負ける・・と、ぅぅぅ…と無念さで泣けることになる。ことにはなるが、しかしそれは、人として負けた訳ではない。いや、むしろ、人としての勝敗的な視点に立てば、争(あらそ)う必要がなくなったのだから、ある意味、勝った・・と判断できることでもある。なぜ? かは、次の短い話を読んでいただければお分かりになるだろう。
自治会長選に立候補し、僅(わず)かな票差で相手候補に破れた痩川(やせかわ)は不貞腐(ふてくさ)れながら温泉へと旅し、名湯(めいとう)に浸(つ)かっていた。岩風呂に仕立てられた広い浴室は靄(もや)のような白煙に覆(おお)われ、一寸先すら見えない。
「これはこれは…。痩川さんじゃないですかっ!」
「んっ?!」
痩川は思わず声がした方向に目を凝(こ)らし、見据(みす)えた。湯煙(ゆけむり)の向こうから現れた男は、商工会の太山(ふとやま)だった。
「なんだっ、商工会長の太山さんでしたか。こんなところで会うとは…。奇遇(きぐう)ですなっ!」
「ああ、さようで…。それにしても、いい湯ですなぁ~」
太山はそう言いながら、湯を手拭(てぬぐ)いでジャバッ! と肩(かた)へかけた。
「はい…」
「ご旅行ですか?」
「ははは…傷心旅です」
「ああ、そういや、先だっては残念なことで…」
「いやぁ~なに…。人徳(じんとく)のなさですよ、ははは…」
「いやいや、そんなことは…。いえ、こんなことを申してなんですが、残念な結果で返ってよかったんじゃないですか?」
「えっ? どういうことです?」
「私なんか、もう選ばれたばかりに日々、針の筵(むしろ)に座らされてますから…」
「そんなことは…」
「いや! そうなんです。ようやく逃げるようにこの温泉へ来たようなことで…」
「そうなんですか?」
「ええ、そうなんです。そこへいくと、痩川さんはいい! たっぷりと自由な時間が出来たじゃないですかっ!」
「ええ、それはまあ…」
「それそれ! それが一番っ! 負けるにかぎりますよっ! 近々(ちかぢか)私も負けることにして、会長を辞退(じたい)しようかと…」
「そんな、もったいないっ!」
「いえいえ、負ける・・のが一番っ!」
どうも、勝っているうちは責任が付き纏(まと)って地の底を這(は)うように重く、負けた途端(とたん)、空を飛べるような気楽さで軽くなるようだ。さらに、負けると[お負け]という特典もあり、ぅぅぅ…と、思わず泣ける喜びにもなる。
これが、なぜ? の答である。
完