬たちの魂が、一緒の腹に居たという設定を持ち込んでいることである。血のつながりとは異なるが、それに接近してはいるのだ。

間話休題(あだしごとはさておきつ)、登時丶大照文も、七犬士を相迎えて、親兵衛が救厄の戦功と、風雲天助の崖略を、箇様々々と告知して、躬方三所の勝利を問うに、……

作者の感慨によって終わった小団円は、「あだしごとはさておきつ」と言われて更に続いてゆく。無論、あだしごとは、作者が顔を出してしまったことなのであるが、いままでのお話が「あだしごと」であった気もする。

盗人にも三分の理ありとか、虎はかく人畜を残害するもののそれは「柿食いに来るは烏の道理哉」で、食肉獣の悲しさ他の動物を生食せずば自分の命が立ち往かぬからやむを得ぬ事だ、既に故ハクスレーも人が獣を何の必要なしに残殺するは不道徳を免れぬが虎や熊が牛馬を害したって不道徳でなくて無道徳だと言われたと憶える。閑話休題(それはさておき)、虎はまず猛獣中のもっとも大きな物で毛皮美麗貌形雄偉行動また何となく痒序たところから東洋諸邦殊に支那で獣中の王として尊ばれた。

――南方熊楠「十二支考 虎に関する史話と伝説民俗」


「徒し事」(あだしごと)を自ら言うときには、ほんとうはその「無駄なこと」が重要なことだってあるのである。合理的な熊楠は本当の話題転換として「それはさておき」と言っているけれども馬琴は違う。わたくしは、馬琴の方に共感する。長さというのは、儀礼ではない。それだけの意味を読者に向けて探ってくれと言っているのである(「いわでもしるき一朝の、筆ならざるを思うべし」)。わたくしは以前、「源氏物語」が平安時代を終わらせたのではないかと思ったが、「八犬伝」は武士の時代を終わらせたのではなかろうか。時間が時代になるためには、長さが必要だったということである。

至宝の霊験愆たず

2019-11-23 23:18:58 | 文学


弥疾く出す霊玉の、護身嚢を刺翳せば、至宝の霊験愆たず、颯と濆走る、光に撲たれし妙椿は、苦と叫ぶ、声共侶に閨衣は、そが儘親兵衛が手に残りて、那身は裳脱て楼上より、庭へ閃りて墜つる折、と見れば妙椿が身の内より、一朶の黒気涌出して、鬼燐に似たる青光あり、見る間に西へ靡きつゝ、消えて跡なくなりにけり。

悟空でさえ、自分の手のひらから光を出すというに、霊玉から光線出すとは卑怯なり。負けじと、やられた妙椿も青光を出してしまった。

『ドラゴンボール』のかめはめ波。自分にもできそうな気がするけど、本当にできる?
http://web.kusokagaku.co.jp/articles/561


柳田理科雄先生が、かめはめ波は本当に打てるのか、とか説明している。柳田先生は、屡々、かめはめ波は本当に打てますか、という質問を子どもから受けるそうである。そんなお馬鹿な子どもを相手にしていてどうするんだという気がするが、――大嘗祭で五穀豊穣を願っている我々である。大嘗祭なんていうのは、天皇が元気玉を集めているような感じの行事なのだ。而して、「ドラゴンボール」で八〇年代九〇年代の子どもたちがどれだけ生きる勇気を与えられたかの方が重要である。上の質問は、質問自体が、大嘗祭って何となく面白いよね、みたいな意見と全く同じで、発話自体が興奮剤なのだ。

「八犬伝」は確かに、一頁に一〇カ所ぐらいツッコミどころのある話であるが、七犬士が揃ってチャンバラをやっている頃からやや飽きが来ていたことは確かだ。ここで、神になった伏姫に育てられた少年が颯爽と卑怯な光線玉を持って現れたのだから、読んでいる方は勇気百倍、明日も頑張って商売繁盛である。

いや、これは卑怯ではない。いつものように剣で斬り殺したりはしない新たな戦争の方法なのだ。――大いに問題である。しかも行き当たりばったりではなく、里見家のためにはじめから活躍である。

一体、親兵衛は少年というよりは幼年というが可なるほどの最年少者であって、豪傑として描出するには年齢上無理がある。勢い霊玉の奇特や伏姫神の神助がやたらと出るので、親兵衛武勇談はややもすれば伏姫霊験記になる。他の犬士の物語と比べて人間味が著しく稀薄であるが、殊に京都の物語は巽風・於菟子の一節を除いては極めて空虚な少年武勇伝である。
 本来『八犬伝』は百七十一回の八犬具足を以て終結と見るが当然である。馬琴が聖嘆の七十回本『水滸伝』を難じて、『水滸』の豪傑がもし方臘を伐って宋朝に功を立てる後談がなかったら、『水滸伝』はただの山賊物語となってしまうと論じた筆法をそのまま適用すると、『八犬伝』も八犬具足で終って両管領との大戦争に及ばなかったらやはりただの浮浪物語であって馬琴の小説観からは恐らく有終の美を成さざる憾みがあろう。そういう道学的小説観は今日ではもはや問題にならないが、為永春水輩でさえが貞操や家庭の団欒の教師を保護色とした時代に、馬琴ともあるものがただの浮浪生活を描いたのでは少なくも愛読者たる士君子に対して申訳が立たないから、勲功記を加えて以て完璧たらしめたのであろう。

――内田魯庵「八犬伝談余」


わたくしは決してそうは思わないのであるが、馬琴はどこかで、水滸伝もなんだか山賊物語どころか、機械的ななにものかなんじゃねえかな、と思っていたのではなかろうか。我々の労働そのものがそういうものになりかけていたからである。馬琴にとっても長篇の労働がそういう感覚を呼び起こす。そうなったら、お祭りである。霊験の光である。「神は仰せられた。「光があれ。」すると光があった。」である。

【アスファルト】今時の大学生【カクテル】

2019-11-23 18:30:54 | 音楽
Asphalt Cocktail / John Mackey アスファルト・カクテル 龍谷大学吹奏楽部


高校生や大学生に出会うと、時々吹奏族の皆さんが混じっている。

今時の大学生は口ばっかりとか、何とかだとか言いたいときには、――上の動画などを見て、やっぱり若者は20年前とは全くレベルがちがうぜと思うことにする。

わたくしの場合、中1のコンクールで、ドヴォルザークの「新世界」第4楽章でパーカッションをやり、審査委員に「シンバルの男の子、思い切りぶったたきすぎです」と言われたのがよい思い出です……→(銅賞)大きなホールだから思い切り叩かにゃきこえないと思ったのさ……

その名は予て知られたる

2019-11-22 23:20:56 | 文学


「やおれくせものら、無礼すな。里見殿に宿因ある、八犬士の随一と、その名は予て知られたる、犬江親兵衛仁こゝにあり、住れや」
 と喚りて、走り出で来る大童子、是甚なる打扮ぞ。但見る身の長三尺四五寸、面の色は薄紅にて、桃の花を連ねし似く、肌膚は白く、肉肥えて、骨逞しき勇士の相貌、身には段々筋の山樵衣の、下に錦の襦袢を被て、手には六尺許りなる、素朴の樫の自然棒を、最も軽気に腋挟み、腰に一口の短刀を、こじり下しに帯び做して、振り乱したる額髪は、年才より長ある神童の、威風に駭くくせものらは、舌を吐き目を注して、左右なく找み難たりける。


お前だれ?

すっかり忘れていましたが、行方不明だったひとか……。

栗田英彦・塚田穂高・吉永進一編『近現代日本の民間精神療法』を買って読んでいるので、この人の突然の登場など、全く不思議でも何でもない。思うに、今の若者たちがゲームなどで興奮している「ラスボス登場」とか何やらなど、単純な「因果」の範疇だ。ゲームというのは、(全くやったことがないが)自らの存在の不思議は体験できても、世の中の不思議は体験できないようになっている。ゲーム脳というのは、まさに、新たな「内面の誕生」にすぎない。

同志たち

2019-11-21 23:55:06 | 文学


爾程に船中の、著席も既に定まりければ、信乃毛野の二犬士は、迭に初面会の口誼を舒るに、是宿因の致す所、心同じく、意相かなえば、一面にして故旧の如し、親愛宛ら骨肉と異ならず。

七犬士たちが集結、信乃毛野の二人は初対面なのに、まるで旧故のようであった。「親愛宛ら骨肉と異ならず」。確かに、こういうことは現実にもある。初対面なのに、考えていることがかなり似ているのである。

我々の業界の場合は、同じような本を読んでいることから説明がつくが、七犬士だって、同じようなものであろう。別に彼らが犬野郎であるからではなく、戦いのプロ同士なのだ。本当は、彼らが血祭りにあげて、首を晒している方々ともまあまあ心は通じたはずである。それでも敵味方になるためには、犬であるとか入れ墨だとか、――そういうつまらない理由が逆に理由になるわけだ。理由は別にそれがファクトの場合は頑張って言い立てる必要がないが、そうではない場合は頑張らなくてならない。その頑張りがそのまま暴力となって顕れる。

そういえば、水島新司の『大甲子園』のなかで、里中と荒木という瓜二つの投手が実は兄弟ではないか、という疑念を持ったフリーの雑誌記者が真相を突き止めようと明訓高校の周囲を嗅ぎ廻っているうちに、結局、荒木の母親に行き当たってしまい、疑惑は間違いであったことが分かるという挿話があった。そのあとの展開があったのかもしれないが忘れた。里中は荒木が試合中にやろうとすることを、山田より理解できる。それを「血」のせいにしようとする考えの挫折であった(ちなみに、この記者がこの可能性に賭けたのは、うだつの上がらないルサンチマンからであった。確かに血が問題になるときにはそういうことがあるかもしれない)。里中と荒木は、同じ体格のピッチャーであり、実力も伯仲していたからお互いが分かったのである。

山田太郎は、里中より理解が浅いことを気にするが、それを「絶不調」のせいにして、一人海辺にバットを振りに出かける。

ドカベンの物語は、たまたま同じ学校に居合わせた仲間が「四天王」だかなんだかになってしまう話であり、それは「普通の練習」の賜である。昭和の野球少年の夢をかき立てたのはそのせいである。彼らの幼少期の悲劇やトラウマが語られるのは、かなり話が進んだあと(試合中)である。読者は、それを、だから、彼らの優秀さがトラウマのせいだとは思わず、普通の人間にも悲劇やトラウマがあるんだと思い、自分も悲しみやトラウマを問題にしたいのなら頑張らなくてはと思うのであった。過去をサボる理由にしたい気持ちを排除しているのが、この漫画であり、一定の教育的効果を持っていたと思う。

太郎といえば、桃太郎や金太郎である。

金太郎がいよいよ碓井貞光に連れられて都へ上るということを聞いて、熊も鹿も猿もうさぎもみんな連れ立ってお別れを言いに来ました。金太郎はみんなの頭を代わりばんこになでてやって、
「みんな仲よく遊んでおくれ。」
 と言いました。


――楠山正雄「金太郎」


桃太郎はどこかの田舎から動物たちをひきつれ鬼ヶ島に乗り込んだ。芥川龍之介によれば、そこで略奪強姦なんでもござれであったらしいが、まだ地方の一犯罪人であるからまだ唯のクズである。しかし、金太郎は動物たちを棄てて立身出世したのであった。「渡辺綱、卜部季武、碓井貞光といっしょに、頼光の四天王」になったのである。金太郎は、熊もねじふせる力持ちではあったが、ホントは唯の犬であった。

刄に先だつ首級の

2019-11-20 23:34:31 | 文学


現這鰐崎猛虎は、心術こそ直からね、年来数度の戦場にて、一番も後れを拿らず。然ばこそ、膂力は三十許人に敵して、船を駝いたる泉の親衡、鉄門を破りし義秀に、伯仲すという本事は違わず、器械拿っては義経にも、劣らざるべき犬阪毛野を、そが刄さえ払い墜して、掻抓みたる為体は、肉に饑えたる鵰の、雛猿を捉るに異ならず。投げ殺さん、と思いけん、掀たる儘に那這と、両三回持遶りて、矢声を掛けて投げ墜す

義経でメタファーエンジンに火がついた馬琴。毛野を持ち上げる猛虎を「肉に饑えたる鵰の、雛猿を捉るに異ならず」と評す。鰐なのか虎なのか熊鷹(鵰)なのか、はっきりしていただけないでしょうか。あと、犬と猿は犬猿の仲と言いましてな……

毛野は持ったる猛虎の、頸もて楚と受け住むれば、なおも撃たんと又振抗る、刄に先だつ首級の撃眼、縁連は亦眼を打たれて、叫苦とばかりにきたる


毛野雛猿は鰐虎鵰の首を取ったあと、縁連が再度打ちかかってくるのを、

刄に先だつ首級の撃眼


首で目つぶし攻撃をするとはすごいです。あの恐ろしいサロメでも、銀の皿の上のヨカナーン(首)を大切に扱ったというのに。

恐ろしさと言えば、わたくしが昔、西洋絵画の恐ろしさを感じたものの一つに、ギュスターヴ・モローの『出現』があるが、そこではなんだか知らないが、ヨカナーンの首が浮いておる。馬琴は、首そのものに対する執着が足りないのだ。すぐ投げつけたりして……

You're fired!

これも同じで、すぐ爆発させたがっている連中は今もたくさんいる。日本人も、首を刈るだけでなく投げつけたがっているかもしれないというのは、この場面から分かる。どちらも、人間に対する恐怖があるのだ。

主人のジュセッポの事を近所ではジューちゃんと呼んでいた。出入りの八百屋が言い出してからみんなジューちゃんというようになったそうである。自分は折々往来で自転車に乗って行くのを見かけた事がある。大きなからだを猫背に曲げて陰気な顔をしていつでも非常に急いでいる。眉の間に深い皺をよせ、血眼になって行手を見つめて駆けっているさまは餓えた熊鷹が小雀を追うようだと黒田が評した事がある。

――寺田寅彦「イタリア人」


我が国では、まだ外国人を人として扱いかねている文化が残っているが、――比喩を許さない距離まで接近するしかないとわたくしは思っている。

(転向→)入党のフィナーレ

2019-11-19 23:54:05 | 思想


出隆の自伝読んだら、最後に共産党入党を持ってきててなかなかかっこよかったな。自らに許した唯一の肩書きだ、と。出隆はギリシャ哲学の研究者で『哲学以前』とかで有名になったひとだが、戦時中は頑張って隣組組長などをやり、発言も当時のスタンダードな感じになっていたらしい。思うに、当時の知識人は「転向」を楽しんでいた人がかなり居ると思いますね……。罪を得ると、「主体」ははっきりしますからね。「主体性論争」なんてその効果でしょう。

ドストエフスキーに書かれていることをすっかり忘れて……。

常世のものと響けり

2019-11-18 23:09:56 | 文学


一氣に押して來た水が一山を飛躍し落つる勢、その勢に水は億兆に碎けてさながら雲の樣に、空中に漂よひをなして動きたゆたひ水の姿を變化させてゐる。それが忽ち地上を打つて元の水にかへり萬泡億泡を湧きかへらせてゐる。その水の音たるやさながら常世の響を持つてをります。上より眺め、下よりあふぎ言葉も出でず、私は感動いたしました。

二荒山七十餘丈落ちたぎつ瀧は常世のものと響けり
山を落つる瀧の音ふかし虹たちてしぶきに秋の日は照り映ゆる
山を落つる瀧は水より白雲と霧らひただよひ落ちて流るる


――今井邦子「滝」



This is from...

2019-11-17 21:20:24 | 文学


「然ないいそ犬田生、熟思えば這金を、遺されたるも亦所以あり。他とわれとは義を結びて、異姓の兄弟なりといえども、金のみ受けてわが意に悖らば、貪るに似て潔からず。然とて金を返しては、又義を破る憾あり。この故に俺們が、贈りし金を受納めて、沙金三包を遺せしは、是贈答の礼にして、他よりわれに餽りし也。昨宵の金を返すにあらねど、沙金は原是煉金より、その価廉ければ、這三包は十金の、答礼によく相当せり。恁てぞ受けて貪らず、返したれども義をも破らず。智慧勝れたるものならずば、これらの事をよくせんや。恨むは要なきことにこそ」


毛野が五両包みの沙金三包みを残して荘介と小文吾のもとを去った。なんだか、漢文と和歌も残していたが、この言葉の方はすぐ理解できた。問題は贈り物の方であった。小文吾は、いまさら金を置いていくとは「浮薄の友」だなあとぶつぶつ言っている。それに答えたのが、荘介の上の言葉である。結局、物の贈与は言葉によって解説されなければ収まりがつかない。贈られた物というのは、どんなものであっても不気味なものなのだ。いまなら、何とか祝いに対するお返しは、だいたい値段が言葉の役割をしている。それでイーブンということにするのである。そうでなければ、贈られた物から発するパワーを押さえ込むことは出来ない。モースがをそれをマオリ族を引き合いに「ハウ(呪力)」とか呼んでいたことは有名である。

確か柄谷行人もどこかで言っていたように、こういう「呪力」を構造主義的に解消し「浮動するシニフィアン」のように言ってみたりしてもあまり意味はないのは、最近の世界をみれば、まあそうだろうという感じがする。やはり「力」はあったのだ。

映画「レオン」のなかで、最後にこんなやりとりがある。

Léon: Stansfield?
Stansfield: At your service.
Léon: This is from... Mathilda.
Stansfield: Shit.


わたくしは、この映画のあたりから、贈与はコミュニケーションの一部ではなく、テロの一部となったような気がしていたのだ。無論、この御時世ではコミュニケーションもテロの一部である。これを押さえ込むため「国民国家」が逆襲しようとして頑張っているのは周知の事実だ。そしてその逆襲は、自由気ままにみえる為政者によって担われている。――自由は安全とセットなので、自由であるために法律でコミュニケーションを基礎づけてテロリズム的なものを排除する。しかし、法による管理のもとでは自由がなくなるような気がすごくする訳で、だから言葉の世界ではなるべくテロリスト風にふるまってみる――呪力としての言葉を用いるのである。この逆説を心理的に納得するには、品行方正な為政者ではなく、法の外にあるような為政者が求められ、それに同調することが必要になるのであった。しかし、この為政者が実際に行うことは、自由なコミュニケーションの縮減である。国民国家の為政者なんですからね……

馬琴は彼が生きる時代ではなく、室町時代にその義兄弟のコミューンを描き出したのだが、もう自分の時代ではそんなものはなくなっていたからでもあろうが、――まだ安全とセットではない自由というものが、その「平和ぼけ」の中で夢想されていたのかもしれない。贈与を呪力とともに健全に働かせることへの夢が、我々のなかにはあるとはいえないであろうか。

かくして、今回のお花見騒動はいろいろなことを想起させるのであった。