淸國人の學生劇
靑々園
淸國留學生中に一種の文藝協会があつて之を春柳社といふ、本國藝界改良の先導たる事を目的として新舊戯曲を研究して居る、其の第一回試演を此の春靑年會館で催してヂューマの「椿姫」を演じたが、今度第二回の演藝大會はズッと大がゝりに本郷座へ持出して「黒奴籲天錄」といふを演じた、これは米國の小説であるを、林琴南といふ支那人が譯して同國に行はれてある書物ださうな、それを春柳社中の存興といふ學生が劇に脚色して今度の塲に上ぼせたのである、番付に原譯者の序文が附記してある、之を見ると、原譯者は廿世紀の昔に白人が黑人を奴隷として虐待したと同き筆法を今日では黄人に向けて、支那の移住民をいぢめて居る、其の事に憤慨して筆を執つたとある、思ふに今度劇に上せたのも之と同き意味で含まれて居るのであらうが、ひとり支那人のみならず、日本人の刻下日米の外交問題から、支那人と一樣の感概を以て此の劇を見る事が出來る。
自分の芝居へ飛込んだ時には、既に第一幕の「解而培 チヤルピー 之邸宅」が半ば濟んで居たが、番付にある筋をたどつて見ると、この解而培 チヤルピー といふが米國の紳士で奴隷の施主である、其處へ人買の海留 ハイリユー といふが來て解而培 チヤルピー に貸した金を催促して居る塲であつた、海留に扮した濤痕といふは商業學校の支那語の先生で、此の人は屡々芝居をした事があるといふ、成程、舞臺馴れて、愛嬌があつて、其れで押出しが立派で、調子も立てば動作も熟した道化方であて、一方の主人の解而培 チヤルピー に扮した喃々は眉から鼻のつくりが西洋人そつくりで、特に白粉の塗りやうが白人種の肌色を能く寫して居る、それで花車な神經質な人物らしい、相手が三枚目式に催促する色々の科白がある間、始終ふさいで當惑して居る、最後に已むを得ず此處の奴隷の女房意里賽 イリサイ が息子の小海留 せうハイリユー を連れて登塲する、海留 ハイリユー が其れに眼を着けるといふので幕になるが、此の幕切の位置は日本の壯士芝居そつくりであつた、跡で聞くと、此の一座の、連中は殆ど日本の壯士芝居を缼かさずに見物し且つ今度の稽古に藤澤淺次郎が指南をしたといふので、成程と合點が行つた。
第二幕は「工廠記念會」といふ塲で、威立森 イリツシン といふ大工塲の主人が記念會に客を招く、其等の人々が大勢登塲して、最中に置かれた演説臺の脇に主人威立森 イリツシン が腰かけ、上手に數多置かれた椅子に來賓が座はる、下手には男女の奴隷が立ちて、ずつと橋掛りには此の曲の主人公たる奴隷哲而治 チヤーレス が立つて居る、先づ主人の威立森(我尊)が演説臺に立つて拶拶があり、次いで來賓のうちから彼の人買の海留 ハイリユー が飛出して演説をする、語は自分に通ぜぬが、刎ねる音の多い事と、抑揚緩急の複雑な點と又之れに伴ふヂェスチューアとは全く西洋風である、次ぎに、前幕の解士培 チヤルピー の妻愛密柳 アイミエル が下手へ行つて洋樂を奏する、此れに扮したのが息霜といつて背景主任といふ肩書が番付に出て居るが、聞く所によると美術學校の學生で背景から番付の總までを自分で擔任して居るのださうな、其れで非常なる金滿家の息子で此の社中では最も有力者であるのみならず、一座の立女方として此の前の試演には椿姫に扮したといふ、容貌は細長くて其れに白粉の塗がわるくて風采やゝ揚がらぬが、洋服を着た形と歩み出す姿は殆ど西洋の婦人になりきつて居る、そうして隱藝に音樂まで聞かすのが、今度の身上と思はれるが、此れが了つて、下手に立つて居た四人の女奴隷舞踏をする、其れにつれて彼の哲而治 チヤールス に扮した抗白が樂器を奏じる、舞踏は日本の田樂らしくて而して間がの延びて單調なものであつた、其の次ぎには前の人買の海留 ハイリユー が再び臺に向つて滑稽演説や蓄音機の聲色をつかふ、此の人は上手に腰かけて居る間も始終滑稽な動作をして見物を笑はせたが、餘りノベツなので、後 あと ではうるさく感ぜられた、服部谷川か藤井六助か只それより垢抜けのしたやうな藝風だと思つた、次ぎに侯爵に扮した羅奥といふが臺に立つて印度の唄をうたふ、これは本物の印度人ださうなが、道理で布で頭をつゝんだ格好からが能く出來たと思つた、斯んな本郷座式隱藝の餘興がタップリあつて、次に威立森 イリツシン が彼の奴隷哲而治 チヤアルス を呼出 よびだし て賞牌を授ける、すると下手の來賓の中から韓徳根 ハントゲン といふ人物が飛出して抗議を申込む、トゞ哲而治 チヤールス の手から其の賞牌を 取るので、一座が惣立ちの所で幕になる、此の韓徳根 ハントゲン が彼の哲而治 チヤールス の主人なので、日本で言へば、三庄太夫をいふべき此の曲の立敵 たてがたき なのであるが、扮する人は前に述べた脚本主任の存呉である。
第三幕は「生離歟死別歟」、これが曲中の泣かせ塲で、舞臺面は解而培 チヤルピー の庭園で、こゝに解而培 チヤルピー は人買の海留へ金の代りに彼 か の奴隷の子供小海留 せうハイリユー を渡す事を承諾して證文を渡す、第一幕と同く、主人は眞面目で沈んで、人買は道化で浮いた科白がいろゝある、此を奥の樹の蔭で、子供の意里寨 イリサイ が立聞して愁嘆の思入があつて引込む、人買も下手へ引込むと、夫人の愛美柳 アイミヤール が出て來る良人の解至培 チヤルセイ との對話があり、解至培 チヤルセーが退場して今度は意里寨 イリサイ が再び出て夫人に小供の事を泣きながら嘆願する、此の泣きやうの内へ息を引くのが木村操に能く似て而かも自然に出來て居た、夫人も同情して二人で大泣になる、此の間の白 せりふ は、自分に通ぜぬが見物の支那學生等は非常に感動された樣子で中にはハンケチで眼を拭いて居る者が大分あつた、此處へ解而培 チヤルピー が獵の出立で本物の犬を引いて出て來る、舞臺で本物の犬をつかうのは珍らしいが、此の犬は淺草邊の犬芝居から借りて來たと跡で聞いた、成程、犬までが舞臺に馴れて居て破綻を來たさいのみか、寧ろ能く調和されて居た、解而培に扮した喃々自身は第一幕から此れで四たび衣裳を變へるが、四たびとも其の好みのよかつた所から察すると、此の人は一座での凝り屋で且つ意匠家らしく思はれる、夫人から良人に意里賽の願ひを取次ぐ事があつて、解治培 チヤルピアー は聞入れずに犬と花道へ入る跡で二人での又愁嘆があつて夫人も上手へ入ると前幕の哲爾治 チヤールス が花道から出て來る、此の爾哲治 チヤールス は意里賽の良人で、今彼人買に渡る小海雷 ハイリユー は二人の仲の子なのであるが、哲爾治 チヤールス は前幕でいぢめられた主人韓徳根 ハントゲン の虐待が愈甚いから逃げようと思つて此處へ來たのである、それから夫婦の對話になる、黑人中の智者且つ勇士である、哲爾治の其のシカとした足の踏みよう、其ドッシリした態度又その力ある辯舌は流石に主人公に扮する役者らしく見えて、そうして此處へ子供の小海留 ハイリユー が奥から出て三人の愁嘆なるが妻と差對ひで毅然として涙一しづく落なかつた勇士が子の顔を見てから忽ち泣くといふ段取も自然でトゞ哲爾治 チヤールス は意を決して花道へ入る、跡を追かけて子役の泣く其の所は巧まずして能く出來た、此の間、妻は上手に顔を掩ひながら立身で幕になる、此の幕切も矢張藤澤あたりが型を教へたものらしい。
第四幕は「湯塲姆門前の月色」廣い野原に處々木立が淋しく立つた書割で下手に藪奥のような處へ木戸口が來て居る、是が湯姆 トウモ といふ哲爾治 チヤルス 夫婦と親ひ奴隷の内ですべて月夜の景である、下手から二人の醉つ拂ひが出て酒を喇叭呑みにしたりなど、いろゝ醉ふた仕打があるが、一人が嘔吐する仕草だけは餘りに下卑すぎた、こゝへ樂器をさげて樂師が出て來るを、二人が捉へて音樂を奏させる、平舞臺の眞ん中へ腰かけて樂器をかなでると、其れにつれて一人の醉つ拂ひが踞みながら、支那の俗歌をうたふ、此の歌の調子が月夜といふ背景に能く調和したのみならず、下座の方で犬の啼聲を聞かせる、舞臺の奥で笛の音がする、又遙が何處かで同じく歌をうたふ聲が聞えて、其れに和して前の醉拂ひが舞臺でうたふ、此の遠方の歌と掛合で舞臺でうたふのが、如何にも月夜らしく、そうして塲面が廣く思はれて面白い意匠であると感じた、其のうちに樂師は逃げて入る、更に下手から大山君子といふ束髪姿の日本人の令嬢が伴にはぐれて迷ひ出る、跡から兄の大山豐太郎といふ洋服の日本紳士が出で兄弟の白がある、君子に扮したは前に解而培 チヤルピー になつた喃々であるが、頭から着こなし身體の態度までが日本のハイカラ令嬢を上手に扮したのみならず、「よくつてよ」式の日本語を自由に遣つた器用さには驚いた、此二人の仕出が花道へ入つてしまふ、醉拂ひは實は廻し者で小隱れする、上手の木戸から存呉の二役湯姆 トウモ がジミな老人の姿で出る、花道からは前の意里賽が子供と逃げて來て、湯姆に身の上を話す、湯姆の妻も内から出で四人の愁嘆で幕になるが、前幕で泣かしたゞけ此の塲は重複の氣味がある、只月夜の情を出したゞけが此の塲の見ものであつた。
第五幕は「雪崖之抗鬪」、舞臺一面雪降りで下手に小臺がある、此の處へ敵役の韓徳根 ハントゲン が兵士をつれて駈落した奴隷を探しに來る、此の一行が入つて花道から哲爾治 チヤルス 父子三人、外に奴隷の男女三人が出て立廻があり、韓徳根 ハントゲン は哲爾治 チヤールス にピストルで撃殺されるので幕になる立廻りと槍つかひとが支那芝居の長所と聞いた自分は此の大詰で本國得意の藝を見するだらうと豫期したに拘はらず、此處の立廻りは頗る振はないものであつた。
要するに脚本は右の通り、白人に對する反感といふ寓意のほかには何等の詩味もないものであが、背景の意匠、舞臺の統一、俳優の熟達といふ點に於ては日本の素人芝居は恐らく一歩を讓らねばなるまい、日本人のでは舞臺の歩きかたがシャチこばつて雪道をあるくやうになつたのを往々見受けるが、彼等に其んな缼點は無かつた、彼等の歩みかたでも動きかたでも謂はゆる板について居る、又甲の人物が舞臺前へ進み過ぎたり乙の人物が左右へ放れ過ぎたりして舞臺の總面を壊すのも日本の素人芝居では屡々見受けるが、彼等に其んな弊はなかつた、役々の居どころ、役々の居變りようがなかつた舞臺面の配合よくされて居た、そうして語の通じないといふ事が彼等の缼點を自分等に見出さしめぬといふ便利な條件もあるであらうが、彼等には調子が通らぬといふ弊が殆ど見えなかつた、彼等の藝は確かに苦心したものらしい、又熟練したものらしい、そうして素人芝居には珍しいほど規律と統一があつた此の規律正しいといふ事は舞臺の表のみならず、樂屋もさうであるさうな、樂屋を覗いた人の話に、彼等は普通の素人芝居のやうに何等の雜沓も混亂もなく、帽子ひとつに至るまで其れゝ責任者を定めて保管されたといふ、又稽古の重なつた事は、毎週二度づゝと極めて藤澤が指南番となり廿幾回を繰返したといふ、物に彼等の最も苦心したは、支那では南北によりて土音の非常に相違する事が、日本で東北と九州との相違などの比ではない、其の南北の人を同じ舞臺に集めて同じ言語によりて演ぜしむる事は非常に困難であつたといふ、つまり彼等は熱心なる修錬によつて此の困難に打勝つたのである。
支那學生によりて殆ど土間棧敷を充たした其の見物の態度も賞賛すべきものであつた、二日の興行に來客三千人の豫定であつたが、實際は其れ以上に超えて、二日目の如きは廊下まで人の山を築いたといふ、東京の支那學生の數多きは素よりであるが、彼等のうちには、藝術などに餘り嗜好を持たぬ人も尠くはあるまいに、斯くの通り滿塲の大景氣であつた一つの理由は彼等の團結心が強いからであらう、同國人の經畫した事業に對しては、己が嗜好の如何を置いて、義務的に來た者が澤山あつたのであらう、もし支那人に學ぶものがあるとせば、此團結心と自國人に對する同情とが其れである、日本人が、斯くの如き文藝上の經畵に於ては無論、その他の事業に於ても、甲の經畵するものは其の計畫の善惡に拘はらず、小さい意地の上から乙が之を排するといふが如きは此の支那學生の態度に對して恥づべき事と思ふ。
樂屋の規律正きと同く、見物に於て彼等の規律正きも賞賛する價値がある幕間は立つたり騒いだりしても、幕が一たび開けばシンとして熱心に見て居る聞いて居る、そうして飲食物は自分で運動塲へ出かけて求めて其處で飲食する、これは支那の劇塲の習慣からであらうが、此の有樣を見た自分は日本人の芝居見物ほど不性で厄介なものはないと思つた。
春の「椿姫」には千何百圓の純益があつて本國の水害地へ義捐したと聞いたが、今度は本郷座が一切の費用を五百圓で、受負うて而も此の通りの入であつたから、其れ以上の純益があつたに違ひない、して見ると、經濟の點に於ても支那の學生劇の成効は驚くべきものである。
此等の精悍にして畵策に長じた吾が隣國に於ける藝壇の勇士が他日故土に歸て其の希望を實行する曉に於て充分なる結果を得る事を自分は切に祈ると共に、日本に於ける同じ種類の團體と、及び其の周圍とが他山の石として大いに彼等に注目せられん事を望むのである。
上の文は、明治四十年七月一日発行の雑誌 『早稲田文學』 明治四十年七月之卷 第二十號 に掲載されたものである。