るるの日記

なんでも書きます

第十代 崇神天皇 わが国最初の偉大な統治者

2021-02-05 16:48:06 | 日記
故、大毘古命(おおびこのみこと)は先の命(みこと)の随(まにま)に、高志国(こしのくに)にまかり行きき。ここに東(ひむがし)の方(かた)より遣はさえし建沼河別(たけぬなかはわけ)、其の父大毘古と共に、【相津(あひづ)】に往(ゆ)き遇(あ)ひき。故、其の地(ところ)を相津といふ

ここをもちて各(おのもおのも)遣はさえし国の政(まつりごと)を和(やは)し平(たひら)げて、転覆(かへりごとまを)しき
ここに天下(あめのした)太(いた)く平ぎ、人民(おほみたから)富み栄えき

ここに初めて男を【弓端(ゆはず)の調(みつき)】、女(をみな)を【手末(たなすえ)の調】を貢(たてまつ)らしめたまひき
故其の御世を称へて、
【初国(はつくに)】知らしし御真木天皇(みまきのすめらみこと)とまをすなり

又この御世に、【依網池(よさみのいけ)】を作り、亦、【軽(かる)の酒折池(さかをりのいけ)】をも作りき

天皇の御歳(みとし)、【壱佰陸拾捌歳(ももちまりむそぢゃとせ)】
【戊寅(つちのえとら)の年】の十二月(しはす)に崩(かむあが)りましき。御陵(みはか)は【山辺道(やまのべのみち)】の勾之崗(まがりのをか)の上(へ)に在り


★相津(あひづ)
福島県会津
会津が北陸道・東海道の両方から流伝された京畿文化の合流地であることは、会津高田町の伊佐須美神社の行事にうかがわれる
この神社は伊勢神宮、熱田神宮の朝夕の田植に対して、昼田植の行事が伝えられ、両神宮と合わせて三古社と称されている

★弓端(ゆはず)の調(みつき
※ゆはず→弓の両端の弦をかけるところ
※長十新田の肉・皮などを貢納物とした、ことをいう
※古代の税

★手末(たなすえ)の調(みつき)
※たなすえ→手の先、指先
※糸や織物を貢納物とした、ことをいう
※古代の税

★初国(はつくに)
最初にこの国を統治した

★依網池(よさみのいけ)
大阪府堺市池内。大和川に近い
灌漑用水の溜池

★軽(かる)の酒折池(さかをりのいけ)
灌漑用水の溜池
所在未詳

★壱佰陸拾捌歳(ももちまりむそぢゃとせ)
168歳

★戊寅の年
古事記における崩御の干支の注記は、ここが最初で、以下しばしば見える

★山辺道(やまのべのみち)
奈良県天理市柳本町
三輪山の麓の桜井市金屋から奈良市歌姫町に至る約25キロ。日本最古の道。古代文化の伝播に大きな役割を果たした。沿道には大和朝廷の宮址多く、万葉集にも数多く詠まれている

■大毘古命(おおびこのみこと)は前に下された勅命に従い、越国の平定に出た。東方の東海道に遣わされた建沼河別(たけぬなかわわけ)は、その父の大毘古と相津で行き会った。ゆえに、その地を相津というのである

それぞれが遣わされた国の政(まつりごと)を平定するという政務を果たして、崇神天皇に復命した

こうして天下は太平になり、人民は富み栄えるに至った。そこで初めて天皇は、男が弓で得た鳥獣の肉や皮の生産物を、女が手先で作った絹や布の生産物を、税として貢納させた

だから、その御世をほめ称えて
「初国(はつくに)知らしし御真木天皇(みまきのすめらみこと)」
と申すのである

またこの御世に、農業用水として依網池(よさみのいけ)を造り、軽(かる)の酒折池(さかおりいけ)をも作った

天皇の享年は169歳
戊寅(つちのえとら)の年の12月にお亡くなりになった。御陵(みはか)は山辺道(やまのべのみち)の勾之崗(まがりのおか)のほとりにある



第十代 崇神天皇 建波邇安王(たけはにやすのみこ)の反逆 3

2021-02-05 15:20:40 | 日記
ここに山代の【和訶羅河(わからがわ)】に到りし時、其の建波邇安王(たけはにやすのみこ)、軍を興して待ち遮り、各(おのもおのも)中に河を挟みて、対(むか)ひ立ちて相挑(あひいど)みき。故、其の地(ところ)を号(なづ)けて【伊杼美(いどみ)といふ。今は伊豆美(いずみ)といふ】

ここに日子国夫玖命(ひこくにぶくのみこと)、乞ひていはく「【其廂(そなた)】の人、まず【忌矢(いはいや)】弾(はな)つべし」といひき

ここに其の建波邇安王射つれども得中(えあ)てざりき。ここに国夫玖命の弾てる矢は、即ち建波邇安王を射て死にき。故、其の軍ことごとに破れて逃げ散(あら)けぬ

ここに其の逃ぐる軍を追ひせめて【久須婆之度(くすばのわたり)】に到りし時、皆せめたしなめらえて、屎出(くそい)でて褌(はかま)にかかりき。故、其の地を号(なづ)けて屎褌(くそばかま)といふ。今は久須婆(くすば)といふ

又其の逃ぐる軍遮りて斬れば、鵜の如く河に浮きき。故、其の河を号けて【鵜河】といふ。亦其の軍士(いくさびと)を斬り【はふりき】。故、其の地を号けて【波布理曾能(はふりその)】といふ。かく平げおはりて参上(まるのぼ)りて覆奏(かへりごとまを)しき

★和訶羅河
木津川

★伊杼美(いどみ)といふ。今は伊豆美(いづみ)
※山城国相楽郡水泉
※木津町付近

★其廂(そなた)
廂→母屋の左右にある小部屋の意味から、双方にあるものについて添えた字

★忌矢(いはいや)
斎み清めた矢で、戦い初めの矢合わせの矢

★久須婆之度(くすばのわたり)
大阪府枚方市楠葉にあった、淀川の渡し場

★鵜河
淀川

★はふりき
ばらばらにする。散らす

★波布理曾能(はふりその)
相楽郡精華町祝園

■皇軍が山城の和訶羅河(わからがわ)に着いた時、建波邇安王(たけはにやすのみこと)は軍勢を集めて皇軍を迎え阻み、互いに中に川を挟んで向かい合って陣を構え、戦いをしかけあった
ゆえに、その地を名づけて伊杼美(いどみ)という。今は伊豆美(いずみ)という

日子国夫玖命(ひこくにぶくのみこと)は所望して「そちらの人から先に忌矢(いわいや)を放て」といった。それに応じ建波邇安王(たけはにやすのみこ)が射たけれども当てることはできなかった

国夫玖命が放った矢は、建波邇安王を射て、王は死んでしまった。それで建波邇安王の軍勢は総崩れとなり敗走した

皇軍が逃げる軍勢を追いつめて、久須婆渡(くすばのわたり)に着いた時、王の軍勢は皆攻め苦しめられて、大便が出て褌(はかま)にかかった
ゆえに、その地を名づけて屎褌(くそはかま)というのである。今は久須婆(くすば)という

また、逃げる軍勢を斬ったとき、水に浮かぶ鵜のように死体が川に浮いた。ゆえに、その川を名づけて鵜河というのである

また、その兵士をばらばらに斬り散らしたので、ゆえに、その地を名づけて波布理曾能(はふりその)というのである

このように建波邇安王を平定し終えて、大毘古命は都に上って天皇に戦果を復命した






第十代 崇神天皇 建波爾安王(たけはにやすのみこ)の反逆 2

2021-02-05 13:56:07 | 日記
ここに少女答へていはく、「吾(あ)は言(ものい)はず。唯歌を詠みつるのみ」といひき。即ち【其のゆくへも見えずたちまちに失せにき】

故、大毘古命(おおびこのみこと)更に還(かえ)り参上(まいのぼ)りて、天皇(すめらみこと)に請ふ時、天皇答へてのりたまはく
「こは、山代国(やましろのくに)に【任(ま)けたる】、我が【庶兄・(まさせ)】建波邇安王(たけはにやすのみこ)、【邪(きたな)き心】を起せし表(しるし)なるのみ。【伯父】、軍(いくさ)を興して行くべし」
とのりたまひて、即ち丸邇臣(わにのおみ)の祖、日子国夫玖命(ひこくにぶくのみこと)をそへて遣はす時、即ち【丸邇坂(わにさか)】に【忌瓮(いはひへ)】をすえて罷(まか)り往(い)きき

★其のゆくへも見えずたちまちに失せにき
※この少女が神の託宣をいう霊能をもつ存在であったことがわかる

★任(ま)けたる
任命して派遣する

★庶兄(まさせ)建波邇安王(たけはにやすのみこ)
※建波邇安王は崇神天皇の父・開化天皇と異母兄弟であるから、崇神天皇には伯父にあたり、庶兄とあるのは奇妙であるが
開化・崇神の父子関係は怪しく、孝元・崇神こそ父子関係の可能性が大きく「我が庶兄」を文字どおり解することも可能である

★邪き心
天皇に対する反逆心

★伯父
大毘古命をさす

★丸邇坂(わにさか)
奈良県天理市和爾町の坂

★忌瓮(いはひへ)
祭祀に用いる甕(かめ)

■乙女は答えて
「私は何も言いはしません。ただ歌を歌っただけです」と言った。それを言い終わると乙女は行方も見せずにたちまち姿を隠してしまった

そこで大毘古命は、都へ引き返し天皇にこのことを報告し、その処置を請うと天皇は答えて
「これは思うに、山城国に遣わせた私の異母兄の建波邇安王(たけはにやすのみこ)が反逆心を起こしたしるしに相違ない。わが伯父君よ、軍勢を集めて討伐に行って下さい」と言われた

大毘古命は丸邇臣(わにおみ)の祖先の日子国夫玖命(ひこくにぶくのみこと)を従わせて遣われ、丸邇坂(わにさか)に斎み清めた酒甕(さかがめ)を据えて神に供え、征伐へ発った








第十代 崇神天皇 建波爾安王(たけはにやすのみこ)の反逆 1

2021-02-05 10:12:26 | 日記
この御世に、大毘古命(おほびこのみこと)をば【高志道(こしのみち)】に遣はし、その子・建沼河別命(たけぬなかはわけのみこと)をば【東(ひむかし)の方、十二道(とをまりふたみち)】に遣はして、その【まつろはぬ】人どもを、和(やは)し平(たひら)げしめたまひき

又、日子坐王(ひこいますのみこ)をば旦波国(たにはのくに)に遣はして、玖賀耳之御笠(くがみみのみかさ)を殺さしめたまひき

故、大毘古命、高志国にまかり往きし時、腰裳服(こしもけ)せる少女(をとめ)、山代の弊羅坂(へらさか)に立ちて歌がひていはく

「【こはや】【御真木入日子】はや 、御真木入日子はや
己(おの)が【緒】を、盗み殺(し)せむと、【後(しり)つ戸よ、い行き違(たが)ひ、前つ戸よ、い行き違ひ、窺はく】、知らにと、御真木入日子はや」
とうたひき

ここに大毘古命、怪しきと思ひて馬を返して其の少女に問ひていはく
「汝がいへる言は何の言ぞ」といひき

★高志道(こしのみち)
北陸道

★東の方(ひむかしかた)十二道(とをまりふたみち)
※東の方
東海道

※十二道
十二国
伊勢・尾張・三河・遠江・駿河・甲斐・伊豆・相模・武蔵・総・常陸・陸奥

※まつろはぬ
服従しない

★こはや
こ→御真木入日子のこ
はや→感動の助詞

★御真木入日子
崇神天皇の名

★緒
生命

★後(しり)つ戸よ~窺はく
崇神天皇の命をねらう者が、皇居の人に見つからないように、表門裏門を行ったり来たりして、ひそかに中をのぞき、殺すべき時期をねらっている

■崇神天皇の御世に、大毘古命(おおびこのみこと)を越国(こしのくに)に遣わし、その子・建沼河別命(たけぬまかわわけのみこと)を東海道の十二国に遣わして、そこの服従しない者どもを平定させた

また、日子坐王(ひこいますのみこ)を丹波国を遣わして、玖賀耳之御笠を殺させた

さて大毘古命が越国へ行く時、腰裳(こしも)をつけた乙女が、山城の弊羅坂に立って

「こはや子よ、御真木入日子よ御真木入日子よ、自分の命をひそかにねらって殺そうとする者が、裏門から窺って、誰かが来ると脇にそれて表門にまわり、また表門から窺って、誰かが来ると脇にそれて裏門にまわったりして、つけ狙われてるのも知らないで、御真木入日子よ」
と歌った

これを聞いて大毘古命は不審に思って馬を引き返して、その乙女に「今、おまえが言ったことはどうゆう意味なのか」と尋ねた