【石動山(せきどうざん)】
■石川県鹿島郡中能登町
石川県七尾市
富山県氷見市
にまたがる標高564メートルの山
■開山・紀元前92年(崇神天皇6年)説と712年説がある
■延喜式に伊須流岐比古神社として登場
隕石が落ち、鳴動し神威を顕した。その石を神として祀るため
※白山を開いた【泰澄】により創建説
※崇神天皇6年に創建説
■祭神
★伊須流岐比古神=五社権現→本地仏・虚空蔵菩薩
★白山比咩神
★イザナキ・イザナミの神とも扱われる
五社権現とは神仏習合の神で、虚空蔵菩薩を本地仏とする(明治期に国家神道により権現の名称否定された)
■1180年勅願寺として保護された。
石動山天平寺と称し神仏習合
院坊360余
衆徒3000人
勅願寺→勅許により国家鎮護、皇室繁栄の祈願ができ、寺領が得られる
■虚空蔵求聞法(一定な作法にそって真言を100日間かけて100万回唱える。これを修した行者は、あらゆる経典を記憶・理解し忘れることがなくなる)の修法・峰入行盛んとなる
真言宗の寺院となり加賀・能登・越中の山岳信仰の拠点・霊場となる
石動(いするぎ)修験者たちを通じ北陸から東北にかけ分社し末社は80
■南北朝時代、1335年「中先代の乱」で、朝廷側の越中国司をかくまったため、足利尊氏に呼応した越中守護に焼き討ちにされ一時衰退した
■戦国期に復興した
1582年本能寺の変直後の混乱に乗じて、越後の上杉方についていた能登畠山氏旧臣が蜂起し石動山天平寺衆と共に石動山に立てこもったため、前田利家、佐久間盛正、長連龍ら織田軍に焼き討ちにされ、全山焼亡
この焼き討ちには織田信長の比叡山焼き討ちに似ていたといわれ、数百人の法印のみならず、子まで撫で切りにしたとが。1060の首を左右にかけて並べたなど弾圧された
1583年勅命により豊臣秀吉によって復興された。現存する本殿は前田利常によって建てられた
■明治5年神仏分離令により廃仏棄釈し、寺の痕跡は全て破壊された。わずかに残る本殿を御興堂という場所に移し、それぞれ本殿・拝殿とした
■現在、地元自治体の手によって発掘調査が行われ、当時の全容解明が進んでいる。また石動山の中心的な大宮坊が復元されるなど史跡公園として整備を行っている