6月19日午後4時日本テレビは「6月21日深夜の放送をもって全日本プロレス中継の放送を終了する事が正式決定」とマスコミ各社へファックスでプレスリリースを送付。
6月21日東京・ディファ有明で三沢光晴が記者会見を行い、全日本プロレスの7月13日松山、15日七尾、17日富山、20日博多の4大会に参戦する意思があることを発表。(会見当日、全日本プロレスより三沢の自宅へ4大会への参戦要請書届いたことを受けて)※共にヒザの手術を受ける小橋健太と本田多聞は出場しない。
また新団体の仮事務所をディファ有明内に設ける事も発表。
同日、全日本プロレスの社員・スタッフ18人が全日本プロレスに辞表を提出。この時点で全日本プロレスは、選手・社員・スタッフを合わせ11人となった。
6月21日深夜、1972年10月よりスタートし27年9か月続いた「全日本プロレス中継」の放送が終了。
6月22日小橋健太が両ヒザを手術。
6月25日衆議院選挙に石川1区から出馬していた馳浩が10万7179票を獲得し当選。改めてプロレスラー続行も宣言し、今後は全日本と三沢派の両方と話し合って去就を決める予定。
同日、アメリカでの電流爆破マッチが中止になった事について記者会見を行った大仁田厚が、会見の中で全日本プロレスに参戦の意思があることを表明。
6月27日全日本プロレスは、「全日本プロレス中継」の後番組「コロッセオ」の取材申請をしていた日本テレビに対し、取材拒否を通達。
同日、三沢光晴は全日本プロレスを退社したスタッフ18人と面談し、新団体へ全員の採用を決定。
6月29日都内で渕正信と新日本プロレスの永島勝司取締役企画部長が会談。交流についての話し合いは進展なし。
6月30日2000サマーアクションシリーズに参加予定だったジョニー・エースが来日せず参加がキャンセルとなった。全日本プロレスでは家庭の事情という理由を発表したが、実際は体調不良の為に引退し、21日にWCWと契約しフロント入りしたため来日キャンセルになった模様。
シリーズにはエースに代わって急遽ジョージ・ハインズが参加。
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6月21日東京・ディファ有明で三沢光晴が記者会見を行い、全日本プロレスの7月13日松山、15日七尾、17日富山、20日博多の4大会に参戦する意思があることを発表。(会見当日、全日本プロレスより三沢の自宅へ4大会への参戦要請書届いたことを受けて)※共にヒザの手術を受ける小橋健太と本田多聞は出場しない。
また新団体の仮事務所をディファ有明内に設ける事も発表。
同日、全日本プロレスの社員・スタッフ18人が全日本プロレスに辞表を提出。この時点で全日本プロレスは、選手・社員・スタッフを合わせ11人となった。
6月21日深夜、1972年10月よりスタートし27年9か月続いた「全日本プロレス中継」の放送が終了。
6月22日小橋健太が両ヒザを手術。
6月25日衆議院選挙に石川1区から出馬していた馳浩が10万7179票を獲得し当選。改めてプロレスラー続行も宣言し、今後は全日本と三沢派の両方と話し合って去就を決める予定。
同日、アメリカでの電流爆破マッチが中止になった事について記者会見を行った大仁田厚が、会見の中で全日本プロレスに参戦の意思があることを表明。
6月27日全日本プロレスは、「全日本プロレス中継」の後番組「コロッセオ」の取材申請をしていた日本テレビに対し、取材拒否を通達。
同日、三沢光晴は全日本プロレスを退社したスタッフ18人と面談し、新団体へ全員の採用を決定。
6月29日都内で渕正信と新日本プロレスの永島勝司取締役企画部長が会談。交流についての話し合いは進展なし。
6月30日2000サマーアクションシリーズに参加予定だったジョニー・エースが来日せず参加がキャンセルとなった。全日本プロレスでは家庭の事情という理由を発表したが、実際は体調不良の為に引退し、21日にWCWと契約しフロント入りしたため来日キャンセルになった模様。
シリーズにはエースに代わって急遽ジョージ・ハインズが参加。
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