★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

月をかしきほどに霧りわたれるを眺めて

2019-08-31 23:31:35 | 文学
あなたに通ふべかめる透垣の戸を、すこし押し開けて見たまへば、月をかしきほどに霧りわたれるを眺めて、 簾を短く巻き上げて、 人びとゐたり。簀子に、いと寒げに、身細く萎えばめる童女一人、同じさまなる大人などゐたり。 内なる人一人、柱に少しゐ隠れて、琵琶を前に置きて、撥を手まさぐりにしつつゐたるに、雲隠れたりつる月の、にはかにいと明くさし出でたれば、

おっ

「扇ならで、これしても、月は招きつべかりけり」とて、さしのぞきたる顔、いみじくらうたげに 匂ひやかなるべし。

顔に注目

添ひ臥したる人は、琴の上に傾きかかりて、「入る日を返す撥こそありけれ、さま異にも思ひ及びたまふ御心かな」

和歌朗詠集とか舞とかよく知ってるんですね

て、うち笑ひたるけはひ、今少し重りかによしづきたり。

やっぱり容姿に注目

「及ばずとも、これも月に離るるものかは」


琵琶の撥を収める所を隠月というのである。はいはいそうですね(「あさきゆみし」では「理屈ね」という他の女房の返しあり)

など、はかなきことを、うち解けのたまひ交はしたるけはひども、さらによそに思ひやりしには似ず、いとあはれになつかしうをかし。


見ないで想像していたよりもとってもかわいい、らしい……

「昔物語などに語り伝へて、 若き女房などの読むをも聞くに、かならずかやうのことを言ひたる、さしもあらざりけむ」と、憎く推し量らるるを、「げに、あはれなるものの隈ありぬべき世なりけり」と、 心移りぬべし。

注釈によると、『宇津保物語』の「俊蔭」巻、『落窪物語』などに落ちぶれた姫が琴を弾く場面があるそうである。そうだったかもしれないが、忘れました。作者も物語の読み過ぎでこういうことを言ってしまうのであるが、物語だけで言えば、辛気くさい薫さんがかわいい子たちをのぞき見しちゃったこれはまさかの展開だっ、というだけである。――そうではないのである。

僕たちが生きている世界の脆さ、僕たちの紙一重向に垣間見えてくる「死」……何気なく生きている瞬間のなかにめり込んでくる深淵……そうした念想の側で僕はまた何気なく別のことを考えていたものだ。お前が生れて以来みた夢を一つ一つ記述したらどういうことになるのだろうか、それはとても白い紙の上にインクで書きとめることは不可能だろう、けれども蒼空の彼方には幻の宝庫があって、そのなかに一切は秘められているのではなかろうかと。

――原民喜「夢と人生」


近代の垣間見のなんと恐ろしい事よ。いま薫のようなシチュエーションはよほど勇気のある御仁か世を捨てた人しかあり得ないであろう。女子の部屋というのはそれほど恐ろしいものなのである。あと可能なのは、動物園。



それはともかく、どこかで東浩紀かだれかが言っていたと思うが、家族というのはハラスメントをクリティカルに変換できる機能を持っていると。コミュニケーションはすべてハラスメント的に出来ているから、そうかもしれない。――一方、氏の思想とは関係なく、最近の建築は、すべての部屋の区切りをなくしでっかい農家みたいなものが流行っているようである。思春期の女子なんかこんなのに耐えられるんかなと思うが、いわゆる家族の絆~みたいなものを空間的に考えているのであろう。しかし、これでは一番偉いのが誰かみたいな空間になるに決まっているような気がするのである。源氏物語を読んでいて思うのは、酷い人間関係を辛うじて物語や音楽が彩って救っているという事態である。これがある意味でクリティカルなものである。しかし、これは超博識な紫式部(と誰か?)が作った理想の世界であり、現実はいまの我々の世界のようにゴミクズに決まっている。藤原氏の政権なんて、スーパー盗賊みたいなもんではないか。原民喜のように、彼方を垣間見するのか、そこにある文化的美女を垣間見するのか、本当はあまり変わらないのではなかろうか。

虫のきもち

2019-08-31 18:30:26 | 日記
「いぬのきもち」とか「ねこのきもち」とかいう雑誌があったように思うが、「虫のきもち」はない。天下の虫雑誌と言えば『月刊むし』である。なんだかわからん虫の交尾写真を表紙に持ってくるような硬派な雑誌であって、時々買おうと思うが案外高い。

いまでも「タガメ」とか「ゲンゴロウ」とか「ルリボシカミキリ」とか聴くとうきうきする。猫や犬の気持ちが分かると言っている人もべつに奴らにきいたわけじゃなく飼い主の主観であろうし、なぜかその主観が当たっていることもある――ということは、わたくしも「タガメ」の気持ちが分かっている可能性が高い。

昆虫の気持ちはつまり、「うきうき」みたいな感じではなかろうか。



うきうき寝ているコガネムシ


やすからずくねくねしきこと出で来などして、おのづから御仲も 隔たるべかめり

2019-08-30 23:44:43 | 文学


ことにふれて、やすからずくねくねしきこと出で来などして、おのづから御仲も 隔たるべかめり。

頭中将と夕顔の娘・玉鬘(源氏の養子)の娘・大君は桐壺帝と藤壺の息子・冷泉院(ほんとは源氏の息子)に嫁いだんだが、――もう、何がなんだか分からなくなってきたのだが――、これまたかわいい子たちを次々に生んだので、冷泉院(ほんとは源氏の息子)の本妻の弘徽殿の女御(えーと、桐壺帝の妻の弘徽殿太后の姉妹の四の君と頭中将の子ども)となんだか仲が悪くなってしまって、くねくねしきこと(心のひん曲がったこと)などが起こってしまうのであった。

宮中のみんなが、本妻の味方になって、あれこれと玉鬘に「だからいったじゃない」とか言ってくるので、玉鬘は悩み、

かからで、のどやかにめやすくて世を過ぐす人も多かめりかし。 限りなき幸ひなくて、宮仕への筋は、思ひ寄るまじきわざなりけり

と言うのであった。また桐壺帝と源氏のお母さんの時とおんなじで、まったくかわいそうであるが、――玉鬘ほどの身分の娘でもこんな感じなのだ。そもそも、ビバリーヒルズ高校白書で、カップルができるたびに三人ほど子どもができて、その子ども達が、子ども達どうしで編み物みたいな関係をつくりあげてゆく――感じが源氏物語であって、もう系図が複雑すぎて、あとは力関係、いじめであっちが上こっちが上みたいなことになるのであった。しかも、ビバリーヒルズの物語は、成り上がりブルジョアジーだから国政に影響はないが、源氏の世界は権力のど真ん中の話である。ブレンダがケリーと喧嘩しただけで国がどうにかなるかもしれない訳である。そりゃいじめも真剣になるわけだ。

こんないじめばかりやっておるから?、いざというときには、みんなで悪口を言えば相手がひるむと思っている輩はまだたくさんいる。ボスには喧嘩を売れない奴が自分より下と思い込んでいる相手の悪口を言って勉強も何もせず没落し続けている。なさけなや。

西部邁が「麦の穂を揺らす風」についての感想を「シンフェーンの覚悟」というエッセイで書いていた。ゲール語で「シンフォーン」というのは「われらのみ」という意味だそうだ。IRA(アイリッシュ共和軍)の党名である。アイルランド独立運動のさなか、党の公的な命令で肉親を殺すことになった男たちが背負っている「祖国」とは、そのような公的な論理を認めない女たちがその実体だというのが、西部氏の主張である。たしかにそうかもしれない。その論理的にはねじれている関係こそ運動の肝なのである。西部氏は、韓国にもそれがあると示唆していたが、わたくしもそう思う。

考えてみると、源氏の世界は、一歩恋愛に踏み出しただけで、どこに暴力的作用を生み出すか分からない関係にコミットすることになり、誰かを裏切ることになるのである。まだこの世界の方が、相手を論破して喜んでしまうような小学生みたいな世界よりはましである気がする。

源氏の死体がない世界

2019-08-29 22:57:20 | 文学


この宮たちを、世人も、いとことに思ひきこえ、げに人にめでられむとなりたまへる御ありさまなれど、端が端にもおぼえたまはぬは、なほたぐひあらじと思ひきこえし心のなしにやありけむ。


薫や匂宮を世間の人は褒めるし、確かにそれほどの感じであるものの、源氏の大将の端の端にもひっかからんゴミクズのようにおもえるのは、子どもの頃、大将に憧れた心のせいでしょうか……。(意訳あり)

紅梅の大納言は、昔を懐かしむ。彼は柏木の弟である。人間、知らないことをいいことに価値のインフレを生きる。

朝鮮の友よ、見知らぬ多くの友よ、私の如き者を例外だと思って下さってはいけない。希くば精神に活きる私の多くの知友が、正義や情愛を慕う心に忠実である事を信じてほしい。若い日本の人々は、真理の王国を守護する事を決して忘れはしない。それらの人々は既に貴方がたの味方である。私たちは貴方がたを、近い友として理解する用意を欠かないであろう。貴方がたと私たちとの結合は真に自然そのものの意志であると私は想う。未来の文化は、結合された東洋に負う所が多いにちがいない。

――柳宗悦「朝鮮の友に贈る書」(1920)


柳宗悦の見通しは甘すぎた。のみならず自然のとらえ方に於いて間違っていた。柳宗悦の溢れる善意にもかからず、それは多くの知らないことによる価値のインフレであったと思われる。「何事か不自然な力が、吾々を二つに裂いているのである」と彼は言う、これは明らかに知っていることを言わずに済ませる言い方であったが、――それは「不自然」でもなんでもない。自然な暴力を振るいたくてしょうがない輩がいたのだ。知ることは多くのことでなければならない。感情はそれから生じるものである。つまり感情というものは知性の一種であり不自然な情況からしか出てこない。UNE CHAROGNE (SPLEEN ET IDEAL-XXIX)に描かれているものこそ、隠された「戦争」であり「感情」である。

Rappelez-vous l'objet que nous vîmes, mon âme,
Ce beau matin d'été si doux:
Au détour d'un sentier une charogne infâme
Sur un lit semé de cailloux,

Les jambes en l'air, comme une femme lubrique,
Brulante et suant les poisons,
Ouvrait d'une facon nonchalante et cynique
Son venre plein d'exhalaisons.. . . . .

あの爽やかな夏の朝に、
恋人よ、われわれが
見たものを、思い出そう。
ある小道の曲がり角、敷き詰められた砂利に横たわった
醜い腐りはじめた獣の死骸が、

淫婦のように、足を空に拡げて
熱く毒の汗を発して 
無造作に、図太く、悪臭の
充満しているその腹部を広げていた


戦争は腐乱する肉と同じである。ボードレールはこの詩の末尾で、腐乱して無に帰った肉を横目に自分は詩人で恋愛の形態と本質を摑んでんるんだとか……と付け加えていたが、それは「感情の持ち主」と言い換えても良かった。どうせ「恋人」には通じなかったのであろうが……。それにしても、「源氏物語」は源氏の死体を見せないことで、だらだらと腐ってゆく人間関係を描き続けているのであった。紫式部はボードレールより底意地が悪い。

反省と内省

2019-08-28 23:19:26 | 文学


老を忘るる菊に、衰へゆく藤袴、ものげなきわれもかうなどは、いとすさまじき霜枯れのころほひまで思し捨てずなど、わざとめきて、香にめづる思ひをなむ、立てて好ましうおはしける。

薫への対抗心からか、匂いオタクになってしまった匂宮である。

かかるほどに、すこしなよびやはらぎて、好いたる方に引かれたまへりと、世の人は思ひきこえたり。 昔の源氏は、すべて、かく立ててそのことと、やう変り、しみたまへる方ぞなかりしかし。


うまくいかないものである。源氏はこんなに一つのことに執着するようではなかった、というが、源氏の血が流れているのは匂宮の方なのだ。薫は……(以下略)。紫の上が子どもを産んでいたら、容姿知性全てが世の中を超越したものすごい人物が生まれてしまったのかもしれないが、そういうことにはならなかった。生まれていたとしても、とんでもないどら息子や不良娘かもしれない。しかしそうであっても彼等が不幸になるとは限らず、たいして、華麗な生涯に騙されなければ、源氏はどうみても悲しい晩年だった可能性が高いように思われる。――この程度のことは、中学生でも読めば想像されるのが文学のいいところである。

現実は、かえって想像や内省を禁じる圧力に満ちている。

今日はじめて、『月刊*****』というのを読んでみた。『**ll』の内部分裂で飛びだした編集長がやっている雑誌ということは知っていたが、果たして、このあたりの雑誌の読者というのは本当に実在しているのか半信半疑であった。あるとき、これをちゃんと毎号読んでいると言っておられる人がいて「実在が確認された」。戦前の新聞や雑誌をみていると、見出しや煽り文句が過激でも、本文はそれほどでもないものがあるが、今回読んでみたら、これもそういう側面がある。10月は「韓国という病」であるが、どんな重病かと思いきや大した病の説明はない。左翼らしい左翼もほとんど消滅しているいま、リベラル側も一種の標語主義みたいになっているが、この雑誌もそうである。これは「意味という病」の単純な上映で、こういう場合、論理的に語ろうとしているところがある種の間違いのもとなのである(彼等の決まり文句の一つである「論破」に注意)。大切なのは内省なのだ。

反省は論理的なニュアンスがともなうので「内省」といった方がよいような気がする。彼等の好きな「反」というやつであるが(「反日」「反社会」「反自民」)、この「反」というのは、現代文の読解で、中学生の頃習う二項対立みたいなことであり、高校以降はあまり通用しない技法である。だから、紙面の作りが案外バランスを重視することにもなっている。面白かったのは、山本太郎を扱っている部分で、これに関しては案外「内省」みたいな分析になっている。山本はポピュリスティックではあるがある種の脅威なのだ。だから真面目にならざるをえない。それ以外は、全体的に、ものすごくやる気のある論者は少数という感じである。もっとすごい憂国の士はいねえのかよ、と若い読者は思うんじゃなかろうか。人工的なものはもう真っ平なのだ。

もっとも、これは、印象だけで言えば、『文藝春秋』や『中央公論』なんかの昔からの特徴でもあって、――こういったジャーナリスティックな「原稿いっちょうあがり」みたいな雰囲気を漂わせている記事が、我々の「世論」だか「与論」だかを作ってしまっているのは深刻である。博文館の『太陽』の時代から、総合雑誌というものはそんなもんなのであるが。

わたくしは、上の世代があまり褒めるのでいやだったが、――司馬遼太郎という人、この人が重宝がられたのは、この土壌があったからである。わたくしはもっと古典の世界で遊んでいたい。

香のかうばしさぞ、この世の匂ひならず

2019-08-27 18:36:07 | 文学


香のかうばしさぞ、この世の匂ひならず、あやしきまで、うち振る舞ひたまへるあたり、遠く隔たるほどの追風に、まことに 百歩の外も薫りぬべき心地しける。

薫はすごくよい薫りがする人であった。遠くに薫っているだけではない。この世ならぬ匂いなのである。嗅いだとたんにこの世を忘れる匂いとはどのようなものであろう。

わたくしとしては、お腹が空いているときのカレーライスなどがその薫りではなかろうか――と思う。

――それはともかく、この匂いというのは多分に観念的なものであるので、父親が源氏であるということになっているのが大きいのであろう。いまや源氏はこの世のものではないわけで、しかのみならず、源氏の慎重な生き様の結果としての薫である。と言う訳で、

げに、さるべくて、いとこの世の人とはつくり出でざりける、 仮に宿れるかとも見ゆること添ひたまへり。

仏が宿っているともおもわれるのであった。

そういえば、キューブリックの大作『バリー・リンドン』の主人公は、アイルランドの貧しい階級の生まれで、愛する従姉を貴族にとられた恨みで決闘して故郷を追われ、軍隊を渡りあるき、ヨーロッパで賭博師をやっているうちに、ある老いた貴族の妻を拐かして、後釜となる。しかし、自分は貴族ではないし、先夫の子どもを殴打したこともあって評判は地に落ち、自分の子どもは馬から転落、妻は自殺未遂。結局、殴った子どもと決闘し足を打ちぬかれて故郷に帰る。

こんな波瀾万丈な人生なのに、まったくドラマチックではなく、平板な緊張感が張り詰めている映画である。ある意味、この平板な緊張感は貴族社会の輝かしさとして匂う「腐臭」といってもよい。映画史上一番の美しさだとか、蓮實重彦氏になると三十七回笑ったとか言っている。私は、五回ぐらい笑ったので、修行が足りないのであろうが、――思うに、モーツアルトとかベートーベンが破壊しようとしたのは、こういう腐臭なのであろう。

薫や匂の宮が源氏の後釜として活躍するにあたり、彼等が匂いの権化であったのは、本当はそれが匂いではなく、上のような「腐臭」であったのではないかと疑われる。

跡を見つつもなほ惑ふかな

2019-08-26 23:38:47 | 文学


落ちとまりてかたはなるべき人の御文ども、破れば惜し、と思されけるにや、すこしづつ残したまへりけるを、もののついでに御覧じつけて、破らせたまひなどするに

紫の上がなくなって抜け殻状態の源氏であるが、後に残っては都合の悪そうな人から貰った手紙を破り捨てている彼である。一体、どのような女人と交渉を持って居ったのか……(棒読み)。このあと、一つにまとめてあった紫の上からの手紙も燃してしまう彼なのであるが、昔からこの場面がよく分からない。私だったら、未練がましく紫の上の手紙だけ肌身離さず死んでからも一緒に墓に入る。

本文を全く無視して想像すると、たぶん紫の上との関係はある種特殊ではあったものの、他の女人との関係だってそう違っておらず、ちょっと危ない人との関係と紫の上の関係を本当に区別することは出来ない。残ってはまずいものから破っていた源氏であるが、考えてみたら多数の女人たちの関係はみんなそれなりのことで、俺の恋愛人生は全体として何の意味もなかったわな……と思ってしまったのではなかろうか。

いと、かからぬほどのことにてだに、過ぎにし人の跡と見るはあはれなるを、ましていとどかきくらし、それとも見分かれぬまで、降りおつる御涙の水茎に流れ添ふを、人もあまり心弱しと見たてまつるべきが、かたはらいたうはしたなければ、押しやりたまひて、

死出の山越えにし人を慕ふとて跡を見つつもなほ惑ふかな


とはいっても、大学生だったか予備校生だったか忘れたがこの場面でちょっぴり涙が出たわたくしであることだ。

しかしながら、なお翻ってわたくしのことを考えてみると、どうも女人たちとの手紙を焼いたり破ったりする神経は腑に落ちない。何か本当にまずいことが書いてあったのではないか。源氏は、柏木の一件で自分の人生を「報い」にやられたと思っている人間なのであり、こういう人間は過去の清算をどこかでやるのではないかと思う。戦時下の書類を焼いた役人だって、「報い」をある意味で感じていたに相違なく、もうそんな感じで傷ついているのだから、今後、もっと恐ろしい事実が明らかになっては耐えきれない、と思うのではないか。わたくしは、心理的重圧が三つぐらい層なると、もう生きている気がしなくなる人間をたくさん見てきたが、――そんなときにはいかなる欺瞞的心理も起こりうる。

芥川龍之介は「鼻」(『侏儒の言葉』)で、恋愛の自己欺瞞、ひいては自己欺瞞一般(「看板のあることを欲する心」)について語ったが、もっと無に帰そうとする自己欺瞞というものもあるように思う。

虫が部屋を飛んでいた→落ちた

2019-08-26 17:10:05 | 日記




「あれをほんとうの黄金でできている虫だと想像した点がさ」彼はこの言葉を心から真面目な様子で言ったので、私はなんとも言えぬほどぞっとした。
「この虫が僕の身代をつくるのだ」と彼は勝ち誇ったような微笑を浮べながら言いつづけた。「僕の先祖からの財産を取り返してくれるのだ。とすると、僕があれを大切にするのも決して不思議じゃあるまい? 運命の神があれを僕に授けようと考えたからには、僕はただそれを適当に用いさえすればいいのだ。そうすればあれが手引きとなって僕は黄金のところへ着くだろうよ。ジュピター、あの甲虫を持ってきてくれ!」


――ポオ「黄金虫」

「死に入る魂」をめぐって

2019-08-25 22:40:00 | 文学


なのめにだにあらず、たぐひなきを見たてまつるに、「死に入る魂の、やがてこの御骸にとまらなむ」と思ほゆるも、わりなきことなりや。

夕霧の前には紫の上の輝かしい遺体があって、死んでゆく魂がそのまま体に留まってほしい、とも思ってしまうのであった。昔から「魂」というものを人が感じたり書いたりするときにどういう気持ちなのかよくわからないが、確かに死体に直面したときそれを感じるというのはあると思う。心は死んでいるからあり得ないが、魂は感じるということがある。

それも、夕霧がほとんど紫の上に恋していたということが重要であろう。三島由紀夫ではないが、恋は個別的な感情の最たるもので、魂はそれを客体として眺めたようなものではなかろうか。しかし、われわれは近代の住人なので、ボードレール「告白」みたいに客体は向こう側まで行ってしまう。

美しい女性でいることは何と苦しい務めだろうか。
機械的な微笑の中で
恍惚としている、狂った冷たい踊り子の
退屈な労働のようなものだ。


ここまでいかない人々が大和魂とか盛り上がってしまうわけである。

アイルランド独立戦争から内戦を描いた、映画「麦の穂をゆらす風」には、独立運動の司令部からきた命令に従って幼なじみとか弟を殺すに至る若者たちが描かれている。彼等は、近親者を手にかけその死体を見たときに魂を見たに違いない。植民地独立運動にはこういうことがある。愛国心みたいなものと、死者の魂の問題をなんとか自分で始末をつけたことのある人々と、そうでない人々の間には大きな人間としての差があるにちがいない。

源氏の人生

2019-08-24 19:28:14 | 文学


「大人になりたまひなば、ここに住みたまひて、この対の前なる紅梅と桜とは、花の折々に、心とどめてもて遊びたまへ。さるべからむ折は、仏にもたてまつりたまへ」
と聞こえたまへば、うちうなづきて、御顔をまもりて、涙の落つべかめれば、立ちておはしぬ。


匂宮がかわいくてしょうがない紫の上である。優しく言ってるが、住所指定、愛でるお花も指定、お花の扱い方も指定、自分が死んだ後ちゃんとしなさい、みたいな命令である。わたくしだったら、「強制するな」とか言うておばあさまを困らせたであろうが、匂宮はそういうひん曲がった根性ではなかったのでしおらしい。源氏物語は、源氏が生まれた地点がスタートであるから、彼が生まれる前にどんな心理が存在していたのかは十分に描かれない。源氏が死ぬまでの長大な物語で、もう読者はこれ以上の心理劇を考えられなくなっている。薫や匂宮が源氏にくらべて小物なのは物語上しょうがないのである。本当は、源氏も薫たちと同じく、親たちに比べて小物だったのかもしれないのだ。

わたくしは一瞬、源氏物語が平安朝を終わらせたのではないかとも妄想した。光源氏を打ち倒すには、もう物語の世界そのものをひっくりかえし破壊するしかないからだ。

それはともかく、紫の上や源氏が人生の終わりを意識して直ぐさま出家を考えることについて、――学問的にはたくさん説明があるのだろうが、気分は分かる気もするのである。「あさきゆめみし」で、源氏が出家前に、いままでつきあってきた女人たちを延々思い出す場面があり、空いっぱいに彼女たちの面影が浮かび上がる場面があるが、これは美しいというよりほとんどホラー的なのであり、源氏にとって紫の上が死んでさすがにいままでやってきたことの重みで身がつぶれそうなのである。歳をとってくると、自分の生よりも人生が重くなってしまう。

夢は必ずしも夜中臥床の上にのみ見舞に来るものにあらず、青天にも白日にも来り、大道の真中にても来り、衣冠束帯の折だに容赦なく闥を排して闖入し来る、機微の際忽然として吾人を愧死せしめて、其来る所固より知り得べからず、其去る所亦尋ね難し、而も人生の真相は半ば此夢中にあつて隠約たるものなり、此自己の真相を発揮するは即ち名誉を得るの捷径にして、此捷径に従ふは卑怯なる人類にとりて無上の難関なり、願はくば人豈自ら知らざらんや抔いふものをして、誠実に其心の歴史を書かしめん、彼必ず自ら知らざるに驚かん

――漱石「人生」


光源氏がこういうことを言わないのは、彼が国家公務員みたいな人だったことと関係があるであろう。彼にはいろいろ見えすぎていなければならなかったからである。

「御心をこしらへたまふ」的な

2019-08-23 23:49:03 | 文学


故君の異なることなかりしだに、心の限り思ひあがり、御容貌まほにおはせずと、ことの折に思へりしけしきを思し出づれば、 まして、かういみじう衰へにたるありさまを、しばしにても 見忍びなむや」 と思ふも、いみじう恥づかしう、とざまかうざまに思ひめぐらしつつ、わが御心をこしらへたまふ。


落葉の宮は夕霧と結ばれたが、昔の柏木のことを――柏木はたいしたことない風貌なのにおもい上がっており、そいつが彼女のことを「たいしてかわいくないね」と思っていたらしいことを思い出してしまう。柏木への恨みは他にいろいろあったのかもしれないが、ここで言われているのは、自分の容姿がたいしたことないのを柏木の視線によって意味づけ、柏木も大した容姿ではなかったと反芻し、美しい夕霧から見て自分は更に歳もとってるし大した容姿ではない(「いみじう衰へにたるありさま」)という、容姿が悪いことの言霊乱反射みたいな現象で、――そうやって、まさに彼女は自分の「御心をこしらへ」るしかないのであった。しかしまあ、こういうありかたは、反応のない死んだ相手のことが絡んでいるし、心理的苦労をする暇があるともいえるわけである。源氏なんか、あまり書かれてはいないが、途中から紫の上や女三の宮のことだって、自分の仕事と同時にかんがえなければならないことに過ぎなくなっていたはずである。仕事で人間関係を関係として思考することはまた別のことである。それは、たいして興味のない人間どうしの反応を想定しながらの困難な仕事である。

「源氏物語」などが樂にすらすら讀めるやうになつたら、或ひは大いに僕など影響を受けるやうになるかも知れません。[…]その梗概を讀んだりして空想してゐるのですが「若菜」の卷のあたり、それから「宇治十帖」などは隨分好きになれさうです。前半よりもずつと。そこに出てくる柏木とか、薫大將とかは、光源氏なぞより僕には親しみ深いやうな氣がされます。それから「窄き門」のアリサを彷彿せしめるやうな女性なども出てくるからです。

――堀辰雄「更級日記など」


堀辰雄が思っていたのとちょっと違うような気がするんだが――それはともかく、堀辰雄の小説が何かあれなのは、「源氏物語」と「狭き門」を足して二で割ったような女が出てくるからである。そりゃ像がぼやけるわけである。堀は能は「ぼんやり見てゐればそれだけでも何か解つてくるものがある」と言っている。この「ぼんやり」に賭けたのが堀辰雄であって、そこには「見る」ことの根底に何か直観じみたものを確信しているからである。

ただ、そういうのは風景や惚れた女子に対して向いていても、泥沼になった人間関係には向かない。

テレビでやっているドラマなどをみても、我々が仕事に対してまだ「ぼんやり」な人間把握が残っていると感じることが多い。日本で「空気を読む」というのは、その「ぼんやり」を感知することである。我々が「ぼんやり」処理できるからといって、赤の他人まで「ぼんやり」しているとは限らない。

イヴァン・イリイチが『脱学校の社会』で、文化大革命を「脱学校化」の試みとして判断を保留しているのを読んで、ちょっとびっくりした。我々が住んでいる世界は学校ではない。寄り添うとか生徒目線とか、他人事ととか自分事とか、学校世界のなかでしか通用しないことを社会でいつまでも言っているから、頭がゆるくなっているのだ。何が想定外だ。相手は津波じゃねえぞ。

何ごと言ふぞ。おいらかに死にたまひね。まろも死なむ

2019-08-22 23:06:53 | 文学


「いづことておはしつるぞ。 まろは早う死にき。常に鬼とのたまへば、同じくはなり果てなむとて」


帰ってきた夕霧にたいして「ここを何処だとおもってるんですか。私ぁとっくに死にましたよ。いつも鬼だと言うから、なってしまおうと思いまして」と怒り狂う雲居雁である。夕霧はちょっとバカなので、

「かく心幼げに腹立ちなしたまへればにや、目馴れて、この鬼こそ、今は恐ろしくもあらずなりにたれ。神々しき気を添へばや」


恐ろしいのになれたので神々しさが欲しいなどと、ほぼナチスみたいなことを口走るのであった。雲居雁、

「何ごと言ふぞ。おいらかに死にたまひね。まろも死なむ。見れば憎し。聞けば愛敬なし。見捨てて死なむはうしろめたし」

「何を言うのよ、速やかに死ね。私も死ぬから。(以下略)」という感じなのであるが、それでも彼女は語り手や夕霧にとってはかわいいらしいのである。

映画「主戦場」で、韓国のことを「かわいい」と言っていた人がいた。雲居雁の場合、まだ旦那の人となりが分かって「死ね死ね」言っているので結局それも「かわいい」みたいなことになるのかもしれないが、――そんなコミュニケーションはほとんどの場合通用しない。本当は上の二人だってかなり危機的なのだ。

今日は朝からちょっと思うことがあって鷗外の「かのやうに」を読み直したが、結局、父親と秀麿、そして綾小路は知性と生まれの事情があるから、小説があそこで終わってもよいのである。本当は、あの後が大変なのであり、――鷗外がそれを示唆したいが、書かなかったということが重要である。

みんな手応てごたえのあるものを向うに見ているから、崇拝も出来れば、遵奉も出来るのだ。人に僕のかいた裸体画を一枚遣って、女房を持たずにいろ、けしからん所へ往いかずにいろ、これを生きた女であるかのように思えと云ったって、聴くものか。君のかのようにはそれだ。


綾小路の想定を超え化け物みたいになってしまう「手応え」のことをどれだけ鷗外が考えていたのか分からないが、――考えていたからこそ、対話で事をおさめることをしたのかもしれない。芥川龍之介の「河童」なんか、その「手応え」の化け物化を一生懸命書いているのだが、芥川の書きぶりはどことなく河童を暴走させたいところがあり、扇情的だなあと思う。芥川龍之介も最後は根無し草的である。芥川龍之介は鷗外と違って自分の物語を持っていない。一生懸命保吉ものを書いたけど、あれではよけい不安になるだけだ。

生きているだけで価値がある、という価値に我々はおそらく耐えられない。スポーツも学問も精神活動である。そこに精神をゆだねることを確保しておかないと、隣国に腹タテタみたいなことに精神を見出すことになりかねない。スポーツも学問もエビデンスだけで運営されているような状態になってしまった。そのなかで生は「ただ存在しているだけ」になっている。これでは危険である。

強固な物語を保持している国と物語が崩壊してしまった国とでは分が悪い。せめて歴史をよく振り返っていただきたい。

MASS

2019-08-21 19:20:45 | 文学


宵過ぐるほどにぞ、この御返り持て参れるを、かく例にもあらぬ鳥の跡のやうなれば、とみにも見解きたまはで、大殿油近う取り寄せて見たまふ。 女君、もの隔てたるやうなれど、いと疾く見つけたまうて、はひ寄りて、御後ろより取りたまうつ。

夕霧の巻は結構ながい。夕霧と亡き柏木の妻(落葉の宮)との関係で、手紙のやりとりがうまくいかない。というのも、夕霧には雲居雁が、落葉の宮に母御息所がしっかりついているからで、――かどうかわからんが、落葉の宮の気持ちがなんとなくはっきりしないのも理由であるが(そりゃそうだろう)、とにかく上手くいかない。しまいにゃ、作者は母御息所を病死させることで、夕霧の浮気を成就させてしまうのである。で、雲居雁は激怒し実家に帰ってしまうのであった。

思うに、この巻は本当に必要であったのであろうか。

「あさきゆめみし」でも、雲居雁がちょっとおもしろおかしく描かれていて、もう少しヒートアップすれば「はいからさん」になりそうな勢いだ。

たぶん必要なのである。源氏たちの行動は、まああれであり(恋愛行動もそうだが、「鈴虫」の宴会なんかが「憂世」離れしてるんだ)、――さすがに調子こきすぎなのである。ここで一発(もうすでにしているかも知れないが忘れました)「実家にかえらえていただきますっ」と誰かが言わなければならないのだ。紫の上には子どもがおらず、雲居雁にはえーと何人だろう……たくさん……。このたくさんというのが、雲居雁の行動の意味を増幅させる。

「あなたちょっと」と呼ぶ。「なんだ」と主人は水中で銅鑼を叩くような声を出す。返事が気に入らないと見えて妻君はまた「あなたちょっと」と出直す。「なんだよ」と今度は鼻の穴へ親指と人さし指を入れて鼻毛をぐっと抜く。「今月はちっと足りませんが……」「足りんはずはない、医者へも薬礼はすましたし、本屋へも先月払ったじゃないか。今月は余らなければならん」とすまして抜き取った鼻毛を天下の奇観のごとく眺めている。「それでもあなたが御飯を召し上らんで麺麭を御食べになったり、ジャムを御舐めになるものですから」「元来ジャムは幾缶舐めたのかい」「今月は八つ入りましたよ」「八つ? そんなに舐めた覚えはない」「あなたばかりじゃありません、子供も舐めます」「いくら舐めたって五六円くらいなものだ」と主人は平気な顔で鼻毛を一本一本丁寧に原稿紙の上へ植付ける。肉が付いているのでぴんと針を立てたごとくに立つ。主人は思わぬ発見をして感じ入った体で、ふっと吹いて見る。粘着力が強いので決して飛ばない。

――「吾輩は猫である」


夕霧の家じゃジャムなんか一瞬でなくなってしまう。吾輩は一人で、苦沙弥の家族は大勢である。吾輩は一方的に喋っているだけであるからいいが、吾輩がもし手紙を苦沙弥の家族に向けて書いたとしたら大変なことになる。一瞬で頭の悪い子ども達が手紙を回し読みだ。案外子供にも手紙というものは読めるもので、御息所の手紙がいかに鳥の足みたいに読みにくくても本当はなんとか読めたはずだ。雲居雁は読めないふりをして、もっと決定的な事態になるのを待っていたのである。東浩紀氏はネット時代の幕開けに「誤配」を唱えた。しかし、ネット時代の「誤配」は恐ろしいものであった。返信がすぐに帰ってくる許りでなく、ちゃんと届き、脅迫みたいなものも混じっている。

人が多い場合は手紙を書かぬのが一番。

「鈴虫」協奏合唱曲

2019-08-20 23:23:25 | 文学


心もて草の宿りを厭へどもなほ鈴虫の声ぞふりせぬ
など聞こえたまひて、琴の御琴召して、珍しく弾きたまふ。宮の御数珠引き怠りたまひて、御琴になほ心入れたまへり。


出家した三の宮にたいして、「ご自分で家を出て行かれたのですが、いまも鈴虫の声みたいだよ」と、絶妙なモーションをかける源氏である。琴なんかも弾いたりして。三の宮は数珠の繰るのを忘れてその琴の音に心奪われるのであった。

月さし出でて、いとはなやかなるほどもあはれなるに、空をうち眺めて、 世の中さまざまにつけて、はかなく移り変はるありさまも思し続けられて、例よりもあはれなる音に掻き鳴らしたまふ。

「世の中さまざま」がでてきてあれっとなるのであるが、このあと、源氏が柏木が生きていたらなあ~、とか言っていると、冷泉院(源氏の子ども)から手紙が来て、「月はうちから見えます」「月は変わらないけど自分は変わりました」などと、結局のところ、「月を一緒にみたいんです」と歌っているので、結局、息子のところに出かけてしまう源氏であった。冷泉院について語り手曰く、

ねびととのひたまへる御容貌、いよいよ異ものならず。

だから読者はもうみんな知ってるって――。

その夜の歌ども、唐のも大和のも、心ばへ深うおもしろくのみなむ。 例の、言足らぬ片端は、まねぶもかたはらいたくてなむ。明け方に文など講じて、とく人びとまかでたまふ。


結局、三の宮のする読経の陰気さを打ち消す、ちんちろりん?と琴の協奏曲は、息子たちと源氏たちの歌と漢詩の合唱となって華々しく場面を閉じるのであった。「あさきゆめみし」は、センチメンタルに、夕霧が横笛を吹いて「今宵父上は君をきみを許したのかもしれない」などと言わしているが、そりゃわからんぜ。とにかく陰気な浮世は、文化のパワーで強制昇華である。考えてみると恐ろしい世界である。

無論、こんな戯画化で済むような物語世界ではない。源氏物語は分かりやすい文章ではない。素人のいい加減な推測で恐縮だが、当時もそんなに容易ではなかったはずである。物語自体が謎なのだ。読者のその感情は、当時の宮廷世界の不可思議さに向かったはずである。これが重要な芸術作品の意味というやつで、――作品に対する容易な説明を許さないことが、社会への容易さをも禁じるのである。