蔵書目録

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「(大原武慶発 小山秋作宛 ?) 書簡」

2021年12月23日 | 清国日本教習 天津、北京、武昌他

        

〔蔵書目録注〕

 ・大原生  大原武慶

  この書簡は、清国在勤中の書簡と思われる。  

 なお、『対支回顧録』・『東亜先覚志士記伝』等に、大原武慶の伝がある。
 下の文は、『対支回顧録』 東亜同文会編 下巻 列傳 の「大原武慶君 (陸軍歩兵中佐)」の一部である。

  大原武慶君 (陸軍歩兵中佐)

 二十七年、現役に復して、日淸戰役に從軍、第一軍に編入せられ、二十九年二月、大尉に進み、三十一年四月参謀本部出仕に轉じ、同年五月、湖廣總督張之洞の聘に應じて、始めて武漢に入り、幕賓として武備學堂の經營に當り、先任獨逸武官の勢力に拮抗し、畫作萬方、遂に張彪、呉元愷の宿將と提携して、更に武備學堂を擴張し、我が國より平尾工兵大尉、久米徳太郎大尉、神保一等軍醫、譯官木野村政徳、及び下士等を增聘し、長江の要勝に、軍備の一大改良を圖りしは君が材幹の一端を見るに足る。三十五年、鑄方砲兵中佐と交替して歸朝、三十七年六月第一軍司令部附となり、同年、少佐に進み、安東縣及び昌圖等の軍政官に歷任し、
 〔中略〕
翌三十九年、關東總督部附となり四十年豫備役に編入せられ、大正九年退役した。是より先、四十年上海東亞同文書院監督に聘され、尋で同文會本部常任幹事に轉じ、根津幹事長を助けて、會務に鞅掌した。四十四年、黎元洪、武漢に據りて革命の烽火を擧ぐるや、君は變裝して名を武進と稱し、有留重利、原ニ吉、須田博、石田徳太郎等有志を率ゐて之に赴き、革命軍幕僚の人となり、大いに參畫する所あった。晩年志を得ず、昭和八年一月二十四日、終に靑島の寓居に逝く。享年六十八。越えて四月二十八日君が往年開基した安東縣鎭江山臨濟寺に葬る。



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