狩人の道東放浪記 Ⅱ

定年後道東に移住しました。
しかし2年後、都合により帰郷しました。徳不孤必有隣の旗印は同じです。

SL機関助士時代

2019年09月12日 | その他

念願の乗務員になった。

それまでは整備掛でSLゃDCの清掃作業をしていた。辛いのは「チューブ突き」で、余熱の為に地下足袋の底ゴムから煙が出る火室に入った。煙管服を着て、ゴーグルをつけ、口はタオルで覆う。そして機関車の焚口戸から火室に入る。ランプを提げて入るが、汗がすぐに吹きだした。火室から煙突まで間にパイプが何本もあり、圧縮空気でパイプにある不燃焼物を吹き出すのだ。

上手く出来ると「ブシュッ」と抜けて行くが、不燃物が固渋していると反動でひっくり返る。もう何本あったか忘れたが、2時間ぐらいの作業であった。終了すると検査掛のOKをもらう。NOならば、もう一度やり直さねばならない。午前5時頃に終わり、風呂に入って帰った。

そのまま帰省すると母に泣かれた。風呂で洗ったはずだが、耳の中が真っ黒だったのだ。「仕事は辛抱やで」いつもこのように言われた。その仕事については何も話はしなかった。

機関助士になると、チューブ突きから解放された。白い手袋とピカピカの革靴で乗務した。見習い期間を含め2年間は苦しい毎日であった。

当時の特急列車大和号はSLで牽引していた。見習い機関助士で奈良から亀山まで乗務した。機関士からは「今日は信号を見なくて良い、通票授受もしなくて良い。止めと言うまで投炭しろ」このように指示されて奈良駅を発車した。加太のトンネルは憶えているが、投炭マシーンとなった。何処を走っていたか、一切知らずに乗務した。

関西線、奈良線、片町線、桜井線と勤務した。関西線では湊町駅へ蒸気機関車で行った。奈良線で京都駅に近づくと新幹線の下を潜った。煙を出すなと指導されていたが、黒い石炭を燃やせば煙は黒いと嘯いていた。

片町線では途中駅の前に有った屋台の天ぷら屋が楽しみであった。片町駅や放出駅にも蒸気機関車でいった。最後の方ではカメラ片手の人達が群がっていた。

関西線の加太トンネルでは苦い思い出がある。蒸気機関車の補機が付く貨物列車の思い出だ。蒸気の上りが悪く、中済家信号所通過で蒸気圧が15㌔だったと思う。普通ならば安全弁から勢いよく蒸気を噴出して登るのだ。トンネルの途中で圧が低下しだした。不完全燃焼で煙が運転室へ流れ込み、ボウ、ボウと機関車もあえぎ始めた。すると貨車(タンク車)が前後に揺れ始め、機関車は空転する。とうとう機関士は決断して、トンネルより退行し始めた。ところが最後部で押している機関車はここぞとばかり、押してくるのだ。無線機もない当時である、汽笛で合図するがトンネルの中なので騒音で伝達できない。後補機の機関士が退行してくれてトンネルから脱出、一命が助かった。運転室内は煙とガスが写真のように充満し、私は座席下の箱内の空気を吸った。機関士は席から逃げず、タオルで口を塞ぎ、懸命に運転を続けた。

トンネルの亀山方には保線区員がいて、列車がトンネルに入ると幕を下ろした。これで空気がトンネルに入らなくなり機関車の煙突から出た煙は後ろに流れる。その列車がいきなり後退してきたのだ。幕は破壊され、中在家駅は側線への進路構成をし、列車を取り込んだ。アウンで仕事をする職員たちにより輸送は完遂された。

他にも特急「大和号」の思い出や、宿泊地での思い出など懐かしい。労働運動も激しく、スト権ストにも参加した。

今となれば蒸気機関車は懐かしいが、二度とやりたくない仕事である。


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2 コメント

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ハードな世界ですね (京男)
2019-09-12 21:03:48
こんばんは。
若い時しかできない仕事ですね。
いまの若い子なら半日と持たないだろうな。
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飯の種 (常盤万作)
2019-09-12 21:20:39
どこでも同じように、仕事をしていたと思います。ZOZOのニュースが流れていますが、この様な仕事をしてきた者にとっては「虚業」のように思えます。
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