るるの日記

なんでも書きます

古事記・第十六代仁徳天皇

2021-02-11 12:45:30 | 日記
【大雀命(おほさざきのみこと)】
【難波の高津宮(たかつのみや)】に坐しまして、天下(あめのした)治めたまひき

★大雀命(おほさざきのみこと
仁徳天皇
応神天皇の皇子
母は皇后・中日売(なかつひめ)
さざき→小鳥の鷦鷯(みそさざい)

★難波の高津宮(たかつのみや)
大阪市東区法円坂町の聖武天皇の難波宮址がこの地という

古事記・下巻・古神道的天皇観から儒教的天皇観へ

2021-02-11 12:29:03 | 日記
♦️下巻を仁徳天皇から始めたのは、大陸との交渉を背景とする変動期の中に仁徳天皇を定位させると共に、大陸伝来の儒教的聖帝の思想によって従来の古神道的天皇観と区別する意識が作用したためと思われる

今までの皇位継承は父子相続であるが仁徳天皇以後は兄弟相続に変わっているのも前王朝と区別される微証である

古事記・応神天皇・百済の朝貢と酒

2021-02-11 12:13:25 | 日記
新羅人参渡(しらきひとまるわた)り来ぬ。ここをもちて建内宿禰命(たけしうちのすくねのみこと)引き率いて、【渡の堤池】として【百済池】を作りき

また百済の【国主(こにきし)照古王(せうこわう)】、
牡馬壱疋(をまひとつ)
牝馬壱疋(めまひとつ)
【を阿知吉師(あちきし)】に付けて貢上(たてまつ)りき。この阿知吉師は【阿直史(あちきのふみと)】らの祖
また横刀(たち)及大鏡を貢上りき

また百済国に科(おほ)せ賜はく
「もし賢(さか)しき人あらば貢上(たてまつ)れ」
とおほせたまひき

故、命を受けて貢上れる人の名は

【和邇吉師(わにきし)】
【論語】十巻
【千字文(せんじもん)】一巻
あわせて十一巻をこの人につけて貢進(たてまつ)りき
この和邇吉師は【文首(ふみのおびと)】らの祖

【手人韓鍛(てひてからかぬち)】名は卓素(たくそ)
【呉服(くれはとり)】の西素(さいそ)二人を貢上りき

【秦造(はたのみやっこ)】の祖
【漢直(あやのあたひ)】の祖
酒を醸むことを知れる人
名は【仁番(にほ)
またの名は須須許理(すすこり)】等参渡り来ぬ

この須須許理、大御酒(おほみき)を醸(か)みて献(たてまつ)りき。ここに天皇、この献りし大御酒に【うらげて】、御歌にのりたまはく

須須許理が
醸みし御酒に
我酔ひにけり
【事無酒(ことなぐし)】
【笑酒(えぐし)】に
我酔ひにけり

とうたひたまひき
かく歌ひていでましし時、御杖をもちて【大坂の道中】の大石(おほいは)を打ちたまへば、其の石走りさりき
故ことわざに「堅石(かたしは)も酔人を避く」といふ

★渡の堤池
帰化人の造った池

★百済池
北葛城郡広陵町百済

★国主照古王
(こにきし・せうこわう)
※こにきし→国王
※照古王→百済第十三代の王(346~375)

★阿知吉師(あちきし)
※きし→朝鮮語の族長に対する敬称、後に新羅十七階官位の第十四となり、日本では姓(かばね)の名になった
※「応神紀」では阿直伎。儒学者で皇太子の師に任ぜられたとある

★阿直史(あちきのふひと)
※あちき→氏の名
※ふひと→文人
※文書・記録をつかさどる部民の首長。諸国に史部が設けられたが、その大部分は朝鮮及び中国からの帰化人であった

★和邇吉師(わにきし)
北朝鮮楽浪郡の王氏出身説
漢の高祖の子孫説

★論語
儒教四書の一
中国の戦国時代後半期に孔子の門人が編集。孔子と門人の対話を中心とした人生訓の書

★千字文
この成立は6世紀
儒書の確実な伝来は継体朝以後であって、それを応神朝まで遡及したのであろう

★文首(ふみのおびと)
※応神紀に書首とある
※文筆を業とした帰化氏族
※大阪府羽曳野市古市の地を本拠とした

★手人韓鍛(てひとからかぬち)
※手人→技術者、工芸家
※韓鍛→朝鮮の鍛冶職

★呉服(くれはとり)
中国の呉出身の機織りの女工

★秦造(はたのみやっこ)
※秦の民の管理者
※漢直と共に楽浪・帯方二郡に移住していたが、戦乱を避け一族を率いて日本に帰化
※祖は弓月君(ゆつきのきみ)

★漢直(あやのあたひ)
※記録、大蔵管理などにあたり奈良盆地南部に居住
※祖は阿知使主(あちのおみ)

★仁番(にほ)・須須許理
※にほ・すすこり、ともに名義未詳
※餌香(えが)に住む高麗人が良酒を造る[釈日本紀]
※えが→大阪府藤井寺市国府

★うらげて
うきいきして

★事無酒(ことなぐし)
※飲めば無事平安である酒
※くし→酒のほめことば

★笑酒(えぐし)
※飲めば笑いたくなる酒
※この歌は酒宴の場で客が謝意を述べた謝酒歌

★大坂の道中
大和から河内に行く穴虫街道

■新羅(しらぎ)の人々が渡ってきた。それで建内宿禰命(たけしうちのすくねのみこと)がこれを引き連れて、渡(わたり)の堤池(つつみのいけ)として百済池(くだらのいけ)を造った

また百済の国王の照古王(しょうこおう)は、雄馬一匹・雌馬一匹を阿知吉師(あちきし)に託して献上した。[この阿知吉師は阿直史(あちきのふみと)らの祖先]
また百済の国王は太刀と大鏡を献上した

天皇は百済国に命じて
「もし百済に賢人がおるならば献上せよ」と仰せになった

そこで勅命を受けて献上した人の名は和邇吉師(わにきし)という。その時に「論語十巻」「千字文一巻」あわせて十一巻をこの人に託して献上した[和邇吉師は文首(ふみのおびと)らの祖先]

また朝鮮鍛冶の技術者で名は卓素という者、呉出身の機織り女の西素という者の二人を献上した

さらに秦人の管理者である秦造(はたみやっこ)の祖先、漢人の管理者である漢直(あやのあたい)の祖先、酒の醸造を知っている人で名は仁番(には)、別名を須須許理(すすこり)という者たちが渡来してきた

この須須許理はお酒を醸して天皇に献上した。その時天皇はこのお酒を飲み気持ちが愉快になり、歌をよまれた
「須須許理が醸し造った酒に、私はすっかり酔ってしまったよ。無事平安になる酒、笑いたくなる酒に、私はすっかり酔ってしまったよ」

このように歌って大和から河内へお出ましになった時、杖で大坂の道の中ほどにある大きな石を打つと、その石は勢いよく転がって天皇を避けた
ゆえにことわざに「堅石も酔人を避く」というのである
















古事記・第十五代応神天皇・皇統譜の変化

2021-02-11 09:45:49 | 日記
♦️景行→成務→仲哀の三帝と神功皇后はタラシ(帯)の名を共有する一組の帝紀であるが、応神天皇以後の名にはない

皇統譜がタラシ系を中に置いて前後に大きな変化があることは是認される

物語の上でも、歴代天皇の軍事的な物語に比べかなり異なった性格を示している

■品陀和気命(ほむだわけのみこと・応神天皇・仲哀天皇と神功皇后との間の皇子)は軽島の明宮(あきらのみや・奈良県橿原市大軽町)にて天下を治めた

古事記・神功皇后・酒楽の歌・酒への神聖観🍶🍶🍶

2021-02-11 09:17:42 | 日記
ここに還り上り坐しし時、其の【御祖(みおや)】・息長帯日売命(おきながたらしひめのみこと)、【待酒(まちざけ)を醸(か)みて献(たてまつ)りたまひき】。ここに其の御祖の御歌にのりたまはく

この御酒(みき)は
我が御酒ならず
【酒(くし)の司(かみ)】
【常世(とこよ)】に坐(いま)す
【石(いわ)立たす】
【少御神(すくなみかみ)】の
【神寿(かむほ)き
寿き狂ほし
豊寿(とよほ)き
豊き廻(もと)ほし】
献(まつ)り来し御酒ぞ
【あさず食(お)せ】
ささ

とうたひたまひき。かく歌ひて大御酒(おほみき)を献りたまひき。ここに建内宿禰命(たけしうちのすくねのみこと)、御子の為に答へまつりて歌ひていはく

この御酒を
醸みける人は
その【鼓(つつみ)
臼(うす)に立てて
歌ひつつ】
【醸みけれかも】
舞ひつつ
醸みけれかも
この御酒の
御酒の
【あやに 】
【うた楽し】
ささ

とうたひき
こは【酒楽(さかくら)の歌】なり

凡(おほよ)そ帯中津日子天皇(たらしなかつひこのすめらみこと・仲哀天皇)の御歳、【伍拾弐歳(いそぢまりふたとせ)】壬戌(みづのえいぬ)の年の六月十一日(みなつきとおかまりひとひ)に崩(かむあが)りましき
御陵(みはか)は【河内(かふち)の恵賀の長江】に在り

皇后は御年一百歳(ももとせ)にて崩りましき。【狭城楯列陵(さきのたたなみのみさざき)】に葬りまつりき

★御祖(みおや)
おや→母親

★待酒(まちざけ)を醸みて献りき
帰って来る人の無事を祈って造り待つ酒

★酒(くし)の司(かみ)
※酒をつかさどる首長
※くし→奇し・霊妙=酒

★常世(とこよ)
海のかなたにあると信じられた理想郷

★石(いは)立たす
※石神として立っておられる
※「延喜式」の能登国羽咋郡に大穴持像石(おおなむちみかたいわ)神社
能登郡に宿那彦神像石(すくなひこのかみみかたいわ)神社の名があるが、自然石を大穴持神・宿那彦神として崇拝したもの

★少名御神(すくなみかみ)
※少名毘古那神(すくなびこのなのかみ)
※大国主に協力して国作りをした神
※医薬禁厭の神=百楽の長である酒の神

★♦️神寿(かむほ)き~廻ほし
※「神寿き」と「豊寿き」は「寿き狂ほし」と「寿き廻ほし」の対句的修飾語
※神(かむ)と豊(とよ)→呪詞的美称
※寿(ほ)き→言葉の霊力や歌舞などの呪的行為によって祝福する
※狂ほし、廻(もと)ほし→酒を醸す時に酒甕の周囲を躍り狂い、巡ること。呪的舞踊の霊力が酒に感染して発酵を促す

★あさず食(お)せ
盃の酒を少なくすることなく、常になみなみついで飲みなさい

★鼓(つつみ)臼に立てて歌ひつつ
※獣皮を張って作る円筒形の打楽器
※鼓を土間に立て、周囲を歌舞する

★醸みけれかも
醸造したからであろうか

★あやに
むやみに、むしょうに

★うた楽し
非常に、はなはだ楽しい

★酒楽(さかくら)の歌
酒席で歌われる歌

★伍拾弐歳(いそぢまりふたとせ)
52歳

★河内の恵賀の長江
大阪府藤井寺市岡

★狭城楯列陵(さきのたたなみのみさざき)
奈良市山陵町


■皇太子が角賀(つぬが)から都にお帰りになった時、母の息長帯日売命(おきながたらしひめのみこと)は、皇太子の無事を祈って待酒を造って、それを皇太子に差し上げた
その時の母君の歌

「この酒は私の造ったお酒ではありません。酒の首長、常世にいらっしゃり、石として立っている少名御神が
祝福のために酒甕の周囲を躍り狂い、躍り廻って醸し、献上されたお酒ですよ。なみなみとついでお飲みなさい、さあさあ」

このように歌ってお酒を皇太子に勧めた。そこで建内宿禰命(たけしうちのすくねのみこと)は皇太子に代わって答えた歌

「このお酒を造った人は、その鼓を臼のように立てて、その周囲を歌いながら醸したからであろうか、舞いながら醸したからであろうか、このお酒はむしょうに、たいそう愉快なことです。さあさあ」

この二首の歌は酒楽(さかくら)の歌である

仲哀天皇ご享年は52歳
壬戌の年6月11日にお亡くなりになった。御陵は河内国恵賀の長江にある

皇后はご享年100歳でお亡くなりになった。狭城楯列陵(さきのたたなみのみさざき)に埋葬もうしあげた