一つ前の記事に書きましたが、3/25(土)にTOMOKAさんが新潟に遊びに来てくれました!
「TOMOKAさんと新潟旅行、1日目!」
この記事にも書いたのですが、3/25(土)に、劇団うりんこさんの「妥協点P」を観て来たので、感想を書いていきます!
今回の「妥協点P」は、おやこ劇場さんが新潟に呼んでくれたものでした。
僕は去年おやこ劇場さんが新潟に呼んでくれた「空の村号」を観て以来、おやこ劇場さんと知り合いになって、たまにこうして面白い演劇があると、声をかけていただいています。
この「妥協点P」という演劇は、僕の好きな「ままごと」の柴幸男さんが脚本ということで、以前から気になっていました。
2014年に松本で、去年は妙高で公演があったのですが、いずれも観に行くことが出来なかったので、今回こうして新潟で観劇できて嬉しかったです。
さてこの「妥協点P」、どんな演劇かと言うと、ある高校を舞台に、一人の女子高生が文化祭で上演したい演劇の脚本を書くのですが、その脚本が先生から上演できないと言われ呼び出されるところから始まります。
女子高生は、脚本を書き直すことになるのですが、次に持ってきた脚本には、なんとつい先程まで先生が女子高生を呼び出し脚本について言い争っていた内容が盛り込まれてしまっているではないか!
そんな内容の脚本になってしまったことで、再び先生は女子高生を呼び出して言い争うのですが、再び女子高生が書き直してきた脚本には、また更に、ついさっきまでの先生と女子高生とのやり取りが組み込まれてしまっているのです!
そんな展開が何度も何度も繰り返されて、その度に脚本はどんどん長くなっていき、その度に先生はどんどん混乱し、学校関係者を次々と巻き込んで事態はエスカレートしていくのですが、そのドタバタさえも女子高生は脚本に書いてしまう…という、一体いつまで経ったら終わるんだ!という物語が、延々と繰り返されるのです。
まず、この時点で、僕は相当面白かった!と言うか、こんな演劇が観たかった!とさえ思ってしまいました。
何故なら、この「妥協点P」の中で女子高生が次々に書いてくるような脚本こそ、僕が求めているような演劇だったからです。
話はそれますが、僕が好きな小説に、森見登美彦さんの「夜は短し歩けよ乙女」があります。
その中の秋の章には、大学の学園祭で演劇が登場するのですが、僕は本当にこの演劇の下りが大好きで、と言うか、これぞまさに僕が一番求めている演劇なのです。
どう言うことかと言うと、この小説の中では、学園祭の開催中に大学の至るところで演劇がゲリラ上演され、それを学園祭事務局長が何度取り締まろうとその包囲網を掻い潜りながら、次々とゲリラ上演されていきます。
しかも、何が面白いかと言うと、この物語の中で演劇の脚本を書いている人物は、学園祭の開催中にアドリブでどんどん上演しては即座に上演しており、さらに、それと並行して学園祭の中で発生する様々な出来事さえも、時事ネタとしてアドリブで次々と演劇の中に盛り込んでいくのです!
この、その場で見聞きし感じたことを何もかもを作品に取り入れてしまう貪欲さ、書こうと思ったら次の瞬間にはすでに脚本を書き上げ更には上演してしまうような異様なまでのフットワークの軽さ、行き当たりばったりでも気にしないアドリブ精神、そして、誰かに止められそうになろうともそんなことは気にも留めずに、と言うかそれさえもネタにして脚本を書き続けてしまうガッツ!
こういう勢いとノリの良さこそ、僕は演劇に一番求めていると言っても過言ではありません。
演劇に限らずとも、その人の体験したことがその人の作品に次々と反映されていくことの面白さは、例えば僕がドキュメンタリー映画やエッセイが好きなことにも通じますし、それこそ今僕がこうして書いているブログなんかまさにそうです。
僕は常日頃から、日々体験したことを何でもかんでもブログに書いてしまいたいと思っているので、「夜は短し歩けよ乙女」のような演劇こそ、僕が今こうしてブログを書いている気持ちそのままじゃないかとも思うのです。
そう考えると、何度先生から脚本を注意されようが、その出来事さえもネタにして脚本に取り込み、どんどんどんどん脚本を書き続けてしまう「妥協点P」の女子高生こそ、僕が求めているような演劇をまさに体現している人物であるなあと思ったわけです。
僕が求めているような演劇だった、というのは、こういう理由です。
それともう一つ、この「妥協点P」という演劇のこの過去の出来事が次の瞬間には脚本の内容になっていく、という構造は、演劇だからこその面白さを発揮していたと思います。
と言うのも、言葉で説明するのが難しいのですが、まず最初に先生と女子高生が脚本を巡って話しているシーンは、そのシーンを見ている時はただの「二人が言い争っているシーン」なのですが、次のシーンで「…という内容の脚本を女子高生が書いてきた」という展開を迎えると、さっきまでのシーンがただの過去ではなく「劇中に登場する脚本の中の出来事」になってしまうのです!(…ってこの説明、伝わりますかね?)
つまり、演劇が進むにつれて、女子高生新たに脚本を書いてくるたびに、それまでに舞台上で上演されてき出来事は次々と「脚本の中の出来事」になってしまう、ということがひたすら繰り返されるという面白い構造の演劇なのです。
しかもそれを「妥協点P」という「演劇」という形で上演することで、この演劇を観ている観客は、「今自分が観ているのは脚本を巡るやり取りなのか?それとも脚本の内容なのか?」というのがどんどん分からなくなっていく、という、本当に人間を煙に巻くような演劇だったなあと思います。
さらに想像力を働かせると、この演劇の全体そのものが、女子高生が書いた脚本の内容なのではないか?はたまた、それを実際に文化祭で上演した演劇の内容がこれなのか?などなど、色々な可能性が浮かんできます。
また、さらに複雑に考えると、この演劇の世界では本当に演劇は上演されたのか?上演されなかった脚本の内容がこの演劇なのか?はたまた、実際に上演するかしないかが決まらない途中までがこの「妥協点P」という演劇なのか?などなど、本当に様々な可能性が考えられる構成になっています。
つまり、物語の中で、その物語そのものを物語の中で書き記す存在が登場することで、どこまでがこの物語なのか分からなくなっていく、というある意味メタ的な構造を持った演劇なのですが、僕はこれを観た時に、ミヒャエル・エンデのファンタジー小説「はてしない物語」みたいだなと思いました。
「はてしない物語」という本は、物語中にも『はてしない物語」』という本が登場し、その本に出会って読み進めていく少年の物語と、その少年が読んでいる『はてしない物語』の内容が交互に続く、というメタ的というか、不思議な構造の物語なんですね。
そして、少年が読んでいる『はてしない物語』の中に、世界のあらゆる物事を本に書き続ける男が登場するのですが、『はてしない物語』の登場人物であるはずのその男が、『はてしない物語』を読んでいる立場であったはずの少年とその本との出会いを本に書いている、という、二重構造を逆手に取ったみたいな展開が登場します。
少年は自分が読んでいる本に読者であるはずの自分が登場して非常に驚くのですが、その本を読んでいる自分にとっても、今読んできたはずの「はてしない物語」と同じものが冒頭からもう一度始まってしまうという、二重、三重に驚くような内容になっているのです。
意味分かりますかね…?要するに、「はてしない物語」という小説を読んでいると、物語中に「はてしない物語」という自分が読んでいるのと同じ小説が登場し、しかも、「はてしない物語」の中に登場する「はてしない物語」の中にもさらに「はてしない物語」が延々と続いていく…という無限ループに陥ってしまうのです。
「妥協点P」の、女子高生が脚本について先生に指摘されて書き直した脚本に、そこまでの出来事と同じ内容が書いてあって、それをさらに先生に指摘されて書き直した脚本には、またさらにそこまでの出来事と同じの内容が書いてあって…という無限ループが「はてしない物語」っぽいなあと思ったのは、こういう訳です。
ちなみに、「はてしない物語」の中ではその無限ループを打ち砕くために、少年が自分が読んでいる本の中に入って行って、物語の流れを変える、という超展開が登場するのですが、これは多分、本を読んでいる読者にとっても、自分が本の中に入ったような気持ちにさせるような効果があるのだと思っています。
「妥協点P」には、そのような無限ループを打ち砕くような展開は登場せずに、その途中と思しき部分で唐突に演劇は終了します。
先程も書いたように、結局、女子高生の書いた演劇は文化祭で上演されたのか?されなかったのか?それは観客には最後まで分からずじまいなのです。
僕が思うに、この演劇は、意図的に結末をはっきりさせずに読者の想像力に委ねることを、目的として作られているのではないかと思われます。
考えられる可能性の一つとして、女子高生の演劇は最終的に文化祭で上演されて、その上演内容そのものが、「妥協点P」という演劇の内容そのものである、ということも、一つの可能性だと思います。
仮にそういう結末として考えると、「妥協点P」という演劇を観ている自分は、劇中に登場する演劇を観ている観客でもあるわけで、「はてしない物語」のように観客が物語の中に入って行くような考え方も出来るなあ…などと思いました。
しかし、そういう選択肢もあくまで可能性の一つに過ぎないところが、この「妥協点P」という演劇の奥深さというか、一筋縄ではいかないところなのではないかと思います。
先程も書いたように、この演劇は、意図的にどこまでが「お話」でどこまでが「劇中劇(または劇中に登場する脚本の内容)」なのか分からないようにしてある、そして結末さえも意図的にあらゆる可能性を観客の想像に委ねる、そのことで、演劇を見ている観客の想像力を刺激することが、もしかしたらこの演劇の一番大事な部分なんじゃないかなあと思いました。
と言う訳で、自分なりに思ったことを長々と書いてきましたけど、要するに、とても不思議な気持ちになれる、というか、いい意味でももやもやして気持ち悪くなれる演劇でした。
それにしても、おやこ劇場の子供たちや、一緒に観劇したTOMOKAさんが、一体どういう感想を持ったのか、気になるところではあります。
「TOMOKAさんと新潟旅行、1日目!」
この記事にも書いたのですが、3/25(土)に、劇団うりんこさんの「妥協点P」を観て来たので、感想を書いていきます!
今回の「妥協点P」は、おやこ劇場さんが新潟に呼んでくれたものでした。
僕は去年おやこ劇場さんが新潟に呼んでくれた「空の村号」を観て以来、おやこ劇場さんと知り合いになって、たまにこうして面白い演劇があると、声をかけていただいています。
この「妥協点P」という演劇は、僕の好きな「ままごと」の柴幸男さんが脚本ということで、以前から気になっていました。
2014年に松本で、去年は妙高で公演があったのですが、いずれも観に行くことが出来なかったので、今回こうして新潟で観劇できて嬉しかったです。
さてこの「妥協点P」、どんな演劇かと言うと、ある高校を舞台に、一人の女子高生が文化祭で上演したい演劇の脚本を書くのですが、その脚本が先生から上演できないと言われ呼び出されるところから始まります。
女子高生は、脚本を書き直すことになるのですが、次に持ってきた脚本には、なんとつい先程まで先生が女子高生を呼び出し脚本について言い争っていた内容が盛り込まれてしまっているではないか!
そんな内容の脚本になってしまったことで、再び先生は女子高生を呼び出して言い争うのですが、再び女子高生が書き直してきた脚本には、また更に、ついさっきまでの先生と女子高生とのやり取りが組み込まれてしまっているのです!
そんな展開が何度も何度も繰り返されて、その度に脚本はどんどん長くなっていき、その度に先生はどんどん混乱し、学校関係者を次々と巻き込んで事態はエスカレートしていくのですが、そのドタバタさえも女子高生は脚本に書いてしまう…という、一体いつまで経ったら終わるんだ!という物語が、延々と繰り返されるのです。
まず、この時点で、僕は相当面白かった!と言うか、こんな演劇が観たかった!とさえ思ってしまいました。
何故なら、この「妥協点P」の中で女子高生が次々に書いてくるような脚本こそ、僕が求めているような演劇だったからです。
話はそれますが、僕が好きな小説に、森見登美彦さんの「夜は短し歩けよ乙女」があります。
その中の秋の章には、大学の学園祭で演劇が登場するのですが、僕は本当にこの演劇の下りが大好きで、と言うか、これぞまさに僕が一番求めている演劇なのです。
どう言うことかと言うと、この小説の中では、学園祭の開催中に大学の至るところで演劇がゲリラ上演され、それを学園祭事務局長が何度取り締まろうとその包囲網を掻い潜りながら、次々とゲリラ上演されていきます。
しかも、何が面白いかと言うと、この物語の中で演劇の脚本を書いている人物は、学園祭の開催中にアドリブでどんどん上演しては即座に上演しており、さらに、それと並行して学園祭の中で発生する様々な出来事さえも、時事ネタとしてアドリブで次々と演劇の中に盛り込んでいくのです!
この、その場で見聞きし感じたことを何もかもを作品に取り入れてしまう貪欲さ、書こうと思ったら次の瞬間にはすでに脚本を書き上げ更には上演してしまうような異様なまでのフットワークの軽さ、行き当たりばったりでも気にしないアドリブ精神、そして、誰かに止められそうになろうともそんなことは気にも留めずに、と言うかそれさえもネタにして脚本を書き続けてしまうガッツ!
こういう勢いとノリの良さこそ、僕は演劇に一番求めていると言っても過言ではありません。
演劇に限らずとも、その人の体験したことがその人の作品に次々と反映されていくことの面白さは、例えば僕がドキュメンタリー映画やエッセイが好きなことにも通じますし、それこそ今僕がこうして書いているブログなんかまさにそうです。
僕は常日頃から、日々体験したことを何でもかんでもブログに書いてしまいたいと思っているので、「夜は短し歩けよ乙女」のような演劇こそ、僕が今こうしてブログを書いている気持ちそのままじゃないかとも思うのです。
そう考えると、何度先生から脚本を注意されようが、その出来事さえもネタにして脚本に取り込み、どんどんどんどん脚本を書き続けてしまう「妥協点P」の女子高生こそ、僕が求めているような演劇をまさに体現している人物であるなあと思ったわけです。
僕が求めているような演劇だった、というのは、こういう理由です。
それともう一つ、この「妥協点P」という演劇のこの過去の出来事が次の瞬間には脚本の内容になっていく、という構造は、演劇だからこその面白さを発揮していたと思います。
と言うのも、言葉で説明するのが難しいのですが、まず最初に先生と女子高生が脚本を巡って話しているシーンは、そのシーンを見ている時はただの「二人が言い争っているシーン」なのですが、次のシーンで「…という内容の脚本を女子高生が書いてきた」という展開を迎えると、さっきまでのシーンがただの過去ではなく「劇中に登場する脚本の中の出来事」になってしまうのです!(…ってこの説明、伝わりますかね?)
つまり、演劇が進むにつれて、女子高生新たに脚本を書いてくるたびに、それまでに舞台上で上演されてき出来事は次々と「脚本の中の出来事」になってしまう、ということがひたすら繰り返されるという面白い構造の演劇なのです。
しかもそれを「妥協点P」という「演劇」という形で上演することで、この演劇を観ている観客は、「今自分が観ているのは脚本を巡るやり取りなのか?それとも脚本の内容なのか?」というのがどんどん分からなくなっていく、という、本当に人間を煙に巻くような演劇だったなあと思います。
さらに想像力を働かせると、この演劇の全体そのものが、女子高生が書いた脚本の内容なのではないか?はたまた、それを実際に文化祭で上演した演劇の内容がこれなのか?などなど、色々な可能性が浮かんできます。
また、さらに複雑に考えると、この演劇の世界では本当に演劇は上演されたのか?上演されなかった脚本の内容がこの演劇なのか?はたまた、実際に上演するかしないかが決まらない途中までがこの「妥協点P」という演劇なのか?などなど、本当に様々な可能性が考えられる構成になっています。
つまり、物語の中で、その物語そのものを物語の中で書き記す存在が登場することで、どこまでがこの物語なのか分からなくなっていく、というある意味メタ的な構造を持った演劇なのですが、僕はこれを観た時に、ミヒャエル・エンデのファンタジー小説「はてしない物語」みたいだなと思いました。
「はてしない物語」という本は、物語中にも『はてしない物語」』という本が登場し、その本に出会って読み進めていく少年の物語と、その少年が読んでいる『はてしない物語』の内容が交互に続く、というメタ的というか、不思議な構造の物語なんですね。
そして、少年が読んでいる『はてしない物語』の中に、世界のあらゆる物事を本に書き続ける男が登場するのですが、『はてしない物語』の登場人物であるはずのその男が、『はてしない物語』を読んでいる立場であったはずの少年とその本との出会いを本に書いている、という、二重構造を逆手に取ったみたいな展開が登場します。
少年は自分が読んでいる本に読者であるはずの自分が登場して非常に驚くのですが、その本を読んでいる自分にとっても、今読んできたはずの「はてしない物語」と同じものが冒頭からもう一度始まってしまうという、二重、三重に驚くような内容になっているのです。
意味分かりますかね…?要するに、「はてしない物語」という小説を読んでいると、物語中に「はてしない物語」という自分が読んでいるのと同じ小説が登場し、しかも、「はてしない物語」の中に登場する「はてしない物語」の中にもさらに「はてしない物語」が延々と続いていく…という無限ループに陥ってしまうのです。
「妥協点P」の、女子高生が脚本について先生に指摘されて書き直した脚本に、そこまでの出来事と同じ内容が書いてあって、それをさらに先生に指摘されて書き直した脚本には、またさらにそこまでの出来事と同じの内容が書いてあって…という無限ループが「はてしない物語」っぽいなあと思ったのは、こういう訳です。
ちなみに、「はてしない物語」の中ではその無限ループを打ち砕くために、少年が自分が読んでいる本の中に入って行って、物語の流れを変える、という超展開が登場するのですが、これは多分、本を読んでいる読者にとっても、自分が本の中に入ったような気持ちにさせるような効果があるのだと思っています。
「妥協点P」には、そのような無限ループを打ち砕くような展開は登場せずに、その途中と思しき部分で唐突に演劇は終了します。
先程も書いたように、結局、女子高生の書いた演劇は文化祭で上演されたのか?されなかったのか?それは観客には最後まで分からずじまいなのです。
僕が思うに、この演劇は、意図的に結末をはっきりさせずに読者の想像力に委ねることを、目的として作られているのではないかと思われます。
考えられる可能性の一つとして、女子高生の演劇は最終的に文化祭で上演されて、その上演内容そのものが、「妥協点P」という演劇の内容そのものである、ということも、一つの可能性だと思います。
仮にそういう結末として考えると、「妥協点P」という演劇を観ている自分は、劇中に登場する演劇を観ている観客でもあるわけで、「はてしない物語」のように観客が物語の中に入って行くような考え方も出来るなあ…などと思いました。
しかし、そういう選択肢もあくまで可能性の一つに過ぎないところが、この「妥協点P」という演劇の奥深さというか、一筋縄ではいかないところなのではないかと思います。
先程も書いたように、この演劇は、意図的にどこまでが「お話」でどこまでが「劇中劇(または劇中に登場する脚本の内容)」なのか分からないようにしてある、そして結末さえも意図的にあらゆる可能性を観客の想像に委ねる、そのことで、演劇を見ている観客の想像力を刺激することが、もしかしたらこの演劇の一番大事な部分なんじゃないかなあと思いました。
と言う訳で、自分なりに思ったことを長々と書いてきましたけど、要するに、とても不思議な気持ちになれる、というか、いい意味でももやもやして気持ち悪くなれる演劇でした。
それにしても、おやこ劇場の子供たちや、一緒に観劇したTOMOKAさんが、一体どういう感想を持ったのか、気になるところではあります。