ここに黒日売(くろひめ)、其の国の山方の地に大坐(おほま)さしめて、大御食(おほみけ)を献(たてまつ)りき。ここに【大御羹(おほみあつもの)】を煮むとして、其の地の【菘菜(あおな)】を採(つ)める時、天皇、其の嬢子(をとめ)を菘(あおな)を採める処に到り坐して歌ひたまはく
「山県に
蒔ける菘菜も
【吉備人】と
共にし採めば
くもあるか」
とうたひたまひき
天皇上りいでます時、黒日売、御歌を献りていはく
「倭方(やまとへ)に
西風(にし)吹き上げて
【雲離れ】
退(そ)き居(を)りとも
我忘れめや」
とうたひき。又歌ひていはく
「倭方に
往(ゆ)くは誰(た)が夫(つま)
【隠水(こもりづ)の】
【下よ延(は)へつつ】
【往くは誰が夫】」
とうたひき
★大御羹(おほみあつもの)
熱い汁物
★菘菜(あおな)
青い菜
★吉備人
黒日売
★雲離れ
雲が自分のいる所から大和の方へ遠く離れる
★隠水(こもりづ)の
下の枕詞
★下よ延(は)へつつ
※隠れ水がものの下をひそかに流れる。男が女にひそかに思いを寄せて通うこと
★往くは誰(た)が夫(つま)
※男が人目をしのんで女の人のもとに通うのを別の女がうらやむ歌
※黒日売が天皇の帰って行く先の皇后をうらやむ歌
■黒日売は自分の国の山畑の所に天皇を御案内して、お食事をさしあげた。そこで黒日売が熱い汁物を煮ようとして、その畑にある青菜を摘んでいる時、天皇はその乙女が青菜を摘んでいる所にいらっしゃって、お歌いになった
「山畑に蒔いておいた青菜も、吉備の女と一緒に摘むと、実に楽しいことであるよ」
天皇が大和の都にお帰りになる時、黒日売は天皇に歌を差し上げた
「大和の方に向かって西風が吹き、雲は遠くに離れていきますが、その雲のようにあなたが遠のいておりましても、私はあなたのことは決して忘れはいたしません」
「大和の方に通っていくのは、どなたの夫でしょうか。ひそかに思いを大和の女に馳せて通っていくのは、どなたの夫でしょうか」
と歌った