るるの日記

なんでも書きます

能登の荘園は応仁の乱まで公家が支配していたが、、

2021-06-09 16:37:07 | 日記
■貴族や、大きな寺や、地方の豪族は財力にまかせ私有地を広げた。これを荘園という。荘園は政府に届けて私有地と認められた。不愉・不入の権も設定したので、納税の義務なく、役人も立ち入れなかった

地方農民や地方豪族は、開墾地を、不愉・不入の権をもつ貴族や、大きな寺に名目上寄進し、実際は開墾地での経営は続け、収穫の一部をお礼にさしだしていた。その方がお得だった

■11世紀頃、能登国司・源俊兼は、珠洲郡のほとんどの土地を私有地とした。その土地を子の季兼(すえかね)に伝領

■河川流域で郡司や郷司らが、国衙の援助を得て開発。開発領はまたまた能登国司・季兼の元へ寄せられた。でもそれは「公田確保のため」という目的で、旧来の公田を加え、ちゃんといったん【公領】とした
500町の若山荘

■1143年季兼は、能登国司を退任するにあたり、公領を突然私領化。
なんで突然、私領化できたかというと、背景に【鳥羽院政期荘園増大計画】があったから

季兼は、その荘園増大計画にそうように、本心は国衙介入を斥け、荘園保持を確実なものにするために、崇徳上皇の后・皇嘉門院(藤原聖子)の権勢を頼り、名目上の寄進をした

そして旧来からの【知行権は季兼のもとに、預職という形でそのまま留保(領家)】【領主(本家)は皇嘉門院】という関係ができあがる
これで、下級貴族の私領から、皇室領となり、誰にも手が出せなくなった

かしこい❗️

■領主権は、皇嘉門院(藤原聖子)の異母弟の九条兼実の息子であり、皇嘉門院の養子である
九条良通へ
九条兼実娘であり後鳥羽天皇后である宣秋門院任子へ
九条兼実孫
九条道家へ
九条道家孫
九条忠家へ

戦国時代終わり前田利家が支配するくらいまで九条家の領主続く

■領家は
源俊兼
源季兼
季兼の娘が
藤原資長と結婚したからか
藤原資長へ
藤原兼光
日野だけど父は藤原兼光
日野資実(日野家若山荘支配初見)
1197年法住寺住職要請うけて、日野家の祈祷所と定めた
日野家光
日野資宣
積極的荘園経営
日野俊光
日野資名
日野時光
娘、孫娘が将軍足利義満の室となってから、9代義尚まで日野家の女が将軍の室となったため勢力をはる

時光が本家役を押領。九条家は日野家の領家職を没収。時光は将軍の口ききや、叔父賢俊の裏工作で領家職は返還された
日野資教
娘・称光天皇の妃
1425年出家
1427年足利義時と日野家の確執で、室町殿より追放
所領没収
弟・日野秀光、所領を継いだが、同時に能登守護畠山満慶が1200文で若山荘の代官職を請負う。実働は守護代・遊佐氏

秀光、若山荘を守護不入の地に設定し、日野家直接支配を再開
その3日後、1432年急逝。実子なし
遊佐氏何かしたか❓️
広橋中納言嫡子・春龍丸8歳
将軍の計らいで秀光の子と定められ若山荘を相伝。1432年9月11日急逝
遊佐氏何かしたか❓️
諸氏に分割譲与
1461年、日野資教の流れの
日野勝光に伝領
祖父は1434年に暗殺され、父は所領没収され出家した
遊佐氏何かしたか❓️

勝光は6歳で家督相続
【以外と苦労人】
妹は足利義政正室・日野富子
娘は足利義尚夫人

常に格式もって下級の日野家に対処してきた九条家が屈辱的姿勢とった書状を送る
1467年 応仁の乱
1469年 日野勝光の書状以後、若山荘に関する資料皆無
1476年日野勝光死去

以上








「大仏を民衆のもつ信仰で建てよう」と呼びかけるが、地方民にとっては「天皇って誰?」だったんじゃ?

2021-06-09 14:07:02 | 日記
■歴代の天皇は仏教を保護し、仏教信仰は【貴族たち】の心に深く根をおろした
奈良時代の仏教とは、国の大事なときに熱心に祈る護国仏教だった

■聖武天皇は24歳で皇位につくまで、藤原不比等の屋敷に育てられ、16歳のとき、不比等の娘と結婚した。この人が光明皇后で、天皇に劣らず信仰心が篤い人。天皇が国分寺や東大寺を建てたのは皇后のすすめによるもの

■聖武天皇の時代は、乱、疫病、飢饉があいついで起こったので、741年、天皇は全国に国分寺や国分尼寺を建てさせ、仏法によって禍を除こうとした

■国司に任せた国分寺造営の事業は、思うように進まなかった

743年、聖武天皇は天下万民に協力を呼びかけ、民衆のもつ信仰の力で大仏を作ることを考えた。そして東大寺建立事業を起こした

745年、大仏造りが始まり、天皇皇后も土を運んで大仏の座をつき固めた
天皇の呼びかけに応えて、5万人が材木を、37万人が金属を寄進した。地方豪族は、米、銭、車、牛を献上。資材を運んだ役夫は材木が167万人、金属が51万人

【能登では、国司・大伴家持が着任地を巡行。人民に苗を強制的に貸しつけ、秋に30~50%の利稲をつけての返済が義務づけられた。

🤔それは国司名義の大仏造営の寄進となったのか?人民名義の寄進となったのか?
当時の地方民は天皇の命令と言われても「それ誰?」とピンとこないから、国司が巡行して強制的に貸付けを行ったのかと思う】

大仏鋳造にあたった技術者は、渡来人の子孫である仏師の国中公麻呂、鋳物師の高市大国など民間から起用された

749年、大仏は八度の鋳造で完成。ついで蓮座の鋳造が行われた。完成直前に陸奥国から黄金が届き、天皇を喜ばせた

752年、大仏の完成を祝う開眼の儀式が盛大に行われた

こうして奈良仏教は人々を疲れさせた

日本の真ん中・近畿

2021-06-09 13:02:50 | 日記


■平城京
日本の人口・600万人程
平城京の人口・20万人
役人・1万人
僧侶・数千人
男・16万人
女・4万人

■地方
国・58
国から都への道は七道
七道には16キロごと駅置く
駅には馬が用意

道は国司や、国司の政治を見張る役人が通り国々に向かう

畿内に通じる重な道には関所
特に大切なのは三関
★鈴鹿関(三重)
★不破関(岐阜)
★愛発関(福井)
都で事件が起きると関所は閉じた

■薩摩隼人
鹿児島県あたりには隼人よばれるひとたちが住んでいた。大和朝廷の仕組みに加わらず、別の社会を作っていた
713年、朝廷は隼人の地域にも律令制を実施しようとしたが、隼人の抵抗は激しく反乱を起こした
720年には、朝廷は大伴旅人を将軍にして隼人を屈服させたが、律令制が実施されたのは800年以後

■東北地方の経営に力を入れ、多賀城、秋田城が築かれ、蝦夷には服属をすすめた

貴族の特権と収入

2021-06-09 12:25:00 | 日記
大化の改新前の豪族は、ほとんど役人となり、位を授けられていた

五位以上と六位以下では大きな差があり、六位以下では年二回の俸禄では生活が苦しかった

五位以上は貴族とよばれ、禄の他に土地を与えられた

三位以上は禄にかわって位封【税を納める義務のある家100~300戸】が与えられた

大臣、大納言、中納言、国司、郡司には、さらに土地【職田】が与えられた

貴族は罪を犯しても、一段階罰は軽い

課税は免除

五位以上親の子、三位以上祖父の孫は、一定の官位を授けられた

壬申の乱で、朝廷に対して謀反をした人は大海人皇子(天武天皇)

2021-06-09 12:07:00 | 日記
■667年都を近江に移す
668年天智天皇即位
弟・大海人皇子を朝廷の首席に置く

■子・大友皇子が最高の官職、太政大臣についたので、大海人皇子は身の危険を感じ出家し吉野の山奥へ

■671年天智天皇崩御
大友皇子が即位し弘文天皇となる

■672年、弘文天皇と大海人皇子の間で争いが起こる【壬申の乱】
弘文天皇側が破れ自害
大津の宮は焼けおちた

♦️大友皇子は長い間、朝廷に謀反をした人と扱われていた。徳川光圀の【大日本史】には

「大友皇子は実際に即位したのに、天武天皇(大海人皇子)の立場を正統化するために【日本書紀】には、大友皇子が即位しなかったように書き改めた」と主張

明治時代になってこの説を取り上げ、明治天皇によって弘文天皇(在位8ヶ月)の名が、大友皇子におくられ、歴代の天皇の仲間入りをした