昭和44年(1969年)5月12日
日本プロレスとNETテレビが東京・赤坂プリンス・ホテルで合同記者会見(NET側は山内直元社長、辻井博編成局長他2名、日プロ側は芳の里淳三社長、遠藤幸吉取締役、ユセフトルコ取締役、アントニオ猪木、大木金太郎、星野勘太郎、山本小鉄が出席)を行い、7月2日から毎週水曜日の午後9時からの1時間枠で「ワールド・プロレスリング」という番組名で日本プロレスの試合を放送する事を発表。
ただし、力道山時代から放送を続けている日本テレビに配慮し、ジャイアント馬場と坂口征二の試合とインター王座・ワールド大リーグ戦の公式戦については放送しない事が発表された。
昭和45年(1970年)4月
視聴率の伸び悩みもありNETテレビからの要請で「ワールド・プロレスリング」で坂口征二の試合とワールド大リーグ戦の公式戦を放送。
この件について日本テレビは、馬場の試合だけは絶対放送しないという事で譲歩し承諾。
昭和46年(1971年)12月
アントニオ猪木と側近による日本プロレス乗っ取りが発覚し、日本プロレス選手会が猪木の除名と追放を決議(6日)し、日本プロレスの長谷川代表に決議書を提出。これを受けて日本プロレスは13日午後3時から緊急記者会見を行い、アントニオ猪木の除名と追放を発表。
昭和47年(1972年)3月
NETテレビの「ワールド・プロレスリング」は、エースであったアントニオ猪木がいなくなってしまった為、1月から坂口征二と大木金太郎を中心とした放送を続けてきたが、視聴率が低迷。この為にNETテレビは、日本プロレスに対してジャイアント馬場のNETテレビ登場を要請。
日本テレビ側から「NETテレビに出たらプロレス中継から手を引く」という話を聞いていた馬場は、日本プロレスの幹部を説得したものの聞き入れられず、日本プロレスは2局放送決定時の日本テレビとの約束を破り馬場のNETテレビ登場を決定。
4月3日
NETテレビの「ワールド・プロレスリング」に、ジャイアント馬場(※)が登場。
※第14回ワールド大リーグ戦第3戦・新潟市体育館
馬場&坂口(2-1)ディック・マードック&マイティ・ブルータス
これに怒った日本テレビは日本プロレスに対し、ジャイアント馬場のNETテレビへの出場停止の仮処分を東京地方裁判所に申請。これが地裁により却下されると、契約違反として告訴するものの「当事者同士で話し合いをしなさい」と差し戻された為、日本テレビは日本プロレスに対し「馬場をNETに出し続けるなら、プロレス中継を打ち切る」と最後通告。
5月15日
日本テレビ本社で松根光雄日本テレビ運動部長が記者会見を行い、5月12日第14回ワールド大リーグ戦決勝戦(ジャイアント馬場対ゴリラ・モンスーン戦)の生中継をもって、18年にわたる日本プロレス中継の放送打ち切りを発表。
7月24日
日本プロレス「第1次サマー・ビッグ・シリーズ」が開幕。
7月29日
午後2時ジャイアント馬場は、日本プロレス興業及び日本プロレス選手会へ役員、所属選手としての辞表を提出。
午後6時から東京・赤坂プリンスホテル「有明の間」で記者会見を行い、「今年の4月以来、会社の方針としてやむを得ず、NETテレビに出演する事になりましたが、これは自分自身にとって極めて不本意な事でした。自分は日本テレビに恩義を感じていますし、力道山先生と正力松太郎氏との縁もあります。そうした関係でどうしても日本テレビとの絆を断ち難く、日本プロレスから独立する事にしました。」と声明文を読み上げ、日本プロレスからの独立を宣言。
また今後について記者の質問に答え「新しい組織を作り、日本テレビさんの協力をいただいて、再び日本テレビのブラウン管にのりたいと考えています。」と発言。
7月31日
日本テレビで行われた放送記者会で松根光雄運動部長が「10月からプロレス中継を予定している。主役は馬場で、土曜日の8時から9時のゴールデンタイムという方向で進んでいる」と表明。
8月14日
午後、日本プロレス事務所内で長谷川代表と馬場の会談が行われたが、日本プロレス側から馬場を引き留めるための具体的な提案がなく、10分程度の話し合いで馬場は会社を後にした。
8月18日
「第1次サマー・ビッグ・シリーズ」が宮城・石巻市中央広場で終了。
8月24日
22日に平井義一日本プロレス協会会長から提示された調停案に対し、24日午後ジャイアント馬場は平井会長宅を訪れ拒否する事を伝えた。
同夜、ジャイアント馬場は新団体設立に向けての準備のため渡米。
8月31日に帰国した馬場は、9月1日日本プロレスコミッショナーにインターナショナルのベルトを返上を伝え、翌2日東京・渋谷の日本プロレスで行われた記者会見で、馬場は正式にインター王座を返上。
これで馬場は日本プロレスから離れ、本格的に新団体設立へ動き出した。
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日本プロレスとNETテレビが東京・赤坂プリンス・ホテルで合同記者会見(NET側は山内直元社長、辻井博編成局長他2名、日プロ側は芳の里淳三社長、遠藤幸吉取締役、ユセフトルコ取締役、アントニオ猪木、大木金太郎、星野勘太郎、山本小鉄が出席)を行い、7月2日から毎週水曜日の午後9時からの1時間枠で「ワールド・プロレスリング」という番組名で日本プロレスの試合を放送する事を発表。
ただし、力道山時代から放送を続けている日本テレビに配慮し、ジャイアント馬場と坂口征二の試合とインター王座・ワールド大リーグ戦の公式戦については放送しない事が発表された。
昭和45年(1970年)4月
視聴率の伸び悩みもありNETテレビからの要請で「ワールド・プロレスリング」で坂口征二の試合とワールド大リーグ戦の公式戦を放送。
この件について日本テレビは、馬場の試合だけは絶対放送しないという事で譲歩し承諾。
昭和46年(1971年)12月
アントニオ猪木と側近による日本プロレス乗っ取りが発覚し、日本プロレス選手会が猪木の除名と追放を決議(6日)し、日本プロレスの長谷川代表に決議書を提出。これを受けて日本プロレスは13日午後3時から緊急記者会見を行い、アントニオ猪木の除名と追放を発表。
昭和47年(1972年)3月
NETテレビの「ワールド・プロレスリング」は、エースであったアントニオ猪木がいなくなってしまった為、1月から坂口征二と大木金太郎を中心とした放送を続けてきたが、視聴率が低迷。この為にNETテレビは、日本プロレスに対してジャイアント馬場のNETテレビ登場を要請。
日本テレビ側から「NETテレビに出たらプロレス中継から手を引く」という話を聞いていた馬場は、日本プロレスの幹部を説得したものの聞き入れられず、日本プロレスは2局放送決定時の日本テレビとの約束を破り馬場のNETテレビ登場を決定。
4月3日
NETテレビの「ワールド・プロレスリング」に、ジャイアント馬場(※)が登場。
※第14回ワールド大リーグ戦第3戦・新潟市体育館
馬場&坂口(2-1)ディック・マードック&マイティ・ブルータス
これに怒った日本テレビは日本プロレスに対し、ジャイアント馬場のNETテレビへの出場停止の仮処分を東京地方裁判所に申請。これが地裁により却下されると、契約違反として告訴するものの「当事者同士で話し合いをしなさい」と差し戻された為、日本テレビは日本プロレスに対し「馬場をNETに出し続けるなら、プロレス中継を打ち切る」と最後通告。
5月15日
日本テレビ本社で松根光雄日本テレビ運動部長が記者会見を行い、5月12日第14回ワールド大リーグ戦決勝戦(ジャイアント馬場対ゴリラ・モンスーン戦)の生中継をもって、18年にわたる日本プロレス中継の放送打ち切りを発表。
7月24日
日本プロレス「第1次サマー・ビッグ・シリーズ」が開幕。
7月29日
午後2時ジャイアント馬場は、日本プロレス興業及び日本プロレス選手会へ役員、所属選手としての辞表を提出。
午後6時から東京・赤坂プリンスホテル「有明の間」で記者会見を行い、「今年の4月以来、会社の方針としてやむを得ず、NETテレビに出演する事になりましたが、これは自分自身にとって極めて不本意な事でした。自分は日本テレビに恩義を感じていますし、力道山先生と正力松太郎氏との縁もあります。そうした関係でどうしても日本テレビとの絆を断ち難く、日本プロレスから独立する事にしました。」と声明文を読み上げ、日本プロレスからの独立を宣言。
また今後について記者の質問に答え「新しい組織を作り、日本テレビさんの協力をいただいて、再び日本テレビのブラウン管にのりたいと考えています。」と発言。
7月31日
日本テレビで行われた放送記者会で松根光雄運動部長が「10月からプロレス中継を予定している。主役は馬場で、土曜日の8時から9時のゴールデンタイムという方向で進んでいる」と表明。
8月14日
午後、日本プロレス事務所内で長谷川代表と馬場の会談が行われたが、日本プロレス側から馬場を引き留めるための具体的な提案がなく、10分程度の話し合いで馬場は会社を後にした。
8月18日
「第1次サマー・ビッグ・シリーズ」が宮城・石巻市中央広場で終了。
8月24日
22日に平井義一日本プロレス協会会長から提示された調停案に対し、24日午後ジャイアント馬場は平井会長宅を訪れ拒否する事を伝えた。
同夜、ジャイアント馬場は新団体設立に向けての準備のため渡米。
8月31日に帰国した馬場は、9月1日日本プロレスコミッショナーにインターナショナルのベルトを返上を伝え、翌2日東京・渋谷の日本プロレスで行われた記者会見で、馬場は正式にインター王座を返上。
これで馬場は日本プロレスから離れ、本格的に新団体設立へ動き出した。
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