蔵書目録

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「吾が巴里よ」 楽譜 宝塚少女歌劇団 (1928.1)

2012年01月25日 | 音譜目録、楽譜目録、セノオ楽譜他

 表紙には、「宝塚少女歌劇公演 吾が巴里よ 岸田辰彌作 高木和夫編曲 Mon Paris 宝塚少女歌劇団発行」とある。奥付には、「昭和二年八月廿八日発行 昭和二年九月五日再版発行 昭和三年 〔一九二八年〕 一月三十日八版発行」などとある。23.5センチ。
 「我が巴里よ  巴里流行名曲より 高木和夫編曲」の楽譜である。

 下は、 MON PARIS!  Musique de JEAN BOYER & VINCENT SCOTTO 1925 の楽譜表紙である。

   

    ホルゲールピアノ御愛用の 宝塚楽長 高木和夫先生 〔『ピアノグラフ』より〕

    

   吾が巴里よ
         岸田辰彌作

 『ひととせあまりの
  永き旅路にも
  つつがなく帰る
  この身ぞいと嬉しき
  めずらしき外国 トツクニ の
  うるはしの思ひ出や
  わけても忘れぬは
  巴里の都
  うるはしの思ひ出
  モン巴里
  我が巴里
  たそがれ時の
  我が巴里
  そゞろ歩きや
  ゆき交ふ人も
  いと楽しげに
  こひのささやき
  あの日の頃の我を思へば
  心はをどるよ
  モン巴里
  我が巴里』

 岸田辰彌君を偲ぶ  福井生

 新星歌舞劇団一度松竹の手を離れて解散して以来、僅かに宝塚少女歌劇と時々楽天地に出現する東京小歌劇団の来訪とに依つて辛くも其歌劇趣味生活の糧を得て居る目下の関西に在つて、私は熟々 つらゝ 私の脳裡に印象されて居る歌劇界の巨人を偲ぶのである。
 其中にあつて殊に私に消し難き深き印象を留めて居るのは嘗 かつ て新星の重鎮であつて現在宝塚少女歌劇団の指導者の一人として重きを成して居らるゝ岸田辰彌君其人に外ならぬのである。
 想へば私が始めて岸田君を知つたのは私が未だ神戸に在住中確か大正五年の春頃だつたと思ふ同君が故高木徳子伊庭孝君等と共に同地聚楽館に於て『桜草咲く丘』『沈鐘』『海濱の女王』の三部を演つて居られた時なのである。
 私は往年ローシー氏指導の下に清水金太郎原信子の諸氏が神戸に来て『天国と地獄』を紹介せられた時始めて泰西の歌劇なるものを見、続いて柴田環、サルコリー両氏の同地トアーホテルに於ける確かカバレリヤ、ルスチカナと思ふ歌劇の一節を聞いて間も無い時だつたので、歌劇なるものに対して私の頭脳は実にナイーヴなものだつたので、其頭で以て高木一座に居られた岸田君に始めて接したものだから同君から受けた印象と云ふものは、実に非常なもので私の歌劇趣味生活の幼年期に於けるその印象と云ふものは抜くべからざるものと成り、爾来私をして深くも岸田君を追慕せしめたものである。
 当時『沈鐘』に於けるハインリツヒを演つて居られた同君を見て私は其日本人に珍しき堂々たる体躯から発するその全く日本人放れのした偉大なる声唱を聞き真に心の底から讃嘆せしめられたのであつた。或偉大なる力に依つて私の全身が観覧席に押へ付けられた如く、私は身動きもせず同君のそのリフアインされた声唱に聞きとれて居た。而も同君は声音のみならず其演技が一挙手一投足と雖も熱に充ち満ちて居てあの神秘劇を何れ丈活かして演ぜられたか分らぬのであつた。
 プログラムは進んで、最後の『海濱の女王』に至つた時、同君は落魄したる一乞食労働者に扮し確か花房静子だつたと思はれる其のお妻さんと英語でデユヱツトを唱はれたが其時の二人の声がピツタリと合つて、同君の立派なバリトンとあの清澄な花房静子のソプラノとの二重唱は私を心から酔はして仕舞つたのである。而も其時の同君の身振の巧妙だつたことは西洋人も跣足 はだし と云ふ程の巧さであつた。
 私は同君が科白 せりふ を使ふ時極めて微かながら外人の発音の如く巻舌的な響(それは同君にとつて実に玉に瑕 きず であると思つた)がするのを気付き、最後に英語の二重唱を聞いた時、余り其発音が良いので体躯の堂々たる所と言ひ、私は同君はてつきり混血児たるに相違なしと決めて仕舞つたのである。所が豈計らんや其後屡々新星に於て同君を見、種々なる事情よりして同君が純乎 じゆんこ たる日本男児なることを知つて私は独り窃 ひそ かに苦笑せざるを得なかつたのである。此事実は私に同君が確かに非凡の天才たるを力強く感得せしめた、私は日本人で同君程の声唱家に嘗て出会はなかつたので真に日本一だと思つた。久しく同君のお声に接しないが今でも此の私の感は其儘胸に藏されて居る。嗚呼何うかしてもう一度同君のあの声唱と演技とに接したいものだ。
 兎も角当時私は同君を私の歌劇趣味生活に於ける秘かなる恋人の如く思つて再会の日を只管 ひたすら に待つて居たのであつた。
 其内私は大阪に転住した、夫 それ は大正六年の秋だつた、確かその翌年の春頃だと思ふ道頓堀を歩いて居る弁天座に新星歌舞劇団が掛つて居て其中に計らずも同君の名前を見出したのである、その時の私のハートのときめきと云ふものは全く久しく逢はなつた愛人のゆくりなくも邂逅した時と異らず、私の歓喜といふものは譬 たと ふるに物なき状態だつた。私は前後も知らず劇場に飛んで這入つた、そして天国と地獄、スヱンガリーなどを見て私の期待は十分に酬ゐられ、益々同君に対する私の敬慕の念は増して行くのみであつた。併し新星は何時も大阪丈は流星の夫 そ の如く慌 あはたゞ しく通り過ぎて行くので、我々歌劇愛好者に取つて頗る物足らず、殊に私は沁々 しみじみ 同君の芸術に親炙 しんしや するとを得なかつたのは非常に遺憾に思つた。所が大正八年の五月大阪を打上げて京都でやられるといふ事を聞いたので、私は同劇団の夷座にかかつて居る間、殆んど毎日曜大阪から態々 わざゝ 通 かよ ひ詰めたのであつた。そして同劇団は同君夫妻を始め高田雅夫氏夫妻花房静子其他有為の諸氏を網羅して実に堂々たる大歌劇団を形成して珍しく内容の充実した立派なものであつた、私は過去に於て、此時期の新星程男優も女優も花形が揃つて豊富な充実したる歌劇団は絶後とは行かざるも真に空前と言つても過言では無からうと思ふ。私は今日迄の歌劇発達史中の黄金時代と讃美したいのである、あの華麗壮快なるハンガリヤン、ダンスの如き、私は其光景が未だに眼前に髣髴 ほうふつ とするのである。

 上の文「岸田辰彌君を偲ぶ」は、大正十年 〔一九二一年〕 五月一日発行の『歌舞』 五月号 第三年 第五号 に掲載されたものである。

 

 表紙には、「パリゼット 白井鉄造作歌・高木和夫編曲」とある。奥付には、「昭和五年七月五日発行 昭和五年 〔一九三〇年〕 八月三十日再版」などとある。23センチ。
 「パリゼット ウォルター作曲 高木和夫編曲」の楽譜である。歌詞は、一、二、がある。



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