■貴族や、大きな寺や、地方の豪族は財力にまかせ私有地を広げた。これを荘園という。荘園は政府に届けて私有地と認められた。不愉・不入の権も設定したので、納税の義務なく、役人も立ち入れなかった
地方農民や地方豪族は、開墾地を、不愉・不入の権をもつ貴族や、大きな寺に名目上寄進し、実際は開墾地での経営は続け、収穫の一部をお礼にさしだしていた。その方がお得だった
■11世紀頃、能登国司・源俊兼は、珠洲郡のほとんどの土地を私有地とした。その土地を子の季兼(すえかね)に伝領
■河川流域で郡司や郷司らが、国衙の援助を得て開発。開発領はまたまた能登国司・季兼の元へ寄せられた。でもそれは「公田確保のため」という目的で、旧来の公田を加え、ちゃんといったん【公領】とした
500町の若山荘
■1143年季兼は、能登国司を退任するにあたり、公領を突然私領化。
なんで突然、私領化できたかというと、背景に【鳥羽院政期荘園増大計画】があったから
季兼は、その荘園増大計画にそうように、本心は国衙介入を斥け、荘園保持を確実なものにするために、崇徳上皇の后・皇嘉門院(藤原聖子)の権勢を頼り、名目上の寄進をした
そして旧来からの【知行権は季兼のもとに、預職という形でそのまま留保(領家)】【領主(本家)は皇嘉門院】という関係ができあがる
これで、下級貴族の私領から、皇室領となり、誰にも手が出せなくなった
かしこい❗️
■領主権は、皇嘉門院(藤原聖子)の異母弟の九条兼実の息子であり、皇嘉門院の養子である
九条良通へ
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九条兼実娘であり後鳥羽天皇后である宣秋門院任子へ
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九条兼実孫
九条道家へ
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九条道家孫
九条忠家へ
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戦国時代終わり前田利家が支配するくらいまで九条家の領主続く
■領家は
源俊兼
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源季兼
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季兼の娘が
藤原資長と結婚したからか
藤原資長へ
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藤原兼光
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日野だけど父は藤原兼光
日野資実(日野家若山荘支配初見)
1197年法住寺住職要請うけて、日野家の祈祷所と定めた
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日野家光
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日野資宣
積極的荘園経営
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日野俊光
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日野資名
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日野時光
娘、孫娘が将軍足利義満の室となってから、9代義尚まで日野家の女が将軍の室となったため勢力をはる
時光が本家役を押領。九条家は日野家の領家職を没収。時光は将軍の口ききや、叔父賢俊の裏工作で領家職は返還された
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日野資教
娘・称光天皇の妃
1425年出家
1427年足利義時と日野家の確執で、室町殿より追放
所領没収
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弟・日野秀光、所領を継いだが、同時に能登守護畠山満慶が1200文で若山荘の代官職を請負う。実働は守護代・遊佐氏
秀光、若山荘を守護不入の地に設定し、日野家直接支配を再開
その3日後、1432年急逝。実子なし
遊佐氏何かしたか❓️
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広橋中納言嫡子・春龍丸8歳
将軍の計らいで秀光の子と定められ若山荘を相伝。1432年9月11日急逝
遊佐氏何かしたか❓️
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諸氏に分割譲与
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1461年、日野資教の流れの
日野勝光に伝領
祖父は1434年に暗殺され、父は所領没収され出家した
遊佐氏何かしたか❓️
勝光は6歳で家督相続
【以外と苦労人】
妹は足利義政正室・日野富子
娘は足利義尚夫人
常に格式もって下級の日野家に対処してきた九条家が屈辱的姿勢とった書状を送る
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1467年 応仁の乱
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1469年 日野勝光の書状以後、若山荘に関する資料皆無
1476年日野勝光死去
以上