るるの日記

なんでも書きます

神の領地から仏の領地へ。天台密教から真言密教へ

2021-06-08 16:21:54 | 日記
■★804年・最澄・比叡山に天台宗を開く
★816年・空海・高野山に真言宗を開く
★844年~897年に生きた、清和天皇の異母兄・惟喬親王を業祖とする山伏木地師が各地山々を漂泊する

現在奥能登に点在する神社仏閣は、この3名に関わるものが多いです。この3つの宗派が絡み合って神社仏閣となったみたいです

♦️珠洲市宝立町・法住寺
810~824までに空海が創健
とあります
空海はここに(下に写真あり)着船しました。それより遥か昔、同場所に渡来神・加志波良比古神が降臨していたのです

つまり先に加志波良比古神の神領があり、そこへ空海が入り、その神領に法住寺を建立したのです
比叡山延暦寺も、天台山守護神である日吉大神の神領に建立されたそうですよ
そして時代と共に神領を寺領にし、神社の影が薄くなりました

密教が国民に浸透したのは、原始信仰の神の存在を信じる人々に、神から新たに仏というものに置き換えさせるため、本地垂迹論の神は仮にこの世に現れ、神の本体は仏であるとしたからです

■法住寺の鎮守社は白山神社であることから、天台宗比叡山延暦寺末の白山修験団とも深い関わりがあったようです。他の真言宗のお寺はみな室町までは天台宗。戦国の兵火にかかりいったん廃絶し、真言宗として再興されました。

■仏教は改宗しますが、寺を鎮守する神は戦国以前に勧請してきた神様のままです。仏教のように簡単には変えれないという精神性が神道にありそうです

♦️真言宗・不動寺は、比叡山延暦寺鎮守・近江坂本山王権現(日吉神社)を勧請しました

不動寺開創は、村々を巡行した修験者、漂泊の聖(木地師)が関与しています。それはこの地域の寺々と結びついた神社に、山王社、白山社、火宮、熊野社等修験系神社が多いことで示されています。中でも山王社や白山社が多いのは、修験者が天台宗だった加賀白山系が多かったからです







717、718に泰澄がたくさんの神社仏閣を建立したのは中央への上納金を増やすためか?それとも純粋に民の幸せのためか?

2021-06-08 14:50:30 | 日記
★和気あいあいな自然崇拝

★紀元前90年頃
崇神天皇が各地に神社建立
渡来人が各地に神社建立

★6世紀
欽明天皇から中央祭祀制度が整えられ、貢納システムできていく

仏教伝来

★8世紀
※仏教は鎮護国家的
※東大寺大仏づくり。奈良仏教は人民を苦しめる
※717年泰澄が白山に登り妙理大菩薩を感得した。修験道を開いた。各地に神社仏閣建立

柳田村総社・白山神社
718年泰澄が創健






小松市・那谷寺
717年泰澄創健





中能登町・石動山
717年泰澄開山
92年崇神天皇開山とも







平安時代・有力者の税金対策は、政府側藤原氏の策略だった

2021-06-08 13:37:08 | 日記
♦️平安時代・藤原氏の摂関政治のころ

■貴族、大寺、地方の豪族は開墾し、私有地を広げていきました。この私有地を荘園といいます
私有地といえど無税ではなく、荘園が増えることは、政府の収入も増えることになりますが、荘園の持ち主は頭がよいので、税を納めずに済むように計らいました。この権利を【不愉の権】といい、また役人の立ち入りを許さない【不入の権】を持ったのです。こうして荘園は完全な私有地となり、国から独立した形をとりました
いつの時代も、利に長けた人って一定数いるものですね💴

農民や豪族も苦労して開いた開墾地の税をとられないように、開墾地を上記の有力者に寄付しました。寄付といっても名目だけで、実際は自分の土地の経営はそのまま続け、収穫の一部をお礼として有力者に差し出す、というシステムです。その方が中央政府に納税するより得でした
有力者からの入れ知恵だったのかもしれません

有力者といえば中央で巨大な権力を持つ藤原氏です。そのため藤原氏に荘園の寄進が集中しました

すべてが藤原氏の計画通りだったのですね。すごすぎます❗️




■中央政府から遠く離れた地方では、地方政治担当者である国司や郡司、一般の人民までもが、中央の目が届かないのをよいことに不正を行っていました。

■また、中央でも密かに不正が行われていました。本籍地を離れ脱税する浪人たちを、中央権門勢家(権勢ある家柄)の手先にして、税である米、人夫、馬などを船ごと奪ったりさせていたのです。

■人民を支配する国司や郡司は、税の横領
一般人民は山間奥地に住み、戸籍に登録せず、行政の視野外に生きる者が増えるなど、当時の政府はなかなかうまく国をまとめることは、できなかったんですね。現在のような通信制度がないからあたりまえなんですが。

■政府は人民でなく土地へと、税の対象を変え、戸籍はいらなくなりました。これは江戸時代末まで続き、日本国民全体を対象とする戸籍が作られたのは明治になってからです。

荘園制度は太閤検地までつづきました




神社の歴史には隠された裏がありました

2021-06-08 09:51:53 | 日記
神社には隠された歴史があります

須須神社の元来の祭神は【ミホススミの神】で出雲の美保神社の祭神と同神です。ですが美保神社の説明では高天原から稲穂を持って降りてきた【美穂津姫命】とあります

ミホススミ神
ススミは烽。東方の日をうける神、岬の航行安全の神です。能登がヤマト国家と深く結び付くほど、日本海航路全体の要点となり国家的統制を受ける

そして須須神社ミホススミ神への祭祀を整えてくれていた出雲に祭祀料を納めていた体制が、ヤマト国家にとりこまれてしまったのだと思います














祭祀が出雲国支配から天皇支配へ移行する

2021-06-08 09:15:25 | 日記
崇神天皇が日本各地に社を創健したという意味は、天皇がその地を制圧し支配下にしたということでしょう

石川県珠洲若山町は若倭部に指定されていました。若倭根子大毘毘命(開花天皇)の名を伝える儀式費用を貢納する義務に指定された地域です

日置部に指定された地域があります。出雲国の神門部を日置郷、その豪族を日置氏、その配下の人間が日置部となっていましたが、いつの間にか中臣氏のもとに各地の日置部情報が把握され、中央政権の祭祀体制に組み込まれてしまいました
(6世紀・欽明天皇頃から中央祭官制度が整えられていった)
こうして地方の社は朝廷に管理されていきます