舞い上がる。

日々を笑い、日々を愛す。
ちひろBLUESこと熊谷千尋のブログです。

「あしたの星☆2」出演させていただきました!

2018-07-15 00:16:05 | Weblog


このブログにも書きましたが、7/14(日)に「あしたの星☆2」というイベントに出演させていただきました。
【お知らせ】「あしたの星☆2」に出演させていただきます。(7/14 新潟市北区文化会館)



このイベントの存在を教えてくれたのは、6月に長岡で初めて出会った夏野やえさんでした。(この記事に載っています)
夏野やえさんとイキイキ feel so aliveな出会い!



さて、このイベントに出演させていただくことが決まったはいいものの、なんと本番直前に僕は物凄く体調が悪くなってしまい、まったく本番に向けた準備が出来なくなってしまったのです。
朗読の原稿がやっと本番前日に完成したのは良かったのですが、そこから動けなくなってしまい、本番当日の朝になっても起きられなくなってしまったのです。

それで、布団の中で起きられない状態のまま、頑張って起きて行くべきか、連絡してキャンセルさせてもらうべきか、しばらく悩み続けていたのですが、遅刻しそうなギリギリになってやっと起きることが出来ました。
母に車で送ってもらったのですが、本当に本番が始まる直前になってやっと到着したくらいで、スタッフの人にも心配されてしまったほどでした。



まあ、そんなこんなあったわけですが、無事に到着したので、自分の出番までは普通に客席で見ていました。
司会はNAMARAの芸人さん、審査員には、NAMARAの江口さんと、新潟青陵大学の学生がいました。



出演者はこんな感じでした。

ドリームカレッジレインボー(歌)
金内結(ピアノ)
志乃里麻衣(ギター弾き語り)
テキサスハリケーン(バンド)
K-SUKE(歌)
栗林ようすけ(太鼓)
中村ひろ子(歌)
渡辺礼子(歌)
姉さん&ゆるきゃらシスターズ(歌)

-休憩-

本間友一朗(ジャグリング)
恋路姫之丞(おどり)
夏野やえ(表現)
熊谷ちひろ(朗読)
YOHKO(独り舞台)

スペシャルエキシビジョン
 エンジェルスター&レインボー(あしたの☆星初代チャンピオン)

スペシャルゲスト
 buton&tomosuke 



前半はずっと客席でステージを見ていて、休憩後の後半から楽屋に移動して待機しました。
すると、そこに前半のステージでカッコよく太鼓を叩いていた少年、栗林ようすけくんがやってきたではないか!





そして僕の目の前でホワイトボードに顔の絵を描き始めたではないか!

ちひろ「それ誰?」

栗林ようすけくん「あなた!」

まさかの俺の似顔絵を描いてくれていた!ありがとう!





すると、今度は二人の顔を描き始めたではないか!

ちひろ「それは?」

栗林ようすけくん「あなた!」

ちひろ「えっ!?二人いるのに!?じゃあもう一人は?」

栗林ようすけくん「あなた!」

二人とも俺だった!





すると今度は今までよりも複雑な絵を描き始めたではないか!





ちひろ「今度は誰?」

栗林ようすけくん「あなた!」

やっぱりね!





しかし、さらに彼の筆は止まらず…





よし、面白いからまた聞いてみよう!

ちひろ「これは誰?」

栗林ようすけくん「あなた!」





しかも、気付いたら頭の上にもう一つ顔があるじゃないか!

ちひろ「その顔は?」

栗林ようすけくん「あなた!」

光栄だよ!



そうこうしているうちに、自分の出番が近付いてきたので、楽屋ではなく舞台袖で待機することになりました。
ちょうど僕の直前が夏野やえさんだったんですけど、彼女は自分で書いた短歌の映像の前で、自分のここまでの生い立ちを朗読するというパフォーマンスで、内容は聞いていてしんどくなる部分もあったのですが、それも含めて夏野やえさんという人間のことが強く伝わる内容だったと思うし、彼女の表現力も感じることが出来ていいパフォーマンスだなあと思いました。



そして自分の出番では、久し振りの朗読で緊張して手が震えてしまいましたが、自分の今までの経験や感じていることを表現することが出来て良かったです。
江口さんからは、内容は良いのでこれからは演劇経験なども活かしてどうパフォーマンスするかも工夫したらいいんじゃないかというアドバイスをいただきました。



さて、無事に自分の出番が終わったので、再び客席に戻って色んな方々のパフォーマンスを見ていました。
それにしても、皆さんそれぞれの個性というか自分を表現したいという強い想いを感じるので、いいイベントだなあと思いました。

全員の出番が終わったあと、昨年行われた第1回目のあしたの☆星の初代チャンピオンである、エンジェルスター&レインボーさんのダンスパフォーマンスと、スペシャルゲストとして障害者によるダンス集団butonと聴覚障害のあるtomosukeさんによる手話とダンスのパフォーマンスがありました。
正直、参加するまでどういう内容のものなのかまったく知らずにいた僕は、想像以上にゲストも豪華な大規模なイベントだなあと思ってびっくりしましたし、もっと多くの人に見てもらえるイベントになればいいなあなんて思いました。



その後、表彰式があったのですが…





なんと夏野やえさん、準グランプリを受賞されていました!おめでとうございます!
すごい行動力もあるし意欲もある方なので、これがきっかけの一つとなり、今後の活躍が楽しみです!





そして楽屋で似顔絵を描きまくっていた太鼓の少年、栗林ようすけくんは、なんとグランプリに輝いていました!
若き才能すごい!おめでとうございます!また会いましょう!



あ、僕も参加賞的な賞状をちゃんといただきました。
まあ受賞は出来なかったけど(というか、そういうイベントだって知らずに飛び入り参加してしまったみたいなところがあるけど)、参加できただけでも自分にとってプラスになったなあと思います。





という訳で、無事にすべて終了したので、母と一緒に帰ろうと思い探していると、母は北区文化会館のロビーにあるテレビで相撲を見ていました。
ここのテレビ、北区出身の力士である豊山を応援するために、この時間になるとずっと相撲を流しているそうです。

そして、テレビを見ていると、ちょうど豊山が出てきたではないか!
すると、テレビの前に栗林ようすけくんが登場、母が「豊山が出るから応援するよ!」と声をかけると…





全然応援してないー!栗林ようすけくん、自由!
でも、なんだかんだ彼と仲良くなれて良かったです。がんばれ栗林ようすけくん!

そして北区文化会館が豊山を応援してるということも知れて良かったです。
がんばれ豊山!





はい、うまくまとまったところで、最後に自分が朗読した文章を載せて終わろうと思います





初めまして。ちひろBLUESと言います。
僕には、双極性障害と発達障害という精神の病気があります。
今日は僕が自分の生きづらさに気付いた時のことを朗読したいと思います。

長野県の大学に通っていた僕は、3年生の時、突然学校に行けなくなりました。
それまでは、小学校も中学校も高校も大学も普通に通えていました。
大学でも勉強につまずくことも特になく、家族や友人にも恵まれ、これと言って大きな悩みはありませんでした。

大学3年生になると、2つのことが新しく始まりました。
卒論に向けた研究室の選択と、就職活動です。
この2つが、どうしても僕は受け入れられませんでした。

人間には得意不得意というものがあります。
勉強はそれなりに出来たので、大学まで進学することは出来ました。
しかし、今思えば、高校受験でも大学受験でも、卒業が近づくとみんなが当たり前に考える受験というものについて、どうしても考えることが出来なかったのです。
将来について考えることが出来ない、そういう能力がきっと生まれつき決定的に欠如しているのだと思います。
それでも大学まで進学できたのは、家族や学校の先生に恵まれたからという、要するに、単純に運が良かっただけだと思っています。

そういう自分の苦手なことに、一気に気付いてしまったのが、大学3年生の時でした。
初めて不登校となり、朝になっても起きられずに何もやる気が出ない、いわゆる鬱状態というものを初めて体験し、大学の保健室を回ってくるカウンセラーを利用しました。
そこで自分の症状について自分なりに調べてみたりするうちに、自分の症状が双極性障害、いわゆる躁鬱というものだと気付きました。

病気を受け入れることは、別にそこまでのショックではありませんでした。
僕の中では、気付けて良かったという気持ちの方が強かったです。
自分の病気に気付けたこともまた、運が良かったことなのかもしれません。

病気に気付けたからと言って、すぐに今までどおりに学校に通えることが出来るわけではありません。
それから卒業までは、本当に人生で一番つらい時期でした。
早くこの状況から逃げ出したいと思っていました。

4年生になり、流石に大学の研究室の教授にも、家族にも黙っているわけにはいかなくなって、正直にすべて話すことにしました。
この時、教授に言われたことを今でも覚えています。
「すべてを完璧にやろうとしなくてもいいから、まずは出来ることだけを一つずつやりなさい。一つできたら、それから次に何をすればいいか考えればいい」
この言葉のおかげで、僕は少しずつではありますが、卒論を書いていくことが出来ました。

しかし、大学に通っていなかった僕は、同じ研究室の同級生や後輩に出会うだけで劣等感や気まずさを感じてしまっていたので、彼らが研究室にいる時間を避けていました。
いつもみんなが帰った深夜に研究室を訪れては卒論を書いていました。
そのまま朝まで研究室で卒論を書いて、帰ったら寝るという生活でした。
たまたま出会った隣の研究室の友人「みんなで卒業しような」と言われて、一人泣いたこともあります。
教授は僕のそういう状況を知っていたので、同級生たちに会わないように、研究室の学生ではなく教授の部屋で卒論を書くようにすすめてくれたこともありました。

一度、僕が大学のゼミに出られずに、保健室に行ったことがあります。
するとそこには、教授と話す母の姿がありました。
母は僕を心配して新潟から長野まで来て、教授に相談をしてくれていたのです。
そして、教授はゼミの時間を返上して、母の相談に乗ってくれていたのです。
僕はとても申し訳ない気持ちになりましたが、それから母は何度か僕のアパートを訪れ、最終的には卒業までの一週間くらいはずっと一緒に生活をするようになっていました。
思えば、僕が初めて自分の病気に気付いた直後、実家に帰った時に家族にこのことを話すと、家族はとても驚いていたのですが、僕のことを否定することはしませんでした。
教授や家族がいなければ、僕は間違いなく卒業することは出来ませんでした。
あの卒論は、僕と教授と家族の共同研究だと今でも思っています。

最後にもう一人、僕にとって欠かすことの出来ない人物の話をしようと思います。
大学の友人の與那覇という男です。
與那覇は大学一年生の時に、深夜に僕の部屋を突然訪れ、彼の好きな歌ばかりを録音したCDを勝手にかけて、寝ている僕の横で一時間くらい熱唱していった頭のおかしい男です。

僕が不登校になり、卒論も就活もまったくできずに、汚い部屋に引きこもってばかりいた時、そんな僕の部屋をまたしても與那覇が襲いました。
彼は連絡もなしにやってくると、唐突にPerfumeのチョコレイト・ディスコを歌いながら勝手に上がりこんできたのです。
その時気付きました。その日は2月14日だったのです。
そして、與那覇は何を言うかと思ったら、こう言ったのです。

「ちひろ、鉄道員見ようぜ!」

何故このタイミングで鉄道員なのか!何故バレンタインデーに男二人で鉄道員なのか!
僕がそんな突っ込みを入れる間もなく、與那覇はゲオの袋から鉄道員のDVDを取り出し、僕のパソコンで勝手に再生し始めたのです。
2時間後、その汚い部屋には鉄道員を見て涙を流す、僕と與那覇の姿がありました。
自分にとって、生涯忘れられないバレンタインデーの思い出になりました。

卒業式の日、会場を出ると、與那覇はおもむろにスーツを脱ぎ、プロレスラーのような肉体美を見せつけてきました。
彼はやっぱり頭のおかしい男でした。
その時、「ああ、親の顔が見てみたい」と嘆く声が聞こえ、誰かと思ったら、與那覇のお母さんでした。
與那覇のお母さんは愛知県でオカマバーを経営している人でした。

それから2年後、東日本大震災が発生した時、松本の僕の部屋に與那覇が遊びに来ました。
なんでも、全国を渡り歩いては遊び回っているのだそうでした。
こんな時期によくやるよな、と思った僕に、彼は言いました。

「震災でいつ誰が死んでもおかしくないって思ったから、俺は会いたいやつには会っとくんだ」

本当の意味で命の大切さを学んでいるのは與那覇なんじゃないだろうか。
相変わらずニートだった僕は、そんなことを思いました。

3年ほど前、與那覇のお母さんが亡くなったことを、彼のFacebookで知りました。
與那覇のお母さんは、うちの母とも仲がよく、いつか愛知県に旅行した時は與那覇のお母さんのオカマバーに遊びに行きたいと言っていました。
いつか行ってみたかった與那覇ママのオカマバーに二度と行けない気付いた時、僕は與那覇のあの言葉を思い出していました。

「震災でいつ誰が死んでもおかしくないって思ったから、俺は会いたいやつには会っとくんだ」

僕には確かに、将来を見据える能力もないし、仕事をする能力もありません。
生きる能力がないと言っても過言ではないのかもしれません。
それでも、有難いことに人に恵まれる才能だけはあると思っています。
きっと運がいいのです。偶然の出会いによって何とか生かされているだけの人間です。
だから、多分、これからも生きていける。今でもそう信じています。
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