るるの日記

なんでも書きます

古事記・第十三代 成務天皇

2021-02-09 14:32:02 | 日記
成務天皇
若帯日子天皇(わかたはしひこのすめらみこと)
景行天皇の皇子

近江の【高穴穂宮】で天下を治めた
【建内宿禰】を大臣(おおおみ)に任じた。享年九十五歳

★高穴穂宮(たかあなほのみや)
滋賀県大津市坂本穴太町

★建内宿禰(たけしうちのすくね)
父・第八代孝元天皇
母・紀伊国造の祖先の宇津比古の妹、山下影日売
※景行朝から仁徳朝に至る歴朝に仕えた重臣
※神功皇后の朝鮮半島進出の時は霊媒者となっている
※古事記にその系譜を載せ、子九人、子孫二十七氏をあげているのは異例。後に付加したと考えられる。付加者は二十七氏の中で、推古朝のころに最有力氏族になった蘇我氏であろう



古事記・第十四代仲哀天皇

2021-02-09 14:04:17 | 日記
仲哀天皇の条は、系譜より始まって、神功皇后の新羅征伐、忍熊王の反逆などの物語から構成されるが、天皇は新羅征伐の直前に崩御している

仲哀天皇は倭建命の子
第十三代成務天皇は叔父
神武天皇以来父から子へと縦に継承されてきた皇統が成務天皇(叔父)から仲哀天皇(甥)へと初めて横に継承された。中に倭建命の系譜を組み入れるために横に屈折させたと思われる

仲哀天皇は穴門(あなと)の豊浦宮、また筑紫の香椎宮(かしいのみや)にいて天下を治めた

古事記・景行天皇御子・倭建命の最後は美夜受比売に預けた草薙剣に対する愛と悔恨を歌う

2021-02-09 13:38:54 | 日記
ここに御歌にのりたまはく

「【尾張に】
直(ただ)に向へる
尾津の崎なる 一つ松
【あせを 一つ松】
【人にありせば】
大刀はけましを
衣(きぬ)きせましを
一つ松
あせを」

と、うたひたまひき
其の地をいでまして、【三重村(みへのむら)】に到りましし時、またのりたまはく「吾が足、【三重(みへ)の勾(まがり)】の如くして、いと疲れたり」と、のりたまひき。故、其の地を号(なづ)けて三重といふ

其れよりいでまして、【能煩野(のぼの)】に到りましし時、【国思(くにしの)はして】歌ひたまはく

「倭は
【国のまほろば】
【たたなづく】
【青垣(あおがき)山隠(やまごも)れる】
【倭し美(うるわ)し】」

と、うたひたまひき
又歌ひたまはく

「命(いのち)の
【全(また)けむ人】は
【畳鷹(たたみこも)】
【平群(へぐり)の山】の
【熊かしが葉】を
【うずにさせ】
【その子】」

と、うたひたまひき
この歌は【国思歌(くにしのうた)】なり。又歌ひたまはく

「愛(は)しけやし
吾家(わぎへ)の方よ
雲居(くもい)立ち来(く)も」

と、うたひたまひき。これは片歌なり。この時、御病(みやまい)甚急(にはか)になりぬ。ここに御歌のりたまはく

「【嬢子(をとめ)】の
床(とこ)の辺に
我が置きし
【つるぎの大刀その大刀はや】」

と、歌ひをふる即ち崩(かむあが)りましき。ここに駅使(はゆまづかひ)を貢上(たてまつ)りき


★尾張に
※住吉の地形では海を隔てて尾張の熱田方面はよく見えた
※美夜比売をしのんだ歌詞

★あせを一つ松
※あせを→はやしことば
※吾兄(あせ)→居合わせた男子に親しみをこめてよびかける語であるが、一つ松によびかける気持ち

★人にありせば
もし人間であったなら、、しようものを

★三重村(みへのむら)
※三重郡釆女郷
※三重県四日市市釆女

★三重の勾(まがり)
※三重に曲げた形をした餅のこと
※足が腫れていくつも紋ができたような形

★能煩野(のぼの)
三重県鈴鹿郡に鈴鹿山脈の野登山(ののぼりやま)がある。この地域に倭建命の伝説地が散在する

★国思(くにしの)はして
国に思いをはせる。思慕する

★国のまほろば
国の中でもすぐれてよい国

★たなづく
幾重にも重なり合う

★青垣山隠(あおがきやまごも)れる
※青青と樹木の繁っている垣根
※大和を囲む山々を青垣そのものとみる

★倭し美(うるは)し
し→強調の助詞
うるはし→倭建命の望郷歌とすれば慕わしい心情。国ほめの歌とすれば美しい景観

★全けむ人
※完全な人
※無事な人
※つつがなく無事に帰れる人

★畳鷹(たたみこも)
平群(へぐり)の枕詞

★平群(へぐり)の山
※奈良県生駒郡平群村西武の矢田丘陵地帯
※聖なる山

★熊かしが葉
大樫の木の葉

★うずにさせ
※かんざし。男もさした
※花や葉を髪にさすのは、その生命力を転移する呪的意味がある

★その子
命の全けむ人(無命の事な人)に呼びかけた語

★国思歌(くにしのうた)
望郷の歌

★嬢子(をとめ)
美夜受比売

★つるぎの大刀、その大刀はや
草薙剣に対する激しい愛情と、その草薙剣を美夜受比売のもとに置いてきたことに対する悔恨との交差した心情

■倭建命は歌った

『尾張国の方に真っ直ぐに向いている、尾津の岬にある一本松よ。あせを。
もしこの一本松が人であったなら、大刀をはかせよう。また着物も着せよう。一本松よ。あせを。』

と歌った
そこから進んで三重村ち着いた時
「私の足は三重に曲げた餅のように腫れまがって、ひどく疲れてしまった」と言った。ゆえにそのを名づけて三重という
そこからさらに進んで、能煩野(のぼの)に着いた時、故郷をしのんで歌った

『大和国は国々の中でも最もよい国だ。重なり合った青い垣根の山、その山々の中にこもっている大和は、美しい国だ』

『命の無事である人は、平群の山の大きな樫の木の葉をかんざしにさせ。命の無事であるおまえたちよ』

と歌った。この二首の歌は国思歌(くにしのびうた)という名の歌である。次にまた

『ああ、なつかしい、わが家の方から、雲がわき起こってくるよ』

と歌った。これは片歌という形式の歌である。この時病気が急変して危篤になった。その時の歌

『乙女の床のあたりに、私が置いてきた大刀。ああその大刀よ』

と歌い終わるやいなやお亡くなりになった。従者たちは倭建命の薨去を知らせるため、早馬の使者を朝廷に差し向けた




古事記・景行天皇御子倭建命・東国征伐・望郷の歌・私はもう疲れました

2021-02-09 11:45:43 | 日記
そこより発(た)たして【当芸野(たぎの)】の上に到りましし時、のりたまはく
「【吾が心恒は虚(そら)よりも翔(かけ)り行かむと念(おも)ひつるを】、しかるに今吾が足得歩まず、【たぎたぎしく成りぬ】」とのりたまひき
故、其の地(ところ)を号(なづ)けて当芸(たぎ)といふ

其の地よりやや少しいでまししに、甚疲(いとつか)れませるによりて、御杖(みつえ)を衝きてややに歩みたまひき。故その地を号けて【杖衝坂(つえつきさか)】といふ

【尾津前(をつのさき)】の一つ松の許に到り坐ししに、先に御食(みけ)の時、其の地に忘れたまひし御刀(みはかし)、失せずて猶有りき

ここに御歌のりたまはく

★多芸野(たぎの)
美濃国多芸郡
岐阜県養老郡養老の滝付近

★吾が心恒(つね)は虚(そら)よりも翔(かけ)り行かむと念(おも)ひつるを
※自分では空をも飛んで行こうとするほど意気盛んだったが
※恒→病気にならない以前は

★たぎたぎしく成りぬ
たぎたぎし→凹凸・高低・屈曲のある状態
※足が腫れて曲がってしまった
※びっこをひく様子

★杖衝坂(つえつきさか)
三重県四日市市釆女から鈴鹿市石薬師に至る東海道にある坂

★尾津前(おつのさき)
※伊勢国桑名郡尾津
※三重県桑名郡多度町
※往古は海岸

■玉倉部を出発し、美濃の当芸野(たぎの)のあたりに着いた時、倭建命は「私はこんな状態にならない前は、空をも飛んで行こうと思っていたが、病身になった今、私の足は歩けなくなり、たぎたぎしく腫れ曲がってしまった」と言った
ゆえにその地を名づけて当芸(たぎ)という

そこからほんの少し進んだが、ひどく疲れたので、杖をついてそろそろと歩いた。ゆえにその地を名づけて杖衝坂(つえつきさか)という

こうして伊勢の尾津前(おつさき)の一本松のもとに着いたところ、以前、東征に赴く途中で食事をした時、そこに忘れた帯刀がなくならないで前のままあった

そこで歌う





古事記・景行天皇御子・倭建命・東国征伐・言霊

2021-02-09 11:01:08 | 日記
ここに、のりたまはく「この山の神は徒(むなで)に取りてむ」とのりたまひて、其の山にのぼりましし時、白猪(しろい)に山の辺に逢へり。其の大きさ牛の如くなりき

ここに【言挙(ことあげ)】為してのりたまはく「この白猪に化(な)れるは、其の神の使者(つかひ)にあらむ。今殺さずとも、還らむ時に殺さむ」とのりたまひて、のぼり坐しき

ここに【大氷雨(おほひさめ)】をふらして、倭建命を打ち惑はしき[この白猪に化れるは、其の神の使者に非(あら)ずて、其の神の【正身(ただみ)】に当たりしを、言挙したまへるに因りて惑はさえたまへるなり]
故、還り下し坐して、【玉倉部(たまくらべ)の清泉(しみず)】に到りて息(いこ)ひ坐しし時、御心ややにさめましき。故、其の清泉を号(なづ)けて、【いさめの清泉】といふ

★言挙(ことあ)げ
※口に出して言いたてること
※言霊信仰に基づくが、不用意な言挙はかえって危険とされた
※万葉集に、「葦原の水穂の国は、神ながら言挙せぬ国、、」

★大氷雨(おほひさめ)
ひさめ→ひょう、あられ

★正身(ただみ)
本体

★玉倉部の清泉
滋賀県坂田郡米原町醍ヶ井説
岐阜県不破郡関原町玉説
いづれも伊吹山南麓

★いさめの清泉
すわっていて正気に戻った清水

■倭建命は伊吹山の麓に着いて「この山の神は素手で直接討ち取ってしまおう」といって、山に登って行ったが、その時白い猪と山のほとりで出会った。その猪の大きさは牛のようだった

そこで倭建命は言挙げして
「この白い猪に化身しているのは、伊吹山の神の使者であろう。今殺さなくても、山から帰る時に殺してやろう」と言って山に登った

すると山の神が激しい氷雨を降らして、倭建命を打ち惑わした
[この白い猪に化身していたのは、山の神の使者ではなく、山の神自身であったのを、言挙をしたために惑わされてしまったのである]

山を降りて玉倉部の清水について休んでいた時に、少し正気を回復した。ゆえにその清水を名づけて「いさめの清水」という