身体障害者施設にいる
20歳の声を失った
寝たきりの女性の詩に
『こんな体になったけ
どしがみついて生きる』
という言葉がありました。
もしかして、仏教を読んでいるのかも知れないと思いました。
刑務所にいる人 は早く
娑婆(しゃば)に出たいと願います。
しかし、この娑婆は
極楽浄土からしたら
苦しみの世界です。
娑婆にいる僕達は
極楽浄土に早く
行きたいと願っているだろうか。
逆に苦しみのある娑婆
にいたいと願って
しまうのは何故だろうか。
親鸞聖人は私も同じだと言われたのです。
その理由は、この娑婆
が迷いの世界だからです。
迷いのなくなった人、
悟った人には娑婆は
娑婆でなくなる。
すなわち、迷っている
から離れたくないのだ。
『この世に執着しつづ
けて、そして縁が尽き
たとき、私たちは浄土
へまいるのだ。
しがみつけるだけ
この娑婆にしがみつい
ているべきだ』
と述べています。
この仏教にある言葉から
彼女はしがみついて
生きる
と表現したのかもしれない。
体が不自由になっても、
縁が尽きるまで、
この世に
しがみついて
生きると表現したのだと思うと、
健者の身なのだから
弱音は言えないと
感じました。
この世は
迷いの世界
しかし、
「迷わぬ者に
悟りなし」
(僕)
迷うから真実が
見えて来るのです。
それまで
しがみついて
生きればいいのです。
合掌
20歳の声を失った
寝たきりの女性の詩に
『こんな体になったけ
どしがみついて生きる』
という言葉がありました。
もしかして、仏教を読んでいるのかも知れないと思いました。
刑務所にいる人 は早く
娑婆(しゃば)に出たいと願います。
しかし、この娑婆は
極楽浄土からしたら
苦しみの世界です。
娑婆にいる僕達は
極楽浄土に早く
行きたいと願っているだろうか。
逆に苦しみのある娑婆
にいたいと願って
しまうのは何故だろうか。
親鸞聖人は私も同じだと言われたのです。
その理由は、この娑婆
が迷いの世界だからです。
迷いのなくなった人、
悟った人には娑婆は
娑婆でなくなる。
すなわち、迷っている
から離れたくないのだ。
『この世に執着しつづ
けて、そして縁が尽き
たとき、私たちは浄土
へまいるのだ。
しがみつけるだけ
この娑婆にしがみつい
ているべきだ』
と述べています。
この仏教にある言葉から
彼女はしがみついて
生きる
と表現したのかもしれない。
体が不自由になっても、
縁が尽きるまで、
この世に
しがみついて
生きると表現したのだと思うと、
健者の身なのだから
弱音は言えないと
感じました。
この世は
迷いの世界
しかし、
「迷わぬ者に
悟りなし」
(僕)
迷うから真実が
見えて来るのです。
それまで
しがみついて
生きればいいのです。
合掌