グルックの歌劇
オルフォイス
日本初演の想出
◇ 石倉小三郎 ◇
オルフォイス初演と申しますのは明治三十六年のことでありますから、つまり二十世紀の始め一九〇三年今から算へて正に四十六年前の事であります。上演と云ひ初演と申しましても、全く學生達の研究のための仕事でありましたから、たった一晩一回行ひましただけで、事は終ったのでありまして、今から考ると少し惜しいやうな氣がいたしますけれども、時の情勢はそれを續けることを許さなかったとでも云ふのでありませうか。しかし、ともかく明治音樂史上の劃期的の仕事であり、破天荒の思ひ付きと申しても差支ないと思はれますが、一體老人の回顧談など申すものは、あんまりよい趣味のものとは思はれませんので、私としては差控へて居たのであります。今回はからずも本誌より御依賴を受けましたし、若し私が死んでしまへば、その事情を語る人もなくなるかと思ひまして、ここに貴重な紙面を拝借することと致しました。
それは丁度日露戰爭の前の年でありますから、東洋の風雲まさに急を告げんとしてゐたのでありませうが、私などは藝術至上主義や理想主義にあこがれて、氣らくな日を送ってゐたのでした。しかし何と云ってもその頃の日本は微々たる東洋の一小帝國で、一農業國に過ぎなかったのですから、東京市内の到る處に田園的風景が見られ、民衆の生活態度も牧歌的といふ一語に盡きるといってもよかったでありませう。上野、新橋、淺草とだけ走ってゐた鐡道馬車が電車に代って外壕線が通じ、それが本郷四丁目までは來てゐたでせうか、山の手線の省線も漸く通じ始めたくらゐの事と覺えてゐます。音樂會なども上野の學校の定期演奏會が春秋二季に行はれる外は明治音樂會といふ宮内省の雅樂寮の諸氏を中心とした小管絃樂の演奏が會員組織の形式で年二回位行はれてゐたに過ぎませんでした。上野の學校の音樂會も入場料をとって入れるといふのでなく、學校の配布する入場券を緣故をたどって買って行くといふ有樣でした。生徒數も少く三十六年の卒業生は本科九人師範科八人といふ少人數で、もっともその次の年から大分ふえてゐますが、そのような有樣で一般人は音樂などとは全く沒交渉であったのですから歌劇所演などいふことは全く大膽極まる計劃であったといふ事はおわかり下さるであらうと思ひます。
オルフォイスを演じられた吉川やまさんがその時三年生即ち新卒でオイリディケの環さんが二年に居られました時代でした。山田耕筰氏信時潔氏等の大家もまだ中學の三四年といふところでしたらう、近衛秀麿氏は學習院の初等科に居られたでせうか。私は當時の文科大學なるものの二年生で大した抱負もなく獨逸文學とやらを志してゐました。戰犯組の廣田弘毅氏などは法科の二回生、極めて謹嚴な學生で九州男子、玄洋社系の憂国慨世の志士型でしたが、私などは一高の寮生活時代でもそれ等諸氏の驥尾に附して動いてゐた意氣地のない極めて小さな存在でした。東郷茂徳氏などはその頃七高の學生で、これも珍らしい秀才で、獨逸語に優れ獨逸文學を志しその科を卒業されたのが、後に外交官に轉向してああいふ途をふまれたのであります。文科方面では片山先輩や櫻井、山岸兩君のような錚々たる連中もあり、英文學には厨川白村氏なども同期でしたが、これ等の諸君はそれぞれ立派な業績を殘して早くも世を去られたのに私ひとり僕樕の資を挾んで碌々として今日に及んでいることを心から恥ぢ入ってゐる次第であります。文學雜誌は帝國文學と早稲田文學とが對立して二つあっただけで、綜合雜誌としては太陽が一つ、それは高山樗牛氏が主宰して居られました。それ等にも音樂論などは 絕無で、私がオルフォイス上演に關聯してグルック論を帝國文學に書いたなどが音樂論の始めでしたでせう。以上前置きが少しながくなりましたが、これでこの時の時代的背景は判っていただけたことと思ひます。
私の一高在學中は一高音樂部の衰微時代でありました。その前は神保三郎氏ー精神病學の大家ーの如き專門家の壘を摩する程なヴィオリニストがあり、あとには田邊尚雄氏のような立派な技術家もありましたが私はその衰微時代に當って居りまして、島崎赤太郎先生を先生としてお願ひしてあっったのですが、同氏も研究生として非常に御多忙であり、つづいてすぐ獨逸留學に行かれたといふわけで、格別に先生を得ることもできず、大學在學中の先輩の指導で、辛うじて譜を讀むことを覺え、バイエルをあげて、チェルニーや、やさしいソナタ位どうにかたたゐていたのでありました。そして私は今以てその程度に止まってゐるのですが、同時の入學生に乙骨三郎君とふ人がありまして、同君は幕末の學者の名門の出で、上田敏氏はその從兄であった關係上外國文學の知識も廣く秀才型で技術の進歩も早く、私などは兩方面に於て常に同君に引きずって貰ってゐたのでした。
少しく音樂を學ぶにつれ、また外國語がどうやら讀める樣になるにつれ、せめて本の上ででも音樂を研究して見たいとの念願が萌え出ましたが、當時は音樂書と云へば二三の樂典教科書があったばかり、一高の圖書館にグローヴがあるのを發見して、それを辭書としてでなしに、重要な條項を讀んでは摘記したりしてゐました。歌劇とかオペラとか云ふものが西洋にはあると聞いて、渇仰の念を抱きながらも、どんな事をするものか見當もつかず、タンホイゼルとかローエングリーン(その結婚行進曲には落合直文先生によって別の歌がついて一高生徒間に歌はれてゐたが誰もその出所を知ってゐるものはなかった。)など云はれても何の事やら分らず、尤も中世傳説などに就ては、その敎を受くべき先生もなく、後には上田敏先生なども、「音樂のことは乙骨君と君とに任せておく」などと云はれる調子で、結局獨學の暗中模索を續けて居りました。そのうち當時上野の三年生であった渡部康三君や山本正夫君と相知る樣になり、今後は提携して研究して行かうとの黙契が自然に出來たのでありました。
三十六年七月にその渡部氏が卒業さるに當り、同君の令兄で當時瓦斯會社の重役で牛込の大地主であられた渡部朔氏から、同君の卒業祝に金千圓を提供するから、何か意義ある事業に用いてほしいとの申出がありました。
千圓と云へば當時としては奏任官の中級處の年俸に當るものですから、相當な金額でありました。吾々は驚きもし、感激もして、卽座に歌劇の試演といふことに意見は一致したのでありました。その頃上野で和聲學を講じて居られたカトリックの學僧ノエル・ペリー先生の指導により、グルックのオルフォイスといふ事にきまり、乙骨君と私とは歌詞の譯をなすべき御依頼を受けたのでした。時の校長は大島義脩先生でありましたが、その頃は學生が演劇類似の事をやるのは文部省令で禁止されてゐたに拘らず、充分な理解を以て適當に處理して下すった事は今でも大に感謝してゐる次第であります。その緣故で後年八高創立に際してお召しを受け、その膝下に微力を致し、同先生の推薦によって獨逸留學の命を受けるなど、私個人としては一方ならぬ恩顧があるわけで、この際先生在天の靈に對して謹んで敬謝の微忱を捧ぐる次第であります。丁度暑中休暇に入ったので、學校とは關係なく、全く學生だけの研究作業といふことで學校を拝借することの許可を受けオルフォイスは吉川やま氏(女子學習院敎授を勤められた、今も健在であらう)オイリディケは柴田環氏ときまり、伴奏はオーケストラは手が足りないからピアノで先生にケーベル先生にお願いする事とし、かくて一同勇躍して練習にとりかかったのありました。ケーベル先生は大學で哲學を講じて居られたのでしたが、その頃では唯一の最高のピアニストで眞の意味の思想家的音樂家であられたことは申すまでもありません。昨年は先生の二十五周年に當りましたさうで、先頃さる雑誌に追懐談が出てゐましたからここでは特に述べる必要はありますまいが先生の高徳、その特殊の風格學徳とを追懐するとき、誠に感慨無量であります。ペリー先生は謠曲を深く研究されて大きな業績もあるのですが、その後佛領印度方面へ行かれたとかききました。或はまだ御健在かも知れません。
外國語の歌詞をば綴音數を合せて歌へる樣に譯すといふことは、自分達は勿論始めての事であり、またその以前には誰も試みた人はないのでありましたから一體可能な事であるか如何か、隨分大膽な事を引受けたものだと思って大いに危惧の念をもったのでありましたが、案ずるよりは生むが易いといふ諺はこの塲合よく當ってくれたのでありました。そばに居て練習をきいてゐるから、メロディーは覺え込むし、感情も氣分もよく了解出來てゐましたから、原詞をながめてゐるうちに、譯詞はスラスラと口をついて出て來るといふ調子に行きました。乙骨君の外に近藤逸五郎、吉田白平兩君の援助を得て、自分は第二幕地獄の部全部と天國の入口の部分を引受けたのでしたが、オルフォイスの「ユリディス失い、わが幸うせぬ」のアリアだの、そのあと二人の二重唱など何の苦なく氣持よく出來てうれしかったことを覺えてゐます。地獄の場の三拍子つゞきのコーラスには些か弱りましたが、どうにかやってのけました。
背景は當時一流の畫家、美校教授の藤島武二、岡田三郎助兩先生を始め、當時唯一の畵會白馬會の白瀧幾之助、北蓮藏諸先生が全く無報酬で引き受けて下さったのでした。山本芳翠先生が一番先輩であり、フランスで背景には專門的な研究をされた方であったので、萬事指揮は先生に願ふこととして一同仕事にとりかかりました。道具方は磯谷健吉君といふ當時隋一の額緣屋さんが引受けられ、照明も同君と渡部、山本兩君とで苦心の研究の結果、私などの思ひもつかなかった立派な脚光が放射されたのでありました。その間に非常に困ったが併し今思ひ出しては非常に面白いエピソードがあるのであります。
ある日山本芳翠先生御不在の日、全體の構圖をペリー先生が見て何か不滿さうな顔をされる。天國の風景がお氣に召さないらしいのです。そこで岡田、藤島兩先生が相談の結果それではソルボンヌのシャヴァンヌの壁畵のようなのは如何でせうと云はれたら、ペリーさんは大變悦ばれて「それは大變よいのです」と日本語で叫ばれました。それでは早速塗りつぶせといふ事になって改案。それを聞かれて山本芳翠先生が大さう御立腹だとのこと、それは御尤も話で、まあ仕方がないあやまりに行かふといふことになって、渡部、山本兩君と私とが謝罪使となって出かけ、事情をお話して事は圓滿解決。電話はまだ普及して居らず自動車はなし電車の便もなし、人力車で上野から白金まで往復すれば一日はかゝるといふ時代のこと、今から回顧すれば面白い一挿話であります。
その頃私共は西洋の美術などに就ては何の知識もなく、ソルボンヌとかシャヴァンヌとか云はれても何の事やら分らず、それでも其事は餘程印象深くよく覺えてゐましたので、其後十年餘を經て第一次世界大戦勃發の直前、獨逸留學を命ぜられて渡歐しましたとき、まっ先に巴里へ行きまして、その日は日曜であったに拘らず、門衞に特に賴んでソルボンヌの講堂をあけて貰ひその壁畵を見せて貰ひましたが、それは全くその時のオルフォイスの背景と同じものでありました。その背景など今殘ってゐれば國寶級の逸品だと思はれますが、多分燒けてしまったでせう。
そんな有樣で練習も完成し、かくて明治卅六年七月廿三日の夜上演して上野の職員生徒のほか、畫家敎育家、外交官の外人達を招待して見て貰ったのでした。新聞方面の人も招待したのでしたが、音樂や歌劇などにはニュースヴァリューもなかったと見え格別の反響もなく、私共も就學中のこと故、その樣な事に沒頭してゐることも出來ず、その夜一回だけで事は終ったのでありました。
何と云っても我邦最初の歌劇演奏で、眞劒味溢れた純眞な藝術運動であったのは事實であります。ケーベル、ペリー兩先生始め畵壇の大家諸先生の犠牲的な指導と努力。渡部氏が千金を損ってこの事業を助けられた事實は明治音樂史の一大事實として特記して感謝を捧げてよいことゝ思っております。その方々も今は旣にこの世にはおはさず、環さんとは一九一四年に獨逸で出合い、その時は敵國人として伯林脱出の行を共にしましたが、その脱出行がやはり七月廿三日の夜のことであった事が、奇しき因緣の樣に思へてなりません。環さんとはロンドンでお別れして爾後三十年程して大阪でおあいしましたが、それが最後となりました。今は世になき方々を思ひ偲んで惆悵これを久しうするのみ、そして自分だけが生き殘ってゐることを思って感慙の念に堪へません。(終り)
〔蔵書目録注〕
上の文は、昭和廿四年三月十二日發行の音樂雜誌 『シンフォニー』 第十五輯 オペラ特集 東寶音樂協會 に掲載されたものである。