るるの日記

なんでも書きます

古事記・雄略天皇・自宅を皇居に似せて作ってしまい、天皇から家を焼かれようとした豪族

2021-02-14 22:51:42 | 日記
天皇、其の家を問はしめてのりたまはく「其の堅魚を上げて舎を作れるのは誰が家ぞ」とのりたまへば、答へてまをさく「【志畿(しき)の大県主(おほあがたぬし)】の家なり」とまをしき

ここに天皇のりたまはく
「【奴(やっこ)や】、己が家を天皇の御舎(みあらか)に似せて造れり」
とのりたまひて、即ち人を遣はして、其の家を焼かしめたまふ時、其の大県主、おぢ畏(かしこ)みて、【稽首(のみ)】まをさく

「【奴】に有れば、奴のままに覚らずて過ち作れり。甚畏(いとかしこ)し。故、のみの御幣(みまひ)の物を献(たてまつ)らむ」とまをして、布を白き犬にかけ、鈴をつけて、己が族(うがら)名は腰佩(こしはき)といふ人に、犬の縄を取らしめて献上(たてまつ)りき
故、其の火をつくるこてを止めしめたまひき

★志幾(しき)の大県主(おおあがたぬし)
※河内国志紀郡(大阪府柏原市付近)の豪族

★奴(やっこ)や
相手をののしった語

★稽首(のみ)
頭を下げて願い頼む

★奴(やっこ)
下僕
卑しい者

■天皇はその家について供の者に尋ねさせて、「その堅魚木を屋根に上げて家を造っているのは誰の家だった」と聞かれた

供の者は答えて「あれは志幾の大県主(おおあがたぬし)の家でございます」と申し上げた

天皇は「あいつめ、自分の家を天皇の宮殿に似せて造っている」と言われ、人を遣わしてその家を焼かせようとした時、その大県主は恐れ畏んで許しを乞うて

「私は卑しい奴(やっこ)ですので、気づかないで誤って造ってしまいました。まとこに恐れ多いことをしてしまいました。それで許しを願うしるしの献上物を差し上げます」と申し上げて

布を白い犬にかけ、それに鈴をつけて、同族の腰佩(こしはき)という者に犬の縄を取らせて献上した

それで天皇にその家に火をつけることをやめさせられた

古事記 ・雄略天皇・堅魚木(かつおぎ)を造ってしまった家

2021-02-14 21:55:42 | 日記
初め【大后(おほきさき)】【日下(くさか)】に坐(ま)しし時、【日下の直越(ただごえ)】の道より河内(かふち)にいでましき。ここに山の上に登りて国内(くぬち)を望(みさ)けたまへば、【堅魚(かつを)】を上げて舎屋(や)を作れる家有りき

★大后
皇后の若日下部王

★日下
河内国河内郡日下(東大阪市日下町付近)

★日下の直越(ただごえ)
生駒山の暗峠を越えて日下に出る道で、大和から難波へ行く一番の近道

★堅魚(かつを)
※堅魚木
※葺草(ふきくさ)の散乱を防ぐために棟の上に乗せた木で堅魚の形をしている
※堅魚木は宮殿や神社だけに用いられた

■初めのころ皇后・若日下部王が日下にいた時のこと、雄略天皇は日下へまっすぐに越える道を通って河内に来た

その時、暗峠(くらがりとうげ)の上に登って国内を見ると、屋根の上に堅魚木(かつおぎ)を上げて造っている家があった

古事記・雄略天皇・后と妃と御子

2021-02-14 21:25:38 | 日記
【大長谷若建命(おほはつせわかたけのみこと)】
【長谷(はつせ)の朝倉宮】に坐しまして、天下治めたまひき

天皇、大日下王(おほくさかのみこ)の妹、若日下部王に娶ひたまひき[子无りき]

又都夫良意富美(つぶらおほみ)の女(むすめ)、韓比売(からひめ)に娶ひて生みませる御子、【白髪命(しらかのみこと)】
次に妹【若帯比売命(わかたらしひめのみこと)】[二柱]

故、白髪太子(しらかのひつぎのみこ)の【御名代(みなしろ)】として白髪部(しろかべ)を定め、又【長谷部(はつせべ)の舎人(とねり)】を定め、又、【河瀬の舎人】を定めたまひき

この時、【呉人(くれひと)】参渡(まるわた)り来ぬ。其の呉人を【呉原に】安置きたまひき。故、其の地(ところ)を号(なづ)けて呉原といふ

★大長谷若建命
(おほはつせわかたけのみこと)
※第二十一代雄略天皇
※允恭天皇の息子
※大和国城上郡長谷(奈良県桜井市初瀬)にちなむ名

★長谷(はつせ)の朝倉宮(あさくらのみや)
※桜井市の黒崎と岩坂の間にあった

★若日下部王(わかくさかべのみこ)
※仁徳天皇の娘

★白髪命(しらかのみこと)
後の清寧天皇

★若帯比売命(わかたらしひめのみこと)
※伊勢の斎宮になった

★御名代(みなしろ)
天皇、皇后、皇子女などの名を後世に伝えるためにその名や、居所にちなんで設置されだ部曲

★長谷部(はつせべ)の舎人(とねり)
※雄略天皇の御名代
※舎人→天皇、皇族に近侍して雑役を勤める官人

★河瀬の舎人
近江国栗田郡(滋賀県草津市周辺)から白い鵜が田上川(今の大戸川)にいると報告があったので、川瀬舎人を置いた。川瀬を守る管理者

★呉人
3世紀中頃の中国南方に興った呉国の人

★呉原
奈良県高市郡明日香村栗原付近


■大長谷若建命(おおはつせわかたけのみこ・雄略天皇)は泊瀬の朝倉宮にて、天下を治めた

天皇は大日下王(おおくさかのみこ)の妹の若日下部王(わかくさかべのみこ)と結婚された[御子はいらっしゃらなかった]

また都夫良意富美(つぶらおおみ)の娘の韓比売(からひめ)と結婚して生れた子は、白髪命(しらがのみこと・清寧天皇)、次に妹の若帯比売命(わかたらしひめのみこと)である[二柱]

皇太子・白髪命の御名代(みなしろ)として白髪部を定め、また長谷部の舎人を定め、また河瀬の舎人を定めた

この天皇の時、呉人が渡来した。その呉人を飛鳥の呉原に置いた。それゆえこの地を呉原というのである

古事記・第二十一代 専制君主 雄略天皇 君臨

2021-02-14 19:56:06 | 日記
♦️仁徳系統は五世紀末になると、たびたびの宮廷の内紛によって重大な危機に瀕し、この時に君臨したのが雄略天皇である

「雄略紀」の伝える天皇は武断的な専制君主の像が出ているが、「古事記」においてはそれほど強烈ではない

しかし後出する志幾の大県主や一言主大神との出会いの物語には、やはり専制君主としての映像が打ち出されている

「宋書・倭国伝」に倭王武(雄略天皇)が478年に南朝の宋に送った上表文があり、それに
「昔より祖禰躬ら甲冑をつらぬきて、山川を跋渉に、寧処に遑あらず、、」とある有名な文句は祖先の英雄的な功業を述べたものであるが、同時にこの難局に処する雄略天皇自身の英雄的な思想を披瀝したものといえよう

古事記・安康天皇弟・大長谷王に殺された市辺之忍歯王の二人の子供

2021-02-14 19:23:42 | 日記
ここに市辺王の王子たち、【意祁王(おけのみこ)・袁祁王(をけのみこ)】、この乱(みだれ)を聞きて逃げ去りたまひき

故、山代の【苅羽井(かりはい)】に到りて、【御糧】食(みかれひを)す時、【面(め)さける】老人(おきな)来て、其の糧を奪ひき

ここに其の二(ふたはしら)の王(みこ)のりたまはく
「糧は惜しまず、しかれども汝は誰人(たれ)ぞ」とのりたまへば

答へていはく「我は山代の【猪甘(いかひ)】ぞ」といひき

故、逃げて【玖須婆(くすば)の河を渡り】、針間国(はりまのくに)に至り、其の国の国人、名は【志自牟(しじむ)】の家に入りて、身を隠して
馬甘(うまかひ)、牛甘(うしかひ)に役はえたまひき

★意祁王(おけのみこ)・袁祁王(をけのみこ)
※のちの仁賢天皇と顕宗天皇(けんぞう)
※お・をは大小の意味がある

★苅羽井(かりはい)
※山城国相楽郡蟹幡
※京都府相楽郡山城町綺田説
※樺井月神社の地・久世郡城陽町水主説

★御糧(みかれひ)
乾飯

★面(め)さける
目尻などに入墨をした
入墨の理由は刑罰・職業

★猪甘(いかひ)
朝廷の猪(豚)を飼う部民

★玖須婆(くすば)の河を渡り
※大阪府枚方市楠葉
※淀川の渡し場
※二皇子は山城から河内に南下し、この渡し場を渡って摂津に出、西国街道を通って播磨に行った

★針間国(はりまのくに)
播磨国
兵庫県の西南部

★志自牟(しじむ)
※しじむは、地名の「しじみ」で今の兵庫県三木市志染町。古事記が人名としたのは誤伝だろう
※顕宗紀では播磨国赤石郡に出て、縮見屯倉首(しじみのみやけのおびと)に仕えた、とある

■市辺王の御子たちの意祁王(おけのみこ・仁賢天皇)、袁祁王(をけのみこ・顕宗天皇)はこの事変を聞いて、逃亡された

山城の苅羽井(かりはい)に着いて、乾飯(かれいい)の食事を召し上がっていると、目のあたりに入墨をした老人がやって来て、その乾飯を奪った

そこでその二柱の皇子が、「乾飯は惜しくはない。それにしてもおまえは誰なのか」と尋ねると、老人は答えて「私は山城の猪を飼う猪(い)飼いだ」と言った

こうして二人はさらに逃げて、河内の楠葉の川を渡り、播磨国に行き、その国の住人で名を志自牟(しじむ)という人の家に入って、身分を隠して馬飼い・牛飼いとして使われた