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残すべきもの1

2016-03-14 06:54:02 | Weblog
 こういうのって、単にニュースの記事として流れてしまうのは、あまりにももったいない。

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緊急事態での決断「後払いでもかまわない」、

3.11直後、東北に臨時便を飛ばし続けたスタッフ達の思い


【秋本俊二のエアライン・レポート】

臨時便を東北へ! 逃げ遅れた乗客を「3.11」直後から輸送しつづけたジェイ・エアの物語(下)

東日本を巨大地震が襲った2011年3月11日は、金曜日だった。

ジェイ・エアの社員たちは翌日の土曜日も、そして翌々日の日曜日も出社し、東北への便を飛ばしつづける。3.11の翌日から臨時便を設定し、2日後には臨時便4本、定期便4本の計8本を伊丹/羽田と山形のあいだで運航した。

彼らは当時、何を思い、具体的にどう動いたのか──。


社長として同社を率いた山村毅氏(現 JAL執行役員・貨物郵便本部長)が語る。

東北の空港はほぼ機能せず、現場は自転車操業に

震災直後は、東北のほとんどの空港が機能せず、使えたのは山形だけだった。

出張などで東北を訪れていた人たちが「山形まで行けば帰れるかもしれない」と、続々と空港にたどり着く。

空港ビルで夜を明かした人も少なくなかった。

ジェイ・エアは「料金は後払いでかまいません」と乗客に伝え、翌日も翌々日も伊丹への輸送をつづけた。


「現場は“自転車操業”のような状態でした。毎日毎日、1日単位で、前日の夕方から臨時便の計画を始めて夜9時ごろにそれを決定します。

それから『臨時便を運航します』という広報発表を行い、予約受付を開始すると、10分で全席が埋まってしまうんです。

東北から関西に帰りたいという人たちの間で『JALが臨時便を飛ばし始めている』という噂が広まっていました。

会社の予約センターの電話はいっときも鳴り止まなかったのはもちろん、JALのホームページを常にPCに表示させて臨時便の発表を待っていた人も多かったようです」



水没した仙台空港には通常、E170とCRJ200の2機の機材を使って大阪から3往復と札幌から5往復、福岡から2往復を運航している。

ジェイ・エアはそれらの機材を中心に、山形への臨時便を増やしていった。

しかし機材は確保できても、空港スロットをもらう交渉で難航したり、乗員をうまく割り当てられなければ飛ばすことはできない。


「乗員部の社員は調整に苦労したようです。

休暇中だった機長や副操縦士の多くが、電話で『休みだけど何かやることがあれば手伝いたい』と申し出てくれました。

気持ちは嬉しくても、しかし就業規則上、どうしても休んでいただかないといけない。

緊急事態だからといって、規則を破って飛んでもらうわけにはいかないのです。

『だったら地上業務を手伝いたいと』

と言ってくれる人も少なくありませんでした。

きっと社員全員が同じ気持ちだったと思います。

ですが、地上は地上で、社員総出で頑張ってくれている。

パイロットにはそう伝えました。

休暇明けに予想される激務に備えてもらう意味でも、むしろ身体を休めておいてもらうことのほうが大切でしたから」



山形空港には当時、伊丹から毎日3便、羽田から1便のジェイ・エアが飛んでいた。

空港スタッフは、その4便に必要な人数がいるだけだ。

しかし3.11の翌日は臨時便を含めて5便になり、その後は8便、9便と増えていく。

不足した人員を補うべく、大阪から社員を送り、その後はJALの臨時便運航を機に全国の空港スタッフが山形へ応援に駆けつけた。
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