蔵書目録

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『濟生學舎同窓會誌』 濟生學舎同窓會 (1938.12)

2021年02月24日 | 医学 1 医師、軍医、教育

        

               昭和十三年十二月發行
  濟生學舎同窓會誌
      長谷川先生追悼會及同窓會大會報告號
          東京濟生學舎同窓會

〔口絵写真〕 
  ・この御肖像は明治四十一年五月コッホ博士來朝の時氏に贈る爲にめに撮影せられ其の殘りし一枚を畑氏に贈られたるもの也〔上の左から二枚目の写真〕
  ・同窓會設立の恩人 大石榮三君の在りし日の面影
  ・昭和十三年十月十五日上野精養軒に於ける濟生學舎同窓會並に長谷川先生二十七回忌法要參列者記念撮影 
  ・谷中永久寺に於ける長谷川先生二十七回忌法會
  ・十一月三日 廣島市醫師會舘に於ける廣島同窓會記念撮影

卷頭言
追懐の辭       陸軍軍醫中將 芳賀榮次郎

 長谷川泰先生は、明治初年に於けるわが國醫學界の巨星であった。當時石黑忠悳、長與專齋、佐々木東洋などの諸氏と名聲並び稱され、日本の醫學に盡された功績は永く沒すべからざるものがある。
 先生ははじめ警視廳に勤め、産婆養成制度を創始せられたりしたが、そこを直ぐやめて獨力で本郷湯島に濟生學舎を創立された。私もたまゝ聘せられて講師となったが、濟生學舎は謂はゞ醫師速成機關である。規定頗る自由何年制とか何年卒業とかいふことがなく、志望によっては同一人で何れの科目をも聽講を許されてゐた。從って勉強家は前期後期の別はあったが、あらゆる科目にわたって講義を聽いたものである。當時は私立出は前述の前期後期の國家試驗があったが、大抵の學生は三、四年位でそれをパスしたものである。稀れには二年半位で全科を卒はった人もある。而して明治九年より閉鎖に至る明治三十六年迄の間に学舎が世に出した醫師の數は實に一萬五千名に及んでゐるのである。常に千名からの學生が居り、まことに旺んなものであった。
 後年、私は獨逸に留學して、圖らずも彼地の大學と濟生學舎の内容の相似たるにほとゝ感心させられたものである。たゞ異る點は、あちらの大學では學課による順序があって、上の講義を聽こふと思ふのには先きの先生の聽講證明を貰はねばならぬことである。長谷川先生が獨逸流を採り入れたものか否かは關知しないが、すべてに窮屈な規則づくめの無いところはそっくりであった。
 先生は学舎創立後、長與專齋氏の後を承けて内務省衞生局長となられ、わが國の醫事衞生制度に企圖されたところも多かったが素々官吏などとは合はない肌合ひから、その椅子を投出してしまはれた。而して今度は郷里より代議士として立たれたが、その議政壇上に於て論ずるや、常に政府が槍玉に擧げられ、江戸っ子辯舌の所謂爆彈攻撃振りは異彩を放ち、政府委員をして冷々せしめ、時の人綽名して本郷鎭臺と稱したものである。
 内に細心を藏しながらも外見頗る豪放磊落、上に強いかはりに下に對しては良かった。當時文部省が種々の規定を設けて濟生學舎へ干渉をはじめたことから意見衝突、先生は忽ち明治三十六年濟生學舎を閉鎖してしまはれたのである。 
 若しそのまゝに經營をつゞけてゐたならば當然醫科大學ともなったものであらうが、然し妥協を全然排せられたところに先生の面目躍如たるものがあったと言へよう。
 何といっても長谷川先生のわが醫學界への貢獻は甚大なものがあり、爵位くらゐは當然頂けたものである。
  官吏の壓迫をぢりゝ受けて、先生や長與專齋氏に始まる開業醫制度が奇胎に瀕せんとしつゝあるのが、現今の有樣であるが、これを見るにつけてもかゝる際に長谷川先生の如き人物があったならばと、今更にして先生を追懐するの情禁じ得ない次第である。  (昭和十三年十二月八日稿)
 
感謝のことば            ‥‥    長谷川保定

 此の度國を擧げての非常時局にも拘はらず、濟生學舎同窓會に於て亡父の二十七回忌法要を營まれ、二百數十名に亙る多數の同窓會員諸彦が會同せられ、私及び一族の者まで御招待に與りました事は、誠に感激の至に堪えぬ處であります。惟ふに近來道念頽廢し、人皆な功利に走り、人情紙よりも薄き時勢に於て、其沒後三十年に垂んとする今日、亡師を慕ふの情斯の如く厚きは、蓋し世間に類例の少ない事と存じます。況んや亡母及叔父順次郎並に物故同窓會員諸氏の法要まで兼ね行はれました御友情の厚きに至りましては、夫れ等諸氏の靈は勿論の事、亡父亡母順次郎叔父の靈も亦た定めし喜ばれる事と信じます。
 今回偶々濟生學舎同窓會誌の發刊せらるゝに當り、私は其紙面を拝借して感謝の辭を述べ、併せて聊か當日の感想を語らせて戴き度いと存じます。
 私は當日の盛會を眺めて、大に歡喜致しました。然し乍ら一面に於て私は物故同窓會員諸氏の事を想ふて、聊か寂莫の感なき能はずでありました。就中痛感致したのは、三年前物故された大石榮三君に對する追憶であります。同君が濟生學舎の職員として寄宿されたのは、年は解りませんが、恐らく私の生れて間もない事で、私の漸く物心が付いた時分に知った同君の顔には、あの人の特徴である鬚がなかったのですから、同窓會諸君の内で生れて初めて知った一番古い人と云へるでせう。廢校の三年計り前、同君は結婚して日本橋に開業せられましたが臨床講義の助手として日々通勤せられ學校の最後まで且つ一番長く勤めた職員でした。故人が同窓會創立者中の最も主なる人物で、且亡父の銅像建設運動の際に當っては、率先寢食を忘れて盡力せられたと云ふ事は、既に皆樣のよく御承知の事と存じますが、前述の如く家庭的に親しみの深かった丈け、特に私は同君を追憶して感慨無量なるものがあります。
 濟生學舎の廢校後、慥か明治卅九年の正月でした、大石君が突然私の處へ見えて、濟生學舎に寄宿した職員其他親しい人丈けで、一夕の會合を催したいと思ふ、就てはおやぢでは何ふ煙たくてゆかぬから、私に代って出席し呉れないかと云ふ事で、私は快諾して早速同君と相談の上、會場をお茶の水寳亭と定めて關係筋に通知を發した處、大石、陸、山方等の諸氏を始め十五六名の人々が來會せられ、一夕の歡を盡しました。其翌年正月にも同處に同じ樣な顔振れの集會を催し、更に四十二年正月には日本橋の平野屋に集會しました。此の時には今迄の顔振れの外、職員でなかった故木村助三郎氏、富田信吉等の諸氏も馳せ加はり、茲に始めて同窓會結成の相談が持ち上り、夫れが段々に成熟して明治四十四年四月常盤華壇に於ける謝恩會の催しとなり、遂には完全なる同窓會の成立を見たのであります。而て其の寳亭や平野屋で共に歡談した諸君の内、二三氏を除くの外殆んど皆物故せられましたので、私は當時の事を憶ふと、此等物故諸氏に對し誠に追惜の念に堪えざるものがあります。
 左りがら私は當時一面に於て、同窓會員諸氏、役員諸氏併に舊講師等諸先生の愈御壯建な御姿に接した時、何とも云ひしれぬ歡喜の念を禁じ得ませんでした。私は茲に皆樣御一同の將來益々御健勝ならん事を祈ると共に、其御厚情に對し、併せて深甚なる感謝の意を述べる次第であります。
 又今回同窓會員中篤志の方々の御盡力によりて亡父の遺稿を蒐めて遺稿集刊行の企てが計畵され其の刊行會より出版する事となりました事も誠に感謝に堪へぬ事で併せて御禮を申上げます。

                         大會委員長
大會を了りて            ‥‥ 東京 松村淸吾
同窓會設立の大恩人大石榮三君を偲ぶ ‥‥ 東京 黑河内金八
                         常任幹事
大會開催の經過及懐舊記       ‥‥ 東京 大野喜伊次 〔下は、その一部〕

 明治維新、草創の際、諸般の制度總て混沌たる時代に於て吾が醫學の制度をして確然百年の大計を立てしめ以て今日の燦然たる時代を現出せしめた事は幾多の先覺者によって成されたものではあるが特に指を屈するは實に長谷川泰先生である。
 當時大學東校(現東大醫學部)が英國醫學を廢して範を獨逸醫學に採るに至ったのは中助敎であった先生が岩佐純、相良知安の兩氏を助けて機略縱横の奮鬪によりて大西郷、參議大隈八太郎を動かして遂に吾が國醫學の基礎を確立せしめたのであった。
 後衞生局長としてはその卓絶せる識見と膽略を以て衛生行政に數多貢献する處あり又代議士としては議政壇上に侃諤の辯を揮ふて政府當局の心膽を寒からしめたなど實に吾が醫事行政に寄與せられたる功績は歿すべからさる處である。更に先生が吾か醫學界に大なる足跡を印せられた事は濟生學舎創立である。
 當時吾が國最大の私立醫學敎育機関であった同校は新進の敎授等が献身的に教鞭を採り天下の醫學生悉く其門に蒐ったと云ふ實に壯觀を極めたもので其の敎授法が期せずして獨逸の醫科大學と軌を同ふした今日の所謂自由教育方式であったと云ふ事も校長たりし先生の先覺に驚かざるを得ないのである。
 其の講議は早曉五時より晩鐘八時迄打續けられ敎室に溢れたる學生は廊下、窓外に新聞紙を敷きて聽講し、電車などの交通機關無き當時市内にても遠隔の地に住せし學生は星を頂きてわらじ履で通學した者もあったと云ふ事で今日の樂學生の夢想だも及ばぬ處である。この熱心なる勉學によりて卒業せし者貳萬五千餘を算し全國都市は素より寒村僻地にも至り或は遠く海外に迄及びて當時新進醫師として各地に於て覇を稱し日本醫師界を縱斷した一大勢力であり、又保健衛生に貢献する處大なるものがあったのである。
 若し同校が今日迄繼續せられたなら恐らく世界有數の醫學の殿堂となったであらうが明治三十六年毎に政府當局と意見を異にし衝突のみして居った先生の大學昇格申請は薄弱な理由で却下の運命を見るに至ったので性來の癇癖勃發して憤然として廢校を天下に宣言し即日校舎を鎖したのは實に惜しむべきであった。
 先生の人格高潔佛典周易にも深き研究あり其の辯論の雄大なるは彼の「傳染病研究所を市内に置くも妨げ無し」の五時間に渉る大雄辯に反對派及當局を辟易せしめて今日の北研を芝區内に設立せしめたるは普く世人の知る處である。 

長谷川先生二十七回忌追悼會及第二十二會同窓會大會の記
   同窓會會則制定         ‥‥  常任幹事 大野喜伊次
大會に参列して所感を述ぶ      ‥‥ 東京 吉岡彌生
敢て靜岡縣在住の濟生學舎出身者諸君に諮る
                  ‥‥ 靜岡縣三島町 大橋春太郎
廣島縣同窓會大會の記         ‥‥ 廣島市 堤長二郎
はしがき          ‥‥ 三重縣宇治山田市 畑嘉聞
民族論               
あれも一時これも一時     ‥‥ 埼玉縣鴻之巢町 河野柳三郎
醫道精神を發揚して醫業報國を志すべし  ‥‥ 靜岡縣小山町 岩田浩
   然らざれば我等の前途は只に滅亡あるのみ
埼玉縣濟生學舎同窓會湯島會に就て ‥‥ 浦和市 戸所龜作  
大阪濟生學舎同窓會淳交會員琴平詣りの記  ‥‥ 大阪 赤塚虎之助
編輯後記          
文藻欄            ‥‥  各地會員
長谷川先生遺稿集頒布の計畵  〔上の写真の一番右〕
同窓會報

 濟生學舎同窓會誌
 昭和十三年十二月廿七日印刷
 昭和十三年十二月卅一日發行
        【非賣品】
  東京市京橋區銀座西三ノ一
 發行兼編輯人 大野喜伊次
 
 發行所 濟生學舎同窓會
  東京市京橋區銀座西三ノ一



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