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「ローシー先生に逢ふの記」 南部邦彦 (1922.5)

2012年10月11日 | 帝国劇場 総合、和、洋

 ローシー先生に逢ふの記  南部邦彦

 

 日本の歌劇界の大恩人デービーローシー先生は目下ローサンゼルスのブロードウエーより一哩 マイル 許り西の方へ行つたピツコーと云ふ町にイタリアン倶楽部といふ大きな建物が有つて其位一階全部の大広間がローシー先生の教室で三十人許りの男女が例の服装をしてスツチヤラチャンゝゝスツチヤラチャンスツチヤラチャンゝゝ日本で使用された魔棒より一層太いのを持つてヂヤラマドンナーを呼び続けておらる。
 僕がローサンゼルスへ着いたのは一寸前の事だ桑港 サンフランシスコ とローサンゼルスとは大分気分が違ふ前者は如何にも開港場のセワゝした気分が漲つて居るが後者は何者となくユツタリとした、大まかな処の有る町だ。桑港の毎日雨降りに引替へてカラリと晴た好天気、丁度日本の五月頃の陽気だ、名の知れない赤い花が方々の垣根や寺の破目抔 など を飾つて居る、併しさすがに商業区域は盛なものだ、大体ローサンゼルスの商業地は四通の大通りからなつて居る、メン。フプリング。ブロードウエー。ヒル。の四つのスツリートからだ、東から西へ一哩許り電車は網の如 やう に自動車は幾千幾万となく通るはゝ僕はローサンゼルスへ来て一番驚いたのは自働車の多いのと女の多い事で有る何しろアメリカの女は(働いてるものは抜にして)普通家庭を持つてる女で朝食後の片付をし昼食の仕度を済すと綺麗に御化粧をして悉く大通に出掛る。だから日の中 うち に住宅地へ行くと殆 ほとん ど女の姿は見出す事が出来ない程だ、何の為にあれ丈の女が出て歩くか、悉く買物に歩くのか、然 さ うでないあれ丈の女が皆買物とすればローサンゼルスの商店は一日に売尽されて了 しま ふであらうと思ふ位女が通つてる、然して其服装が面白い戦争中生地を倹約した結果だと云ふが何しろ馬鹿にスカツチの短い恐らく膝小僧のあたりまで表 あらはした、誠に怪しからん服装をして歩いてゐる、此頃は一寸寒いので足の方は其儘にしておいて頸 くび の圍 まは りにいろゝな毛皮を巻き初めたそして毛皮で耳の辺迄かくして居る膝迄足を出して耳まで隠す日本人は下の方が冷 ひえ るといふので腰の圍りにいろゝなものを巻き付る足袋の上へモー一つカバーと云ふものをはいてゐるが当地の女は日本の人とは全然反対で感じ方が上に許り有らしいそして来年あたりは口を隠す様になればアメリカの世間も大分静かになるだらうと思ふ、扨 さて 其賑やかな町を通り過ぎて十町許り西へ行くと前にいつたイタリアン倶楽部がある四角ばつた大きな建物だブロードウエーの騒ぎに引替へて静な又上品な町だ、ローサンゼルスの名物バンカローが処々に見える其処に吾々の恩師デービーローシー先生が居らるゝのだ、僕は渡米前に伊太利大使宛にして、先生の所へ手紙を出したが受取らなかつたらしい、日本から持つて行つた土産物を抱へて先生の室のドア―を開けた向 むかう むきになつて白人と話しをして居るのは確にローシー先生だ忘れていゝものか恩師の姿を、僕は思はずどなつた  先生! ヒョイと此方 こつち を向いたローシー先生オーナンブーと!非常に驚かれたのでせう声は異様に響いた僕は先生の顔をジーツと見ると先生の目から涙が出て居るではないか!僕も泣かずには居られなかつた!若しこれが芝居なら大芝居をする処だ持つて行つた土産物の一つゝを床の上へ落して両手を拡げて先生に接吻する処なのだが僕は然 さう しなかつた僕は無言 だまつ て立つてた、先生も何故か馳 か けて来やうとはなされなかつた!然して止度なく流れ出る涙を御互にぬぐふともしなかつた!(白人が見てるのに)やがてsン性は歩み寄つて僕の肩へ静に手を上げて自分の部屋へ連れて行つた、部屋の入口で、ヂユリアゝと二声 こゑ 呼 よば はるとイエスと声が聞えたかと思ふと之を奥さんだつた、奥さんは僕を見て驚いた、そして喜んで呉れた!オーナンブさんと二の腕を力強く握つた、僕は少し落付たそして先生の面を能く見た時日本に居られた時より年を取られた耳の辺に新しい白髪が殖えた、奥さんも可なり年を取られた、先生が日本に居らるゝ時何故モツト深切にして上げなかつたらうかと強い後悔の念に打たれた。話しは初まつた、竹内、清水、石井、ローヤル館、田谷!ふとつた何?考へて居られたが安藤と大声に呼ばれた原清子さん!清水奥さん!何?一つ一つ指を折つて数へて行つた、忽ち大きな声で原さん何!原さんは一年許り前からニウヨークへ来て居ますと云つたら驚かれて馬鹿馬鹿しいネと笑はれた、話しは次へ次へと進んで行く先生が日本を経 た つ時帝劇の山本専務が非常に深切にして下すつたのは忘れられない奥さんも側にゐて私直ぐ山本さんに手紙を出しますと仰しやられた、幸四郎さんの話も出たし、宗十郎さん宗之助さんだんゝ名を呼んで松助さんの名迄覚えてた井坂さん名も出た大道具の次郎さんの事をアノ人は伊太利人だと云つてた、日本コミツクオペラ何と切 しき りにあせつて居られたが、突然増田さんと呼んだ! 増田さんが時々日本のコメデーを作られたので覚えて居られたのだ、片語 かたこと まじりの日本語で中々話に手間は取れるが夫 それ へと止度はなかつた其中に学校から帰つて来たベビーが僕の面を見忘れたのには一寸悲観した、アンナに可愛がつてやつたのに最も『お前のおやじは八釜しくつて困るよ』などと時々悪口を教へた事もあるから忘れられた方が結句 けつく よかつたかも知れなかつた。話は切れなかつたが、ダンスの生徒が集まつて来た、来るのは十五六の娘さん許り学校を卒 を へて直ぐダンスに来るらしいロシ―先生の居間は二階で下が教室、例の服装をして廻りの棒につかまり初めた三年町 ちやう の事を思ひ出した、頭が静になつた、帰らなければならない時が来た、後日を約してホテルへ帰つた、先生は日本に居られるより幸福に暮して居られる。
 午前中は一般の役者が稽古に来られる三時からは子供が来る夜は又素人が習ひに来ると云ふ様な具合で可なり能くやつてお居 ゐ でゝす電話も先生の事務所に日本引てある近日現在の学校よりモー一層広い又綺麗な所へ引移る今普請中だと仰せになりました、先生の恩を受けた我々洋劇の人々は先生の此 この 幸福なる生活を聞いて喜んで下さい。さうして時々手紙を上げて下さい。

 Mr. G. B. Rosi
 Ponet Sqnare Hotel
 Pico Grand Ave.
  Los Angeles.

 上の文は、大正十年 〔一九二一年〕 五月一日発行の『歌舞』 五月号 第三年 第五号 に掲載されたものである。

 なお、本号には、他に次の文などもある〔一部〕。

 ・日本へ帰つて … 原のぶ子
 ・横浜朝日座の歌劇 … 内山惣十郎 〔下は、文中にある写真〕

  

   『酒場の踊り子』のオルガ 河合澄子

 ・岸田辰彌君を偲ぶ … 福井生



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