るるの日記

なんでも書きます

古事記・軽王と妹軽大郎女、夫婦交歓の思いを遂げて心中

2021-02-13 20:07:59 | 日記
軽皇太子、捕へらえて歌ひたまはく

【天飛(あまだ)む】
軽の嬢子(おとめ)
【甚】泣(いたな)かば
人知りぬべし
波佐(はさ)の山の
鳩の下泣きに泣く

天飛(あまだ)む
軽嬢子(かるをとめ)
【したたにも】
寄り寝てとほれ
軽嬢子ども」

其の軽太子をば【伊余湯】に流しまつりき。また流さえたまはむとせし時、歌ひたまはく

天飛(あまと)ぶ
【鳥も使(つかひ)そ】
鶴(たづ)が音(ね)の
聞えむ時は
我が名問はさね

【王(おほきみ)を】
島に【放(はぶ)らば】
【船余り】
い帰り来(こ)むぞ
【我が畳ゆめ】
【言(こと)をこそ】
畳と言はめ
我が妻はゆめ

衣通王(そとほしのみこ)=軽大郎女歌を献りき

夏草の
【あひねの浜の】
蠣貝(かきかひ)に
足ふますな
【明かして】通れ

後に恋慕(おも)ひ甚(か)ねて追ひ往く時歌いたまはく

君が往き
【け】長くなりぬ
山たづの
迎へを行かむ
【待つにはまたじ】

ここに山たづと云うは、これ今の【造木(みやっこぎ)】なり
追ひ到りし時、待ちおもひて
歌ひたまはく

【隠(こも)り処(く)】の
【泊瀬(はつせ)の山】の
大峰(おほを)には
【幡張り立(だ)て】
さ小峰(をを)には
幡張り立て
【大峰よし】
【仲定める】
【思ひ妻あはれ】
【槻弓(つくゆみ)の】
【臥(こ)やる】臥やりも
【梓弓(あづさゆみ)】
起(た)てり起てりも
後も【取り見る】
思ひ妻あはれ

隠(こも)り処(く)の
【泊瀬の河】の
上(かみ)つ瀬に
【斎杙(いくひ)】を打ち
下つ瀬に
【真杙(まくひ)】を打ち
斎杙には【鏡を懸け】
真杙には【真玉を懸け】
【真玉如(な)す】
吾(あ)が思ふ妹(いも)
鏡如す
吾が思ふ妻
【ありといはばこそよ】
家にも行(ゆ)かめ
国をも偲はめ

かく歌ひて即ち共に自ら死にたまひき

★甚(いた)
はなはだしく

★天翔(あまだ)む
空をとぶ雁(かり)→軽(かる)に通わせた

★したたにも
忍び忍びに、こっそりと

★伊余湯
愛媛県松山市の道後温泉
配流後には都からの距離により遠・中・近流の別があるが、伊余は中流に属する

★鳥も使(つかひ)そ
鳥は霊魂を運び、これからの言葉を運ぶ使者

★王(おほきみ)
軽王

★放(はぶ)らば
放ちすてる
追放する

★我が畳ゆめ
人が旅に出ると、家人はその畳をその人の使用したままにして、潔斎して待つ
守らないと旅人に異変がある

★船余り
人が多すぎて船に乗り遅れる

★言をこそ
言葉では畳というが、実は、、と下に本旨を述べる用法

★あひねの浜の
あひねに、相寝(あいね)をかけている

★明かして
ここで夜を明かして
ここに泊まって

★け
日数

★待つには待たじ
人の帰りを待ちかねる切実な気持ち

★造木(みやっこぎ)
忍冬(すいかずら)科の落葉低木の接骨木(にわとこ)という木

★隠(こも)り処(く)
四方を山で囲まれた土地

★泊瀬の山
奈良県桜井市初瀬の北の山地

★幡張り立て
葬送の幡をなびかせて立てる
古代の幡は細長い布を竿にかけて垂らした

★大峰(おほを)よし
※よし→「あおによし」と同じく感動の助詞
※上の句までは景色を提示した序詩で、その中の「大峰」を繰り返して「仲」の枕詞にしたもの

★仲定める
二人の仲は定まっている

★思ひ妻あはれ
※思ひ妻→私が愛しく思う妻よ
※あはれ→感動詞

★槻弓(つくゆみ)
※槻の木で作った弓
※横にして射ることから、臥やるの枕詞

★臥(こ)やる
横になる

★梓弓
※梓の木で作った弓
※神宝として供えられ神聖視された
※大山守命
※起こつの枕詞

★取り見る
※取り→世話をする、弓にちなんで言った語

★泊瀬の河
今の初瀬川
初瀬山に源を発し、三輪山の麓を西北に流れ佐保川に合流する

★斎杙(いくひ)
斎み清めた杭(くい)

★真杙(まくひ)
斎み清めた杭

★鏡を懸け・真玉を懸け
※鏡と玉は共に神の依代(よりしろ)
※鏡と玉に神を招き降ろして祭をする
※禊(みそぎ)のための行事

★真玉なす
玉を大切にするように
なす→、、のように

★吾が思ふ妻ありといはばこそよ
※妻がいるというのなら
※こそ→事実に反したことを仮定して、下句に逆説的にかかって、それを否定する係助詞
※行かめ、偲ばめにかかる


■皇太子・軽王子は捕らえられ
歌いました

【天翔む、軽の乙女よ、おまえがひどく泣くならば、人が私たちのことを知ってしまうだろう。私はそれを気づかって、波佐の山の鳩のように、忍び泣きに泣く】

【天翔む、軽の乙女よ、こっそり寄って、私と寝ていきなさい。軽の乙女たちよ】

その後、軽王を伊予湯に配流した。配流される時、軽王は歌いました

【空を飛ぶ鳥も使者なのだよ。鶴の声が聞こえる時には、私の名を言って、私のことを尋ねておくれ】

【大君である私を四国の島に追放しても、必ず帰ってくる。その間は私の畳をそのままにして斎み慎んでいてください。言葉では畳というが、実はわが妻、あなた自身が潔斎して待っていてください】

そして、妹、軽大郎女は歌を軽王に献上した

【あいねの浜の牡蠣の貝殻に、足を踏みこんで怪我をしないでください。ここで夜を明かしてから通ってください】

軽王が配流されてから、妹・軽大郎女は、なおも恋慕う思いに堪えかねて、その後を追っていった時に歌いました

【君が往き、あなたの旅はずいぶん日がたちました。私はお迎えに参ります。こうして待つのは堪えられません】

こうして妹・軽大郎女が兄・軽王のもとに追いついた時、軽王は待ち迎え、歌いました

【隠り処の泊瀬の山の大きな峰には幡を張り立てている、小さな峰にも幡を張り立てている、大峰よし、二人の仲は定まっている
私のいとしい妻よああ
〈槻弓の〉臥している時も
〈梓弓〉立っている時も
後々までも
かいがいしく、私が世話をするよ。いとしい妻よ、ああ】

【隠り処の、泊瀬の川の上流の瀬に、斎み清めた杭を打ち、斎み清めた杭には鏡をかけ、立派な杭にはみごとな玉をかけ、そのみごとな玉のように私が大切に思う妻、その鏡のように私が大切に思う妻
その妻が家にいるというのならば、家にも訪ねて行こうし、また故郷も懐かしく思おう。しかし妻は家にも故郷にもいないのだから、その家も故郷も偲ぶかいはない】

と歌いました
このように歌って、そして二人一緒に、みずからの命を断たれたのです





古事記・軽皇太子と穴穂御子

2021-02-13 16:33:17 | 日記
ここをもちて百官及天下(もものつかさ、また、あめのした)の人ども、軽太子に【背きて】、穴穂御子(あなほのみこ)によりぬ

ここに軽太子、畏(かしこ)みて、大前小前宿禰大臣(おほまへをまへのすくねのおほおみ)の家に逃げ入りて、兵器(つはもの)を備へ作りたまひき

穴穂王子もまた兵器を作りたまひき。ここに穴穂御子、軍(いくさ)を興して大前小前宿禰の家を囲(かく)みたまひき

ここに其の門に到りましし時、【大氷雨(おほひさめ)】ふりき
故、歌ひたまはく

「大前小前宿禰が
金門蔭(かなとかげ)
かく寄り来の
【雨立ち止めむ】

と歌ひたまひき
ここに其の大前小前宿禰、【手を挙げて膝を打ち】舞ひ【かなで】歌ひ参来(まいく)、其の歌にいはく

「宮人の
【脚結(あゆひ)の小鈴】
【落ちにきと】
宮人【とよむ】
【里人】も【ゆめ】

と歌ひき
この歌は宮人振なり

かく歌ひ参帰(まいき)てまをさく
「【我が天皇(おほきみ)の御子】、いろ兄(せ)の王(みこ)に兵(いくさ)をなやりたまひそ。もし兵をやりたまはば、必ず人わらはむ。僕(あれ)捕らへて貢進(たてまつ)らむ」とまをしき

ここに兵(いくさ)を解きて退(そ)き坐(ま)しき。故、大前小前宿禰、其の軽太子を捕へて、率(い)て参出(まいで)て貢進(たてまつ)りき

★背きて
異母兄妹の結婚は許されるが、同母兄妹の結婚は不倫とされていて、その不倫を皇太子がしたから、みな皇太子に背いたのである

★大氷雨(おおひさめ)
激しいひょうやあられ

★雨立ち止めむ
雨をやまそう、雨宿りしよう

★手を挙げ膝を打ち
舞の所作

★かなで
手足を動かして舞う
次の歌は舞踊を伴って歌われた

★脚結(あゆひ)の小鈴
活動しやすくするため、袴を膝の下あたりで結ぶ紐。その紐に鈴をつけて装身具とした

★落ちにきと
軽王と軽大郎女の密通事件を暗示する

★とよむ
鳴り響く、騒ぎ立っている

★里人
※里に下っている人々
※大前小前宿禰一族・一党

★夢
斎み慎め
気をつけよ

★我が天皇(おほきみ)の御子
わが天皇である御子よ
天皇はまだ即位前なのでオホキミとよむ


■この密通事件を知って、朝廷に仕える官人や国民たちは、軽王にそむいて穴穂御子の方に心を寄せてしまった

それで軽王は恐れて、大前小前宿禰大臣の家に逃げこんで、武器を作って備えた

穴穂御子も武器を作った。そして穴穂御子は軍勢を発して大前小前宿禰の家を包囲させた。その家に到着した時、氷雨がひどく降ってきた。そこで歌をうたった

「大前小前宿禰の金門の蔭に、寄って来い、ものどもよ、ここに立って雨の止むのを待つことにしよう」

すると大前小前が手を挙げ膝を打ち、舞を舞い、歌をうたいながら出てきた。その歌は

「宮人の脚結につけた小鈴が、落ちてしまったといって、宮人たちが騒ぎたてている。里人たちも軽挙妄動を慎みなさいよ」

この歌は宮人振という歌曲である

大前小前宿禰は歌いながら穴穂御子の前に参って、「わが皇子さまよ、兄君に兵士を差し向けなさいますな。もし兵士を差し向けなさるならば、きっと世間の者は、兄弟の道にもとると謗り笑うでしょう。私が捕らえてその身柄をお渡しいたします」と申し上げた

これを聞いて、穴穂御子は軍勢の包囲を解いて後方に退かれた。そこで大前小前宿禰は軽王を捕え、穴穂御子に差し出した

古事記・允恭天皇崩御後・軽皇太子と同母妹・軽大郎女の禁制の恋

2021-02-13 15:09:37 | 日記
允恭天皇、崩(かむあが)りましし後、木梨之軽太子(きなしのかるのひつぎのみこ)、日継を知らしめすに定まれるを、未(いま)だ位につきたまはざりし間(ほど)に、其の【いろ妹(も)】・軽大郎女(かるのおほいらつめ)に【奸(たは)けて】歌ひたまはく

「【あしひきの】
山田を作り
【山高み】
【下樋(したび)を走(わし)せ】
【下どひに】
我がとふ妹(いも)を
下泣きに
我が泣く妻を
今夜(こぞ)こそは
【安く肌触れ】」

と歌ひたまひき
こは【志良宣歌(しらげうた)】なり。又歌ひたまはく

「笹葉に
打つやあられの
【たしだしに】
【率(い)寝てむ】後は
【人は離(か)ゆ】とも
愛(うるは)しと
さ寝しさ寝てば
【刈薦(かりこも)の】
【乱れば乱れ】
さ寝しさ寝てば」

と歌ひたまひき
こは【夷振(ひなぶり)】の上歌なり

★いろ妹(も)
同母妹

★奸(たは)けて
不倫な性関係を結ぶ、密通する

★あしひきの
山の枕詞

★山高み
山が高いので

★下樋(したび)を走(わし)せ
※したび→配水や排水のために地中
に埋めた木の管
※わしせ→走らせる、通す
※ひそかに妻を慕う心に通じる寄物表現

★下どひに
ひそかに女のもとに通うこと

★安く肌触れ
上代歌謡共通の官能的語句

★志良宣歌(しらげうた)
尻上げ歌
終句を尻上がりに歌う歌謡法

★だしだしに
あられの降る音

★率(い)寝てむ
共寝

★人は離(か)ゆ
かゆ→離れる
人→百官及び天下の人をさす説もあるかわ、相手の女、軽大郎女と解釈

★刈薦(かりこも)の
刈りとった薦(こも)は乱れやすいことから「乱る」にかかる枕詞

★乱れば乱れ
※二人の間がばらばらに離れるなら離れよ説
※心の乱れ説

★夷振(ひなぶり)の上歌
夷振り→田舎風の歌いぶりの歌曲
上歌→調子を上げて歌う


■允恭天皇がお亡くなりになった後、皇太子・木梨之軽王(きなしのかるのみこ)は皇位につくことが決まっていましたが、皇位につくまでの間に、その同母妹の軽大郎女(かるのおおいらつめ)と密通して
歌われた

「あしひきの、山田を作り、山が高いので、水を引くための下樋を走らせた。それと同じく、ひそかに私が言い寄る妹に、人目を忍んで私が慕い、泣く妻に、今夜こそは心安らかに、その膚に触れることよ」

これは志良宣歌(しらげうた)という歌曲である
また歌われた

「笹の葉をうつ、あられの音が、たしだしと聞こえるが、そのように確かに共寝をした後は、あなたが私から離れてしまったとしてもかまわないよ。愛しいままに寝さえしたならば、刈薦(かりこも)のように、ばらばらに離れるのなら、離れてもいいよ、寝さえしたならば」

これは夷振(ひなぶり)という歌曲の上歌である







古事記・第十九代 允恭天皇の長い病を治した新羅の金波鎮漢紀武(こむはちむかむきむ)

2021-02-13 13:40:32 | 日記


天皇(すめらみこと)初め【天津日継(あまつひつぎ)】知らしめさむとしたまひし時、天皇辞(いな)びてのりたまはく
「我(あ)は長き病有り。日継知らしめすこと得じ」とのりたまひき

しかれども大后(おほきさき)を始めて、諸のまへつきみ等、堅く奏(まを)すに因りて、乃ち天下(あめのした)治めたまひき

この時、【新良(しらき)の国王(こにきし)】、【御調(みつき)】の八十一艘(やそまりひとふね)を貢進(たてまつり)き

ここに御調の大使(おほきつかひ)、名は【金波鎮漢紀武(こむはちむかむきむ)】といひける。この人深く薬方(くすりのみち)を知れり。故、帝皇(すめらみこと)の御病を治差(おさ)めまつりき

★天津日継(あまつひつぎ)
皇位

★新良の国王(こにきし)
新羅の国王

★御調(みつぎ)
人民または外国から朝廷に献上する物品、貢物

★金波鎮漢紀武
(こむはちむかむきむ)
※金→姓
※波鎮→王族に授けられた爵位
※漢紀→王族の号
※武→名
※允恭紀では「良き医(くすし)を新羅に求む」とあるが、名を欠く


■允恭天皇が初め皇位をお継ぎになろうとなされた時、天皇はそれを辞退して「私には長い病がある。だから皇位を継ぐことはできない」と仰せられた

しかし皇后をはじめとして、多くの高官侍臣たちが即位されるよう強く申し上げたので、とうとう即位して天下を治めになった

この時、新羅の国王が貢物を乗せた八十一隻の船を献上した。この貢物を献上する大使は名を金波鎮漢紀武(こむはちむかむきむ)といって、この人は深く薬の処方に通じていた。そして天皇の病気を直した