るるの日記

なんでも書きます

坂道=山道?

2021-06-03 13:58:21 | 日記
峠道まで1キロ程の集落にいた。川の水源が近くにある。チョロチョロと小川に山から水が注ぐ。陽当たりがよく気持ちいい。道路の周囲には田畑、家屋は数件点在。そして周囲を山々に囲まれている

今まで私はその囲んだ山々の山中に木地師が住していたものだと信じこんでいた。山の獣道の奥地にある少し開けた場所、、というイメージを描いていた
この集落は山中という程ではないなぁと感じていた








この地まで来る途中にダムがあってダムを眺めていたことを思い出していた。このダムの水底に6軒の民家の住んだ村が沈んでいるという。。「はっ!今私がダムを眺めているこの場所って、かなり山の高い部分じゃないか。今は普通の車道だが、このダムに沈んだ村から見たらこの車道の位置は山奥。それこそ昔は道なき道だったのではないか?ダム工事のために新しくした道だろうけれど、もとは山伏木地師の歩いた道だろうか?」
いにしえが現在に交差する

坂道に入った時点で山の入り口で、そこからずっと山道を車で上っていた、、のか、、?じゃあ周囲を取り巻く山々は、山から山が生えているのか?








地元伝説に隠された真実・天皇軍VS地元の神々

2021-06-03 12:20:12 | 日記






岩井戸神社

祭神
大己貴命(大国主命の別名)・菊理姫・一説に磐衝別命

■猿鬼宮
1
千毒という川に岩井戸という不思議の洞窟あり。昔この洞窟に猿鬼と云う者、多くの眷属引き連れ住んで、人を捕る。数多くの美女をつまみ寄せ酒宴遊興舞い踊る。夕暮れにも鬼ども諸国の人民を害す。

神は人民を哀れに思い、八百万の神を出雲大社に集い猿鬼退治の評定し、作戦をたてる
神軍大将・気多大明神
副大将・大幡紙杉姫
その他八百万の神々

2
美しき女性が琴を弾じ、三味線の糸を調べ、歌を吟じ、種々の慰め給うと、猿鬼ども面白そうな風俗にて城内より寄せ出る

神杉姫、三条小鍛冶宗近無銘に打ちたる二尺一寸の名剱を稲光の如く引抜き、鬼の細首を打ち落とし給う
首天に登らんとすれど、かの岩穴のことなれば城内をキリキリと舞いて泣くこと、終声の奇人が叫ぶ如くなり
神杉姫、城内へ駆け込み名剱の切先に鬼の首を貫き大将気多大明神に捧げ奉れり

3
十八の眷属鬼ども罵りだす
「我が大将かくの如くならせ給えば生きている所詮なし。敵討ち給う。もし討ち死にせば、大将のお供申すべし」と八百万の神の陣中に駆けつけ喰い割り、引き割り、おどし、叫び、泣く

4
神々、神変不思議顕して「やあ鬼ども、確かに聞け。罪という罪、咎という咎は幾千万の事なれば危なきを助け、脆きを救うは神仏の所作なれども、今汝等自業自得の報い現れ、許すに筋なし。覚悟は必定なり」
責めて得さす無常なれば「吃」と一同にどっと声をつぎ、一鬼も残らず討ち取りて帰られける

5
猿鬼の亡骸、川辺に塚を作り土底に埋むといえども、心魂死骸を離れず、折々に障害をなしたるため、仏閣へ詣で、猿鬼の心魂を弔うため名剱、鬼の身骨を仏前に供え大般若経をもって17日間読経給い、その冬に畜生祭ならび猿鬼成仏の回向し給えば、猿鬼の身骨、当寺仏体、速やかに西の空へ光を放ち飛び給う

それより国も豊かに安全の祭事
千鶴万亀の祝いせり


または、その霊を祭て猿鬼の宮とてあり。魑魅魍魎の類を祭り鎮めし。
祭神・磐衝別命(垂仁天皇第十皇子)
■戦後、岩井戸の守護神として白山大神(菊理姫)を勧請。社号を岩井戸神社と改めた

祭神
大己貴命(大国主命別名)
菊理姫
(磐衝別命は、一説に祭神、と現在は説明されている)

♦️るるの考察♦️
能登半島は海道で舟での出雲と交流が盛んだったので、出雲の人々の助けのもと、この地に縁ある神々が、猿鬼を退治してくれたのだろう。では魑魅魍魎の猿鬼とは誰か?私は天皇軍ではなかろうかと思う。

猿鬼を祀った猿鬼宮
祭神は磐衝別命。ということは猿鬼は磐衝別命となる。その神の本体は垂仁天皇の第十皇子で、墓はなんと石川県羽咋市「羽咋神社」にあるというのだ。そして羽咋市には猿鬼退治で神軍大将だった気多大明神の気多大社が鎮座する地。

天皇が九州から大和へ進出する際、大和を拠点としてからも、各地方を支配地にするためにたくさんの地で戦をしただろう。土着現地の人々にとっての日常はそのために荒れ果てた。

猿鬼退治の場合、天皇軍である猿鬼軍を現地に縁ある神々が(力ある軍隊か?)征伐。そのときの猿鬼軍の大将・磐衝別命(垂仁天皇皇子)は、神杉姫の名剱で首を切られ、亡骸は羽咋神社に埋葬。魂は猿鬼宮に祭られたのではないか?

木地師が信奉する八幡社と神官・吉田家

2021-06-03 09:21:06 | 日記
木地師集団が信奉した【八幡社】












■なぜ八幡社か?
848年、木地師業祖・惟高親王が筒井峠に宇佐八幡宮を勧請し筒井八幡宮(現・筒井神社・滋賀県東近江市)を創健した【祭神・応神天皇・惟高親王】。

その業祖をこの生業地に勧請した

■史実・氏子狩り
筒井神社(吉田家が神官)と大皇器地祖神社(白川家が神官)が木地師を統括していたが、江戸時代に吉田家と白川家が木地師を囲い込み氏子とすることで支配し、上納金をせしめた

木地師はこの神に直接奉仕義務を持ち、3年間上方へ行き奉仕し、次の伐採が許される免許状が授けられた。御所桜はその際に上方から持ち帰った桜だという、、

現実は上納金を吉田家がせしめていたのか。。上方へ3年間奉仕システムは江戸時代に始まったのかな

木地師修験者の形跡を探す・五輪塔陽刻板碑

2021-06-03 08:30:37 | 日記
■昔、山地生活をする木地師であり修験者でもある集団の住んでいた山がここにあり、木地師修験者の存在を思わせる形跡が現在も残っている。

■木地師は山の林材を求める。これを活用して生計をたてるため呪術的要素を採用した。
水源、水流、林材などがある山を支配する神を信仰し、山中に立ちこめる自然の霊気に触れながら苦行をし、呪術を体得する。山中生活者にとっての山は、神秘が宿りつつも実生活に切実に関連していた

■御所桜の木を見た帰り道、左を曲がると小さな祠がある。祠の中にはお地蔵さま。その後ろには50センチ程の石が置かれていた。メインはこの石で「五輪塔陽刻板碑」。これは古代山岳修験密教信仰に関係する。祠前にある川に転落していて、一見お地蔵さまが座っている姿に見えたそうだ。いにしえを伝える貴重な貴重な資料である