るるの日記

なんでも書きます

能登守護代・遊佐氏はよく働いた

2021-06-11 16:06:39 | 日記
♦️遊佐氏♦️



1
畠山氏に仕え、子孫は河内国、能登国、越中国の守護を務めた

2
摂関家荘園、出羽国飽海郡遊佐郷を本拠地とし、奥州藤原氏の下で在地領主となった

3
能登では遊佐秀頼・続光が権力を握った
1581年、織田信長より処刑

♦️能登畠山氏家臣遊佐氏の仕事♦️
■若山荘領家日野有光が将軍義教の勘気に触れ若山荘没収
有光の子・日野秀光が領家となる

■1428年から同時に能登守護・畠山満慶が1200文で若山荘の代官を請け負う。守護代遊佐祐信は、請負代官となり若山荘の掌握を図る

■1432年、日野秀光は若山荘を守護不入の地にし、代官を通さず日野家直接支配とする

その3日後1432年6月1日急死
実子なし(遊佐の仕事?)

将軍のはからいで8歳の広橋中納言嫡子が秀光の子と定められ若山荘相伝。9月11日急死(遊佐の仕事?)

再び守護代遊佐氏が請負代官

■1458年室町将軍の命令をうけて、能登守護・畠山義忠が、守護代遊佐忠光に、若山荘の地を、将軍の妻の兄・三條実雅の雑掌に交付するよう伝える(三條直接支配)

1461年日野勝光と妹・日野富子が三條を追い落とし、日野勝光に伝領

■応仁の乱後、1478年若山荘が能登守護畠山氏の支配下に属する
日野公家荘園が幕を閉じた

■1480年9月8日遊佐統秀が若山荘にある白山宮に、田地を一段寄進し、家門繁栄を祈願

1
遊佐忠光
能登畠山氏の家臣

2
統秀
能登畠山氏の側近
能登府中で執務

1477年、守護被官・五井兵庫が須須神社の神田押領事件で神主が府中に赴き守護法廷に訴え。審理するほど守護代として実質的執務官でした

3
大法師
畠山義総の家臣
七尾を訪れた冷泉為和に和歌を師事

4
秀倫
越後上杉氏との交渉にあたる
茶の湯をよくし名物の茶器所有

5
秀頼
温井との抗争に破れた遊佐続光に加担

6
宗円
温井との抗争で、温井に味方
領国指導権握った
畠山七人衆の一人

7
続光
畠山七人衆の一人
領国支配権を握ったが、温井、三宅、長ら畠山家臣から越中国に追われた

畠山義則追放
畠山義慶毒殺

1577年七尾城の戦いで、敵の上杉軍に内応し、長続連を殺害。上杉に降って能登の実権を完全に我が物とした

1578年上杉謙信没後、織田軍が能登に攻め込んで来ると、信長に降伏したが、信長は長一族を殺した罪を許さず処刑

8
盛光
続光の子
かつて上杉についたことを許されず、斬首

9
長員
温井、三宅、上杉景員らと石動山に登り、荒山城に籠った。前田利家の援軍・佐久間盛政と、前田軍に討ちとられた

端境期・能登畠山3代当主・畠山義統が七尾城鎮台として松波城を築く

2021-06-11 14:08:42 | 日記
■能登国は守護畠山氏が経営
守護代遊佐氏が基盤作りをしていった

若山荘の経営にも介在したかったが、室町幕府に影響が強い日野氏が領家だった(領主は九条家)。日野氏を怒らすと、能登畠山氏の権力低下につながる。若山荘は畠山氏の領地経営に厄介だった

■応仁の乱で劇的な変化が起きる
能登畠山氏は将軍・足利義政ではなく、足利義視に味方をし、将軍家と対立した。ということで若山荘領家・日野氏とも対立する

■1475年、畠山義統の三男義智が、若山荘・日野氏の影響力低下に狙いを定め、珠洲郡南端・松波城に入り、松波氏の名跡を継ぎ松波畠山氏となる。所領1万4千石

■最初の松波城主は、日野氏と被官関係後、養子縁組みした日野松波氏だ。日野松波氏は応仁の乱後、能登畠山氏が下剋上して領主化するにあたり、日野氏から畠山氏へ鞍替えをはかった。

■松波城は能登畠山氏が急速に整備拡大した

城前方・多喜尾川

城東北・滝波川

城西方・丘陵が起伏連結

丹頂鶴が巣籠っていた巣籠りの松

中央・本丸

本丸南端・義智隠居地・嘉尚閣

西北の山・殿旭鶴館

その西北麓・二代義成寵妾・貴美局
の塀が並ぶ(現・坪根)

東南の丘・若殿の学問所・鳳祥斎
別名・音川亭

雁鯉池

千利休の愛亭を移築した
茶室「一竿亭」

庭園は室町様式の枯山水を配している

一帯に海を眼下に見渡し、空気澄んだ日は立山連邦望み、眺望絶景の地・景勝台と称された







畠山義智入部の際、名古屋から多数の刀工を招いて鍛冶町に置き、刀剣製作に従事させた。多喜尾川の船を利用した

最後の松波畠山当主・松波義親は能登畠山当主・義綱の3男。養子に入った。妻は京都公家烏丸家息女
京文化が浸透した



能登守護の下剋上

2021-06-11 10:00:33 | 日記
■能登守護
●吉見氏
政変で失脚
13世紀の中頃、源範頼の孫、吉見為頼とその次男頼宗以下の兄弟たちが能登に下向。本家武蔵吉見氏廃絶のため、能登吉見氏が吉見一族の惣領家となる
口能登に進出し、公領荘園を侵略し、土着勢力と姻戚関係を結び勢力拡大していく
若山荘に拠する山方氏を討滅した

能登国人日野家被官(後に足利義満親衛隊)の本庄氏と対立し、吉見氏守護解任され衰退
一部の吉見一族は能登に残った
吉見家貞、家仲父子は正院内に所領有し、能登畠山氏の家臣となる

本庄宗成
統治失敗

●畠山氏

1・義深

2・基国

3・満慶
家臣・遊佐氏が守護代として府中[七尾]に住み能登を実質支配

4・義忠
文化に関心深く、幕府和歌会列席

5・義有
文化大名、岩清水八幡宮に和歌百種奉納、北野社で歌会を行う
一揆鎮圧途上で陣没

6・義統
応仁の乱で畠山義就(西軍)支持
応仁の乱終わると能登に帰国
在国守護大名として権力強化

一向一揆で富樫氏支援
一向一揆の黒幕は細川政元
畠山一族の勢力削減図る

応仁の乱で荒廃した京都から多くの文化人が能登に下向

7・慶致
義統二男

8・義元
義統嫡男
1497年に家督を継ぐが、統率力なく、1500年に弟慶致を擁立しようとする守護代遊佐統秀らに謀反を起こされた

1506年に内部で義元復帰望む動き

1508年10代将軍足利義稙復権したことで義元陣営巻き返す
慶致隠居、義元当主に復帰
慶致嫡男・義総を養子とし、二元政治開始

9・義総
一向一揆鎮圧
七尾城建設
戦乱を逃れ下向してきた公家、文化人、商人、手工業者を手厚く保護






10・義続
1550年、重臣・遊佐続光、温井総貞の権力争いのため七尾城一部焼失
遊佐氏は破れ越前へ逃げる
隠居

11・義綱
重臣・温井は城主をないがしろにするので暗殺する
遊佐氏許される

大名専制支配を確立するが、長続連、遊佐続光ら重臣によってクーデターを起こし、義続・義綱親子は国外追放
重臣によって、孫・畠山義慶を擁立

12・畠山義慶
急死

13・畠山義隆
急死

14・畠山春王丸
長続連実権を握る
上杉勢に七尾城が取り囲まれた時、疾病にて5歳で死去











乱世でも人々の天皇を尊ぶ気持ちは変わらない

2021-06-11 08:28:06 | 日記
戦いに明け暮れた100年だったが
日本はようやく統一に動き出す
少数の力の強い大名だけがそれぞれ領国を固めて、天下統一のために争うようになる

有力大名は京都へ上った
全国の大名を押さえるためには、天皇の権威を借りるのが近道だった
天皇の地位を利用したのは、天皇を尊ぶ気持ちが人々の心に根強くあるからだ

織田信長が最初に京都へ上ることに成功した。足利義昭が信長に助けを求めてくると信長は義昭を将軍に立て、義昭のもとで実権を握った
衰えた天皇の権威を戻すため、皇室の領地を取り戻し、皇居の修理に務めた

ところが義昭は信長の力をねたみ、近江の浅井氏、越前の朝倉氏、延暦寺、石山本願寺と結び信長を除こうとした
信長は比叡山を焼き払い、義昭を京都から追放し、室町幕府を滅ぼした

信長は甲斐の武田勝頼を、三千丁の鉄砲を使い、三河の長篠で破る

石山本願寺は毛利氏と結んで各地で一向一揆が盛んだった。信長は本願寺と10年間戦い降参させた
信長が延暦寺や本願寺を弾圧したのは、それらの仏教勢力が、日本統一事業に敵対したのを憎んだから
キリスト教を保護したのも、仏教勢力に対抗させるため

1582年、毛利氏を討つため京都の本能寺に泊まっていた時に、明智光秀に襲われ自害した



1 斎藤道三は能登国出身だった

2021-06-11 07:53:29 | 日記
1
松波氏・本庄氏・山方氏・久能利氏は能登若山荘開発した開発領主
松波氏は松波川河口に拠点を持つ

2
若山荘領家日野家と被官関係を結ぶ

3
鎌倉期、日野頼宣(能登若山荘領家)の子忠俊が、松波氏の始祖とする
忠俊は松波氏一族で、頼宣の養子となった

4
若山荘領家庶流松波氏は室町時代後期以降、日野家の青侍として、四位、五位の官位を代々得ていた

5
1472年、笠志大明神造営の棟札に
松波左衛門尉藤原親実

1524年、八幡宮造立棟札に
藤原朝臣斎藤中務 孝親(花押)

♦️室町中期から戦国中期
松波氏一族は、藤原斎藤と称して
親を通字とした

♦️斎藤道三は初め松波勝九郎と称し、日野家庶流松波氏の一族だった

♦️「男式部少輔忠光(頼宣)、日野法界寺別当となり、浄俊と称す。別所の傍に松並木あるをもって松並と号し、後、松波に改む

【その八代孫勝九郎光政(新九郎)、故ありて斎藤山城守秀竜入道道三と称す】」

6
室町幕府の権力に支えられていた日野氏も応仁の乱以後、その権威は地方に及ばなくなった
土地有力者が下剋上で領主化するにあたり、日野被官は能登守護の畠山へ鞍替えを計る、また日野松波氏は松波畠山氏への系図を考え、まず能登守護有力家臣長氏と縁組みをした

長氏系図・長英連の項
【畠山修理大夫吉続剃髪後、家督を続連に譲る。室は畠山庶流従五以下、松波常陸介常重(義重)女】

♦️いつの間にか日野家庶流から畠山庶流になった