執行草舟の本を読んでいると、「武士道とキリスト教って同じ」って考えがよく出てくる。
- 現世で栄達を求めず、永遠の生命を得る。
- 死して名を惜しむ。知己を千載に待つ。
- 利口(ヨコ・名利)にならず、愚直(タテ・使命)に生きる。
いやほんとに武士道とキリスト教って似ている。明治の御代で、内村鑑三とか新渡戸稲造とか新井奥邃とか、武士階級にキリスト教が広まったのも、頷ける。
これを敷衍して広げると、論語も武士道も「痩せ我慢」。キリスト教も痩せ我慢。不幸だけどなんとか踏ん張る。Grin and bear it.辛い境遇でも前向きに生きていく。
そう考えれば、宗教ってみんな痩せ我慢。辛くても惨めにならない。逆境でも打ちひしがれない。宗教は精神安定剤(トランキライザー)だと若い頃は思っていたけど、あながち間違っていない。逆境を痩せ我慢で乗り切る術・テク・考えが宗教。
宗教の本質は、神とか宇宙とか造物主とか、神学的・思想的・哲学的にはいろんな言い方があろう。
ただ、宗教の「機能」としては、辛くても落ち込みすぎない。悲惨になっても誇りと意地を失わない。そんな「痩せ我慢」機能がある。
こういうプラスな機能があるからこそ、有史以来、人は宗教に頼ってきた。または利用してきた。
宗教は、痩せ我慢するためのツールであり、支えであり、理論武装である。
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ほんとうに信心深い方には違和感あるでしょうが、特定宗教に帰依していない私には、そう思える。
「論語と経営・コンプライアンス」ってセミナーをするにあたり、論語・儒教・武士道に関して100冊くらい本を読んで、こんな考えを思いつきました。