♦️遊佐氏♦️
1
畠山氏に仕え、子孫は河内国、能登国、越中国の守護を務めた
2
摂関家荘園、出羽国飽海郡遊佐郷を本拠地とし、奥州藤原氏の下で在地領主となった
3
能登では遊佐秀頼・続光が権力を握った
1581年、織田信長より処刑
♦️能登畠山氏家臣遊佐氏の仕事♦️
■若山荘領家日野有光が将軍義教の勘気に触れ若山荘没収
有光の子・日野秀光が領家となる
■1428年から同時に能登守護・畠山満慶が1200文で若山荘の代官を請け負う。守護代遊佐祐信は、請負代官となり若山荘の掌握を図る
■1432年、日野秀光は若山荘を守護不入の地にし、代官を通さず日野家直接支配とする
その3日後1432年6月1日急死
実子なし(遊佐の仕事?)
将軍のはからいで8歳の広橋中納言嫡子が秀光の子と定められ若山荘相伝。9月11日急死(遊佐の仕事?)
再び守護代遊佐氏が請負代官
■1458年室町将軍の命令をうけて、能登守護・畠山義忠が、守護代遊佐忠光に、若山荘の地を、将軍の妻の兄・三條実雅の雑掌に交付するよう伝える(三條直接支配)
1461年日野勝光と妹・日野富子が三條を追い落とし、日野勝光に伝領
■応仁の乱後、1478年若山荘が能登守護畠山氏の支配下に属する
日野公家荘園が幕を閉じた
■1480年9月8日遊佐統秀が若山荘にある白山宮に、田地を一段寄進し、家門繁栄を祈願
1
遊佐忠光
能登畠山氏の家臣
2
統秀
能登畠山氏の側近
能登府中で執務
1477年、守護被官・五井兵庫が須須神社の神田押領事件で神主が府中に赴き守護法廷に訴え。審理するほど守護代として実質的執務官でした
3
大法師
畠山義総の家臣
七尾を訪れた冷泉為和に和歌を師事
4
秀倫
越後上杉氏との交渉にあたる
茶の湯をよくし名物の茶器所有
5
秀頼
温井との抗争に破れた遊佐続光に加担
6
宗円
温井との抗争で、温井に味方
領国指導権握った
畠山七人衆の一人
7
続光
畠山七人衆の一人
領国支配権を握ったが、温井、三宅、長ら畠山家臣から越中国に追われた
畠山義則追放
畠山義慶毒殺
1577年七尾城の戦いで、敵の上杉軍に内応し、長続連を殺害。上杉に降って能登の実権を完全に我が物とした
1578年上杉謙信没後、織田軍が能登に攻め込んで来ると、信長に降伏したが、信長は長一族を殺した罪を許さず処刑
8
盛光
続光の子
かつて上杉についたことを許されず、斬首
9
長員
温井、三宅、上杉景員らと石動山に登り、荒山城に籠った。前田利家の援軍・佐久間盛政と、前田軍に討ちとられた