故、大毘古命(おおびこのみこと)は先の命(みこと)の随(まにま)に、高志国(こしのくに)にまかり行きき。ここに東(ひむがし)の方(かた)より遣はさえし建沼河別(たけぬなかはわけ)、其の父大毘古と共に、【相津(あひづ)】に往(ゆ)き遇(あ)ひき。故、其の地(ところ)を相津といふ
ここをもちて各(おのもおのも)遣はさえし国の政(まつりごと)を和(やは)し平(たひら)げて、転覆(かへりごとまを)しき
ここに天下(あめのした)太(いた)く平ぎ、人民(おほみたから)富み栄えき
ここに初めて男を【弓端(ゆはず)の調(みつき)】、女(をみな)を【手末(たなすえ)の調】を貢(たてまつ)らしめたまひき
故其の御世を称へて、
【初国(はつくに)】知らしし御真木天皇(みまきのすめらみこと)とまをすなり
又この御世に、【依網池(よさみのいけ)】を作り、亦、【軽(かる)の酒折池(さかをりのいけ)】をも作りき
天皇の御歳(みとし)、【壱佰陸拾捌歳(ももちまりむそぢゃとせ)】
【戊寅(つちのえとら)の年】の十二月(しはす)に崩(かむあが)りましき。御陵(みはか)は【山辺道(やまのべのみち)】の勾之崗(まがりのをか)の上(へ)に在り
★相津(あひづ)
福島県会津
会津が北陸道・東海道の両方から流伝された京畿文化の合流地であることは、会津高田町の伊佐須美神社の行事にうかがわれる
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この神社は伊勢神宮、熱田神宮の朝夕の田植に対して、昼田植の行事が伝えられ、両神宮と合わせて三古社と称されている
★弓端(ゆはず)の調(みつき)
※ゆはず→弓の両端の弦をかけるところ
※長十新田の肉・皮などを貢納物とした、ことをいう
※古代の税
★手末(たなすえ)の調(みつき)
※たなすえ→手の先、指先
※糸や織物を貢納物とした、ことをいう
※古代の税
★初国(はつくに)
最初にこの国を統治した
★依網池(よさみのいけ)
大阪府堺市池内。大和川に近い
灌漑用水の溜池
★軽(かる)の酒折池(さかをりのいけ)
灌漑用水の溜池
所在未詳
★壱佰陸拾捌歳(ももちまりむそぢゃとせ)
168歳
★戊寅の年
古事記における崩御の干支の注記は、ここが最初で、以下しばしば見える
★山辺道(やまのべのみち)
奈良県天理市柳本町
三輪山の麓の桜井市金屋から奈良市歌姫町に至る約25キロ。日本最古の道。古代文化の伝播に大きな役割を果たした。沿道には大和朝廷の宮址多く、万葉集にも数多く詠まれている
■大毘古命(おおびこのみこと)は前に下された勅命に従い、越国の平定に出た。東方の東海道に遣わされた建沼河別(たけぬなかわわけ)は、その父の大毘古と相津で行き会った。ゆえに、その地を相津というのである
それぞれが遣わされた国の政(まつりごと)を平定するという政務を果たして、崇神天皇に復命した
こうして天下は太平になり、人民は富み栄えるに至った。そこで初めて天皇は、男が弓で得た鳥獣の肉や皮の生産物を、女が手先で作った絹や布の生産物を、税として貢納させた
だから、その御世をほめ称えて
「初国(はつくに)知らしし御真木天皇(みまきのすめらみこと)」
と申すのである
またこの御世に、農業用水として依網池(よさみのいけ)を造り、軽(かる)の酒折池(さかおりいけ)をも作った
天皇の享年は169歳
戊寅(つちのえとら)の年の12月にお亡くなりになった。御陵(みはか)は山辺道(やまのべのみち)の勾之崗(まがりのおか)のほとりにある