天武天皇以降、宮廷中心の全国神祇制の中、古代巫俗は祭祀儀礼職に吸収された。律令政治は民族習俗と一致しておらず、神儒仏的宗教方針は民間信仰や巫俗を排除する方向へ進んだ
大化の改新直前、枝葉を採り木綿をかけ神話を語りながら騒いだ、常世神を流行させた東国の巫女「大生部多(おおふべおほ)」は、仏教信者の渡来豪族・秦河勝に弾圧された
儒教の合理観は、原始以来の巫俗である天神憑依や神託に批判を加え、経典を有する儒仏教は農村の自然神を軽視し、陰陽寮設置により従来の巫女の神霊的予言価値は低下した
しかし社会変動期には、巫祝信仰が必ず抬当し復活している
壬申の乱にて吉野軍に味方した土着巫祝の託宣は事実となって現れ戦略となった。託宣の神はコトシロヌシ・イクミタマ
在野の巫祝層は政争に志を得ず、陰謀にすたれた人物の怨霊や御霊の巫祝となった