るるの日記

なんでも書きます

巫女の歴史・男巫道鏡

2021-02-17 20:10:06 | 日記
八幡神宗教権力への干渉が行われたのは、北九州巫祝勢力が中央を脅かすほど巨大なものであったからだ

淳仁天皇治世のとき民間巫女に類する呪師たちを禁圧したが、先帝孝謙太后の寵僧・道鏡が大臣禅師の位を得、女帝とコンビの治世に復すると、淳仁天皇を廃帝し淡路に遠ざけた

淳仁天皇的儒教合理思想がクーデターによって頓挫をきたした。一方で巫祝信仰が再び抬頭する機を得た

道鏡も有識高徳な仏僧というよりは、得意な巫術によって女帝の病を癒して寵愛を得た男巫的存在であった。道鏡の本性は巫呪信仰者

奈良律令期の宗教思想は、原始的巫呪信仰と仏教が混在し表裏の関係であった。消長の拮抗をくりかえす

巫女の歴史・東大寺大仏は全国の宗教支配を目的として建立された

2021-02-17 19:50:15 | 日記
仏教国教時代の日本は、八幡神の霊威といえども最高ではなく、毘盧舎那仏完成に寄与したからこその霊威とする

三宝の奴として仕え奉る天皇が、八幡神禰宜大神社女の拝東大寺に同行したことで、社女たちは八幡神の威光のために天皇以下高官が従したかのように錯覚。官僚は原始信仰を利用したにすぎない。東大寺大仏が完成し、その後の宗教支配の計画が成就したあかつきには、もはや原始巫祝勢力の存在は妨げとなる
律令徹底のために、追放は当然、、

奈良時代末から平安初にかけて、事件はしばしばおき、奇怪な恐怖をまきちらす
宇佐八幡の禰宜と主神の追放事件はさらに発展し755年、八幡大神自身の託宣によって朝廷に偽託宣を詫びる前代未聞の現象で幕を閉じる

巫女の歴史・八幡大神社女と八幡大神田麻呂・厳禁された呪術(呪い)を使い流刑される

2021-02-17 19:22:25 | 日記
749年、八幡大神・禰宜・大神社女と八幡大神・主神司・大神田麻呂による八幡神の入京

両人は5年後の754年11月24日、原因不明のえんみ事件(厳禁された呪術・特定の人物を呪う儀式・殺人未遂の刑罰)にまきこまれた

社女と多麻呂の朝臣姓は剥奪され、社女を日向国へ、田麻呂を種子島へ流刑した

真実は、薬師寺の僧「行信」と八幡宮の「多麻呂」らと意を同じくして、えんみした
北九州の八幡信仰を平城京にもちこみ、天皇・上皇・太后・左大臣までを動かす大芝居をうった大神社女と大神田麻呂は同じように仏教界では薬師寺に近づいたのである

巫女の歴史・異常なまでの八幡宮崇拝

2021-02-17 18:49:28 | 日記
八幡大神の託宣あって京へ向かう

政府はただちに「迎神使」を定め上京の路の諸国に兵士一百人出させ巡幸の前後を駆除させた

八幡神が通過する国々は殺生禁断、その従人に供給する食料に酒・肉用いず、道路は清掃し汚穢ないようにした

この異常なまでの八幡神崇拝理由は、747年から開始した東大寺大仏築造が、宇佐八幡の託宣の加護によって749年に完成したと信じられたからである。そのことで尼社女には従四以下を授けられた

北九州最大の信仰圏を有する宇佐八幡の巫祝(禰宜)は、巫女が主導的地位にあり(禰宜尼)、男巫は位階も低く、主神司となづけながら禰宜尼の補助的立場であった

宇佐地方には一大巫女集団があり、その信仰神が八幡神



巫女の歴史・いつしか自然神信仰から怨霊鎮祭へ

2021-02-17 18:29:45 | 日記
三大信仰となる北野天神・稲荷神・八幡宮

もと北九州に信仰の起源を持つが859年に石清水八幡宮が建立。奈良時代の八幡神上京以来、平安朝を通じて神の東上入京の定石となる。なぜなら自然神信仰から氏神信仰が確立し、政界不遇の人物の怨霊を鎮祭する御霊会の形式が盛行したからだ

最初は一般みやこ民が企画した御霊会にもかかわらず、ついに宮廷が参加して、いつしか京都民衆たちの神事芸能となっていった