蔵書目録

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「江戸料理と通人」八百善主人 栗山善四郎(1909.10)

2018年11月03日 | 趣味 2 絵葉書、鉄道、料理、関東大震災他

  

 江戸料理と通人 八百善主人 栗山善四郎

 江戸ッ子料理の濫觴 らんしょう

 江戸ッ子料理の最も栄えたのは、文化文政の頃ですが、私共の先祖が此の商売を始めたのはずッと其以前からです。元と山谷附近は一帯にお寺ばかりでしたから、其の寺院を得意に青物店を開き、傍ら寺院の精進料理の手伝ひなどをして居ました。する中 うち に吉原が段々繁昌し出すにつれて、八百屋だけでは気が利かないと云ふので、店の片隅に一品料理を商ふことにした。それが八百善の元祖です。その後江戸ッ子料理と称するものが江戸中に数十軒も出来ましたが、私共が特に名の売れたのは、文化文政時代の善四郎といふ人が却々 なかなか の才物だつたからです。この人が抱一上人、蜀山人その他当時の諸名士と深く交 まじは り、一方には全国を遊歴して各地の料理法を研究し、又江の島の石段を造つたり、各地の神社仏閣に奉納額を配つたりして広告に力めた結果、追々繁昌するやうになりそれから料理に丹精を凝 こら して江戸ッ兒の人気を集めると共に、時の将軍家斉公の御成があつたので、非常の評判となり、遂に今日の隆盛を見るに至つたのです。

 献立の苦心と雇人

 他の料理店では主人自ら魚河岸へ買出しに行くのは稀です大抵は其日々々の献立によつて必要な品数を書附 かきつけ にして使の者をやるやうです。けれども私共では先代からの遺法で、必ず主人自ら魚河岸へ出かけて、原料の選定をする事にしてあります。若し献立通りの魚が調 ととの はぬ場合には、其場に予定の献立をさしかへて、有合せの品を買入れるのです。それに何処の割烹店でも献立は大概似たものですが、私共ではヨシ同じ原料でも其日ゝに使ひ方を変へます。而 そ して大体の献立は月に二三度も変更するものだから、永年勤めてゐる料理番でも、私の献立ばかりは当りがつかぬと云つてゐます。此処がまア特色と申せば特色ですが、その代り私は献立の意匠で年中頭の休まる事はありません。
 夏分は魚類が悪くなり易い為に、七、八の二ヶ月間は休業いたしますが、此間には年季の小僧に実地の割烹をやらせてそれを私が味はつて見て品評をする、恁 か うして十歳位からの小僧を躾けて料理人に仕上げるのです。女中の如きも桂庵からの渡り者を使はず、身元の確乎 しつかり した十五六歳の娘を年季に置いて、客の前へ出すにも、決して虚飾 めか す事は許しません。衣裳は一切綿服に限り、唯だシトヤカで上品なのを主として居りますから、御酒 ごしゅ のお相手なら芸妓 けいしや をお呼び下さいとお客様にも申すのです。

 爼と包刀の使い分け

 料理をするに一番肝腎なのは爼 まないた と包刀 はうちやう の択び方です、これが悪いと、どんな手腕 うで の好い料理人でも思ふやうな味を出せません。私共で用 つか つてゐる爼は、檜の節のない、心を去つた物で、高さ一尺三寸、幅二尺二寸、長さ一間といふ大きなものです、その新しい爼は刺身を作る時に用ひ、毎月一度づつ包刀疵を去る為に鉋 かんな をかけます。恁しないと包刀目に包刀が引 ひつ かゝつて、手際よく刺身が作れません。段々削 けづ てそれが低くなると、その爼は荒ごなしや、骨たゝき用に宛 あ てて、刺身の爼は又新らしく拵へます。ですから爼の数は幾種 いくいろ もあつて、刺身、骨たゝき、荒ごなし、野菜、獣鳥肉、魚類等皆なそれゞ爼が異 ちが ひます。でないと肉類の血が野菜についたり、野菜の匂ひが魚にうつッたりして、本統の原料 もと の味が出ません。
 それから包刀の種類も矢張爼と同じく幾通りかあります。刺身用、骨たゝき、荒ごなし、野菜でも菜切包刀に、葱、柚子などを切るのは皆別々にして決して他の物に流用しません

 料理の食ひ頃

 すべて料理は食べ頃に食べないと本統の味が解りません。食べ頃をすぎた物は、如何に名人が苦心して拵へた料理でも多少味が変ります。例へば、椀盛りのやうな物でも、温かい出来たての中に召上れば美味いけれども、時間が経つに隋 したが つて汁は鹹 から くなり、魚は鹽梅 あんばい が狂つて、折角の味が失せて了 しま ひます。殊に大一座か何かで、芸者や女中共がゴタゝ騒ぐ座敷では、埃が食物にかゝつて料理の真味は方なしです。だから腕自慢の料理を差上げやうと思つても、お客の方で食べ頃に食べて頂かないと、全く骨折甲斐がありません。それから近来流行の折詰のお土産、あれは御注文の場合は拵へますが、その場に食べるといふ料理の本来 たてまへ から申すと、実際つまらんものです。そこで私共では折詰に一々札を入れて、味の変り易い物は明日までの保證は出来兼ねますと断わつておきます而して客種によつては、其場で召上るのか、お持帰りになるのか、それを伺つた上で献立を致します。

 慶喜公の遊び振り

 近来は昔と異 ちが つて料理の通人といふのが少くなりました隋つて客種でも遊び方でも余程趣きが違つて来たやうです。以前私共へお出でのお客は、飲んだり喰つたりするよりも料理は味はうといふ方が重でしたが、近頃はそれと反対です。まア芸者でも招 よ んで大に騒がうといふ方が多いから、自然料理の味などは二の次です。そこへ行くと昔の通人は却々 なかゝ 凝つてたもので、少しでも包刀前や火加減が異ふと、今日の板前はどうだとか恁うだとか云ふ批評をなさる、芸者達でも随分舌が肥えてゐて、魚の産地まで鑑別するほどでした。ですから私共では骨の折れた代りに張合がありました。
 旧幕時代には江戸詰の諸大名や旗本衆をはじめ、将軍家などもチヨイゝお忍びお出でになりました。殊に御贔屓に預かつたのは今の慶喜公で、この方は非常な料理通です。そのお好みの肴 さかな は鶉 うづら のそぼろと、虎きすの蒲鉾で、このニ品がないとどうも酒が旨くないと有仰 おつしや るほどです。明治になつてからよく、榎本子爵をお伴につれて入らつしやいましたが、流石にお人柄だけお座敷は清いものでした。その当時吉原におしゆんと云ふ老妓があつて、チヨイゝ慶喜公の席へ招かれて来ましたが、之がなかゝの芸達者です。最も得意なのは富本、菅垣、ニ上り新内といふやうな渋いもので、公は殊の外おしゆんの咽聲 のど を感服してゐられたやうです。ところが榎本子爵は、酒は満を引くといふ方で、酔つて来ると例の銅鑼声で詩吟をはじめられるので、おしゆんが折角の美声もその為打 ぶち 壊される、すると公は笑ひながら『榎本はヨクそんな奇な声が出るものぢや喃 のう 』と仰しやるだけで、大層御酒の可 い い方でした。

 江戸ッ子式の通人

 矢張り徳川公の臣下 けらい で、田村孫兵衛といふ大の料理通がム ござ いました、先づ魚類でも出すと、この鯛は松輪で獲れたのだとか、この比目魚 ひらめ は横須賀だらうとか、或は野菜類でもこの大根は宮重の本場物でないから味がないなどと、ヨク一々言ひ当てるのです。料理店では恁ういふ大通から食つて頂くと難有いのです。
 当今 いま の紳士方の中 うち で、生粋の江戸ッ子料理通と云へば、徳川公、宗伯爵、大槻如電先生、幸堂得知先生、野島男爵、益田太郎さん、俳優では市川猿之助さん、有名な方では先づこんなものでせう。その遊び方ですか、それは各々 めいめい 流儀が異ひます。まア一口にいへば徳川公や宗伯爵は殿様風の通人、大槻さんや幸堂さんは江戸趣味の通人、益田さんや野島さん達は明治式の通人とでも申しませう。芸者も昔ほど腕達者なものは居ませんが、芸の方では矢張り廓内妓 よしはら が一等で、斡旋 とりなし の旨いのは柳橋でせう。

 上の文と写真は、明治四十二年十月一日発行の雑誌『無名通信』第一巻 第十二号 有名号 無名通信社 に掲載されたものである。
 下の写真は、同号に掲載された「味の素」の広告である。

 



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