蔵書目録

明治・大正・昭和:音楽、演劇、舞踊、軍事、医学、教習、中共、文化大革命、目録:蓄音器、風琴、煙火、音譜、絵葉書

「平壤便り」 永田鐵山 (1906.12)

2021年06月25日 | 台湾、朝鮮、ベトナム、フィリピン

  

  明治三十九年十二月二十日發行
     諏訪青年會誌  第七十七號
             諏訪青年會

  雜錄

 平壤便り
        永田鐵山
  雨期とやらむに入りぬる今日此頃降りみ降らずみ糞尿を交へたらん川の巷の流れやうゝの絕えんとする頃は早や暑熱やきつくるが如く倐ちにして糞塵空に吹き煽がれ炎天百三十度の苦熱に劒打揮はんよしもなければ夕照の樺に紅のうするヽ頃ほひ顔さへカーキー色の軍服嚴しきつはものとも打ち伴れて淖々たる大同江畔綠濃き柳の間を縫ひ或は又往にし年の名殘つきせず峯拂ふ風も矢叫びの聲かと思はるヽ牡丹台の峻嶮を攀ち等して練武するほどに涼を逐ふ浴衣姿の輕々しげにそよ吹く風に袂打ち拂はせつヽ二百三卷の美くしき乙女の金茶オリーブ白なんど淸らけきリボン結ひたる或はコスメにかためたるハイカラの涼しげなる色のネクタイあらばに何とは知らず淸き香さへするも夏ばかりは憎らしからぬを擦れ違ひさま鼻柱もゆがまんばかりの韮の息吹きつヽ垢じみたる白金巾の衣纏ひたる朝鮮人の細き道を我物顔に徨ふ見ては演武之力もなへはてヽ之も同し韓人家屋の假の寓に立歸れば又も黑雲かきみだれて早や廣からぬ庭は一面の湖つれゝのまにもに劒執る身には疝氣筋の筆先走らぬ乍ちも禿筆に鞭ち人の笑神の罸も何かはと渡韓以來目に睹耳に聽きたる事ども摘み書きしてまだ此地を踏まぬ人々の爲にものせるは此片々錄順序も系統もなく搗て加へて筆の事實に添はぬは呉ゝも許されん事懇願の至りに候

〇習俗
〇遊惰 に就て一二の例を擧ぐれば彼等は雨具なるものを殆んど有せず只僅に一代一個命より二番目の大切なる冠を濡さぬ爲冠を蓋ふに足る丈の油紙製多角錐形の被覆を有するのみに候こは降雨時殊に七月初旬又は中旬より一ヶ月半に亘るてふ雨期に於て殆んど屋外に行動せざる事の明徴と見るも過にはあらずと信じ申候尤も人間は紙張にあらずと云へば其までに候なれども近時漸く日化し來りて折々は吾邦製の傘を用ひたる何となく嬉しく感ぜられて候尚適確なる例證は當地西南方城外に於ける最も地味の豪腴なる一廣地區は極めて小人數の淸國勞働者の鍬鋤に委して顧みざる事に候此景況より揣擦して十年前淸國人が大國サラミ―と稱して偉大の勢力を有し居りたりし時代には當地附近韓人の耕耘せし地積は殆んど皆無なりし事を推するは強ち誤謬にもあらじと存じ候此外彼等の一擧一動遊惰の範圍外に逸するものは寥々晨星も啻ならず候更に彼等の
〇貯蓄心
〇進取の氣運 に至ては近頃稍々其緒を開き候やに見受け候然し乍ら保守主義事大主義の尚彼等の頭惱を支配し居り殊に迷信の深き爲め諸方面に着々發展するは到底今日望むべからず候舊來の寺子屋式矮黌舎の外に耶蘇敎中小學校昌東學校(一進會の創立)公立日語學校近々開設され逐次校舎を増築又は新築し殊に隆々朝日の如く向上せる吾邦の文明を汲まんとするや耶蘇敎學校を除く外皆日語を敎授せるが如きは以て機運の一端を想見するを得べしと存じ候然し乍ら殖産興業の方面に向ては未だ殆んど何等の連連をも見る事能はざるは遺憾千萬に候前述の
〇迷信 に就ては其例枚擧に遑あらず候當地は東南の二面大同江に圍繞せられ西は普通江北は牡丹臺乙密臺の嶮に由て境せられ南北に長く東西に短く恰も一個の舟の如き形狀をなし乙密臺の凸角は其艪とも申すべく候かるが故に土民は古來平壤を以て舟なりと傳稱し城外程遠からぬ所にある巨石に由て繁留せらるヽものと迷信せる結果は井戸の穿鑿を以て船底を穿つものとなし溺沒を恐れて古來決して城内に井を穿つもの無之今も尚邦人宮川氏が醬油釀造用として一井を穿ちたる外水の供給は總て大同江と普通江とに仰ぎ居候何と噴飯の至りには候はずや又甞て小生が郊外を巡廻せし際城西の丘腹なる松樹に大なる一個の蓆包の吊しあるを發見致し何ならんと近寄り見れば何ぞ圖らん二本は大に二本は小なる正しき人間の足の蓆外に出あるを認めたれば倉惶附近の民家に就て尋問したるに問はれたる彼は平然としてあれは痘瘡患者の屍體にて痘瘡神の荒れ玉はぬ樣献納したるなりと無雜作に答ひたるには小生も暫くは開いた口を閉づる勇氣も失せ申候迷信に就ては却々面白き事も多々有之候へ共他日筆を改めて更に申上ぐべく候以上申述たるあらゆる惡習の外に彼等は尚
〇公共の美徳
〇ビショースハリスの議論
〇地方政治の紊亂腐敗
〇順序を沒却したる沙汰には候へ共此に一寸當地の情勢を申述べく候歷史に明き諸彦の事なれは御承知の事とは存じ候へ共第一に當地の沿革を申述べんに當地に初めて都を建てられたるは殷紂の血族箕子の周の武王の爲に朝鮮に封ぜられたる時と存じ候尤も之れ以前に仙人王儉なるものありし由傳説致し候へ共判明致さず候其後衛氏起て箕子の末裔を滅し候も幾もなくして衛氏は漢の封域に入りしも漢に亞で魏の興るや北境に高匂麗勃起して屡々魏を破り遂に鴨綠江上流の山間より平壤に奠都し再び都城と相成候後唐の高宗の世高匂麗は百濟と共に唐の將李勣の爲に滅され平壤の王都は茲に潰滅致し候其後新羅の朝鮮一統は靺鞨の渤海王國建設王氏の新羅討滅後高麗(首都開城)興起と世は樣々に變遷致し遂には現皇の祖李氏の王氏を滅して京城に都するまで別に平壤に關しては記すべき事も無之候降て吾文錄元年豐太閤の征韓の擧あるや茲に又平壤の名は世に新にせられ候即ち征韓第一軍の將小西行長は壬辰の六月七日大同江に迫り東大院に本營を置き宗杉浦有馬大島五島の五將及兵卒一萬八千七百を以て羊角島(目下鐵橋の架しある所)方面より平壤を攻撃し陽退逆撃王城灘の曳瀨を渡りて牡丹臺下に肉迫し遂に之を占領致し候後明將李如松廿萬の大兵を以て來り圍むに遭ひ各分屯隊の連繋不充分なりし結果一度我手に収めたる平壤も又々如松のために回収致され候ひしは今も尚恨事として更に見る人の痛嘆措かざる所に御座候後杳として消息を絕ちたる平壤は再び日淸の役に至りて世上に其名を知らるヽに至り三才の兒童も尚且玄武門船橋里牡丹臺等の地名を知了する樣相成候更に十年を經たる日露の役には彼等の先頭當地七星門に於て初めて相見へたるにより更に一新史蹟を加へたる次第に有之候
    (以下次號)

〔蔵書目録注〕

 なお、同号の 會員名簿 明治卅九年十二月 の ◎賛助員 ◉地方散在ノ部 には、次の記述がある。

 韓國平壤歩兵第五十八聯隊第十二中隊
 (年一圓)         永田鐵山



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