るるの日記

なんでも書きます

もう1人の自分とは社会人としての自分。社会人としての自分は主観に批判的

2021-06-22 18:19:03 | 日記
■感性は2つある
※主観的感性と、
※自分の中のもう1人の自分の感性(直観)
直観という第二の感性の働きは、主観が客観化される

客観化とは、主観でとらえた直感を、自覚的にとらえ直すこと。つまり、何を直感したかを、はっきりとらえ直すこと。次にそのとらえた主観を反省、批判すること

♦️自分の中のもう1人の自分の感性とは何か?
それは個体としての自分に対する、個体以上のものとしての自分

♦️個体以上のものとしての自分とは何か?
それは社会人の自分

人間は社会をつくる特性がある。社会とは単なる群れや集団ではなく、システムと文化を持った共同体であり、そうゆう社会があって私たちは生きていける。けっして個として生きているわけではない

当然そこには、2つの自分が形成され、感性も2つに分かれる
個体としての感性
社会人としての感性
もう1人の自分とは、自分の中の社会人としての感性

それが、個体としての直感や主観に対して、社会人の観点から自覚的、反省的、批判的に働く。つまり客観化という形で働く
だから直感でなく直観
それが、自分の中のもう1人の自分の意味であり、直観の意味である




感受性と感性はべつもの

2021-06-22 15:33:50 | 日記
■感性の母胎は感受性だが
感性は感性
感受性は感受性と
はっきり区別をしましょう

■感性の直感と、感受性の直感は違う
感性の直感は、判断としての直感
感受性の直感は、身体の内外から与えられる刺激を直感的にキャッチする直感

■現代の心理学では、感性と感受性と同じものとして扱っているから、感性とは、刺激→反応に従って動く感受性にすぎない、という。だから感性をセンスといわないで、センシビリティといっている
心理学で、反応は実験観察の対象になるが、認識や判断は、実験観察の対象にはならない。だから感性の働きを科学的に認めることができないらしい
といっても、直感すべてを反応で片づけるのも、どうかと思う。やはり、感性は感性、感受性は感受性て、はっきり分けなければならない

■感受性の働きは反応かもしれないが、感性の働きは物事の認識、判断であって、そこには単なる反応を越えた高いレベルの感性独自の働きがあるはずだ

■感性は感受性から生まれる
感受性が刺激という形で受けとる情報を、判断し認識する力が感性。だから感性は単なる反応ではない
だから感性をセンスという
センスとは感知、探知を意味する
感性とは、生命と身体の探知機である

■感受性はアンテナのようなもの。刺激に対する鋭敏性を持った受信システムである。その感度が問題となる

■感性は受信機
感受性はアンテナ
その働きは別

感性は感受性によってとらえた外界情報を、生命と身体の関わりで【見分け】【身分け】る直感としての認識、判断力である。感性は区別のセンスである



理性疲れから理性を敵視し、喜んで魔性に取り憑かれていった

2021-06-22 15:00:48 | 日記
なぜ、戦前の日本人が、ひどい魔性の世界に落ち込んだか?
それは、戦前の日本人が
【理性疲れ】を起こしたからだ

感性は認識の主人
理性はその世話人
その原理が成り立つのは、感性の相手である理性が、日本的理性である場合に限られる

理性が
外国製のもの
日本人の思考と生活の両面での慣習とかけ離れた異質なもの
同時に高度なもの
である場合には、理性と感性のバランスのとれた関係は働かない
感性との間に、必ず摩擦や軋轢を生ずることになる

明治の近代化以後の日本人にとっての理性とは、まさにそのような外国製の理性であった。それはきわめて強烈な理性であって、そのような理性が、もともとひ弱な日本的感性への世話人としては、しっくりいくわけはない
逆に感性の弱い日本人が、鉄の玉のごとく、重苦しい理性を必死でかついで歩かねばならない、ということになった

大正という軽やかな時代の後は締め付けが来る。今度は理性による締め付けでなく、軍部と天皇イデオロギーによる締め付け。ひ弱い日本的感性が、この魔性によって一網打尽にされた。魔性に取り憑かれた時代の始まりである

こうなると、理性疲れから、理性そのものを、日本人にふさわしくないものとして敵視し、怨念の眼で理性を見るようになった
感性主義

なぜ日本人は魔性に取り憑かれたか?

2021-06-22 14:29:25 | 日記
魔性とは何か?

それは狂気や愚かさを突き抜けて

物事を見る目、物事を分別する感性が、魔物に取り憑かれてしまったということである

♦️魔性の属性
★部分と全体との関係がわからなくなる(部分主義)

★特殊と普遍の感性がわからなくなる(特殊主義)

★差異の裏の同一性見えなくなる。同一性の裏の差異が見えなくなる
(強制的画一主義)

★ものに対する極端な物神崇拝と聖霊信仰(人間軽視)

★グロテスクを美とする病的な美意識(エロ・グロ主義)

★リアリティを失って幻想に走る
(ドンキホーテ型)

♦️戦前・戦中の日本では、庶民が魔性に取り憑かれたのならともかく、政府、軍人両面の指導者層、エリート層が一斉に魔性に取り憑かれてしまった

同じファシズムでも、ドイツやイタリアの場合はヒットラーとかムッソリーニといった超独裁者がいて、世の人々は、その独裁者に引っ張られやむなく魔性に取り憑かれた。

日本の場合はそんな独裁者は存在しなかった。にもかかわらず、日本の大半が魔性に取り憑かれたということは、日本人の感性そのものが、魔性に取り憑かれやすかったのか?魔性のつけ入る隙があったのか?

一人一人の感性がひ弱であると、人々は付和雷同しやすい。バスの方向がどちらに向いているかにおかまいなく、「バスに乗り遅れる」ことを恐れるようになる
群集心理とは脆くて弱い感性の産物である



やり手

2021-06-22 14:06:20 | 日記
人は、「やり手」を、ひとかどのリーダーと勘違いしがちだ

「やり手」とは、めはしがきいて、することなすこと抜け目なく、何でも自分でガンガンやる。一見頭もよく、ファイト満々に見える人
こうゆう人は、仕事師や勝負師には向いてもリーダーにはなれない

やり手は、自分の利口さに酔い、人を信用しない。だから自分で何でも思ったとおりにやろうとする。だからやり方が目先主義で、目的のために手段を選ばない。やり口が何とも汚くてえげつない

というのが、やり手のやり口に見られる共通した特徴

だから、やり手は一時的には成功しても、長い間には必ずボロが出る。栄光から奈落へ一直線

リーダーの感性も問題だか
リーダーを求める側の感性も問題だということである