其れより入りいでまして、【走水海(はしりみずのうみ)】を渡りましし時、其の【渡】の神、浪を興し船を廻らして、得進み渡りたまはざりき
ここに其の【后】、名は【弟橘比売命(おとたちばなひめのみこと)】のしたまはく、「妾(あれ)、【御子にかはりて海に入らむ】。御子は遣はさえし【政(まつりごと)】を遂げて覆奏(かへりごとまを)したまふべし」とまをしたまひて、海に入りまさむとする時、【菅畳八重(すがだたみやえ)・皮畳八重・きぬ畳八重を波の上に敷きて】、其の上に下り坐しき
ここに其の暴浪自ら伏(な)ぎて御船得進みき。ここにその后うたひたまはく
【さねさし】
相武の【小野】に
燃ゆる火の
火中に立ちて
問ひし君はも
とうたひたまひき。故七日の後、其の后の御櫛(みくし)、海辺(うみへ)に依りき。乃ち【其の櫛を取りて、御陵(みはか)を作りて治め置きき】
★走水海(はしりみずのうみ)
※今の浦賀水道
※走水→潮流の速いこと
※横須賀市走水に走水神社があり、倭建命と弟橘比売を祀る
★渡
渡し場、海峡、船で渡る場所
★后
天皇の夫人に用いる語で、ここでは「妃」であるべきであるが、倭建命を天皇に準じて扱っている
★弟橘比売命(おとたちばなひめのみこと)
※景行紀に「穂積氏忍山宿禰(おしやまのすくね)の女(むすめ)」とある。
※穂積氏は饒速日命(にぎはやひのみこと)の子孫で物部氏と同祖
※常陸国風土記に倭建天皇の皇后として、大橘比売命が見える
※古事記伝には垂仁朝に常世国から渡来した。橘の名で称えたとある
★御子にかはりて海に入らむ
海が荒れるのは海神の怒りという考えから、人身御供となって入水する意味
★政(まつりごと)
※天皇の政治は祭祀に根元を発するという観念から、政は祭事と政事の両義に用いた
※天皇から委託された政事には、その成果を報告することを伴う。その複命を「覆(かへりごと)」という
★菅畳八重~波の上に敷きて
※敷物を何枚も重ねること
※敷物を重ねたのは、海神の妻として供せられる弟橘比売を神聖視したため
★さねさし
相模の枕詞
★小野
固有名詞→厚木市小野
普通名刺→をは愛称の接続語
★海辺(うみへ)
上総側の海岸
★其の櫛を取りて、御陵を作りて治め置きき
※櫛を陵に治めたのは、櫛には神霊の宿るものを他と区別するための標識の意味があり、また魔よけの呪物でもある
■倭建命は、相模から東へ進んで、走水海(はしりみずのうみ)を渡る時、その海峡を支配する神が怒って大波を立て、船をくるくる回して先へ進むことができなくなった
この時、倭建命の后の、名は弟橘比売命(おとたちばなひめのみこと)が、「神の怒りをしずめるために、私が御子の身代わりとなって海に入ります。御子は命じられた東征の任務を成し遂げて、天皇に復命なさいませ」と進言して、海に入ろうと、菅や皮や絹の敷物を何枚も重ねて、波の上に敷いて、その上に神の妻として降りた
すると、恐ろしい荒波も自然に静かになって船は対岸に進むことができた
この時后は
「さねさし
相模の野原に燃える火の、炎の中に立って、私の安否を気づかい、呼びかけてくださった、夫の君よ」
と、歌った
それから七日たった後、その后の櫛が海岸に流れついた。そこでその櫛を拾って、御陵(みはか)を造ってその中に埋葬した