るるの日記

なんでも書きます

征韓論を巡り対立・領土の範囲の決定

2021-06-15 16:24:43 | 日記
■国内政治が安定したので、1871年11月、岩倉具視、大久保利通、木戸孝允、伊藤博文らはアメリカ、ヨーロッパの視察旅行に出かけた。一行は日本の近代化が遅れていることを痛感し帰国

留守を預かっていた西郷隆盛、板垣退助、江藤新平、後藤象二郎、副島種臣らの間で、李氏朝鮮を討とうとする考えが起こった。鎖国していた朝鮮を武力を用いてまで開国させようとしたのだ
熱心な征韓論者の西郷隆盛が朝鮮へ渡ることが決まって間もなく、岩倉一行は帰国した

岩倉、大久保らは、征韓論そのものには反対ではなかったが、今は国内の政治を整える方が先だとして西郷らに反対。西郷は譲らず両派はまっこうから対立した。結局征韓論派は退き政府の実権は大久保が握ることになった

■明治政府ははっきりしない領土の範囲を、関係国との間で決定することが必要だった

★北方領土については、1854年の日露和親条約で、樺太は両国の雑居地となり、千島列島はエトロフ、ウルップの両島間を国境と決めていたが、争いが絶えず1875年に千島列島、樺太交換条約を結んで、樺太をロシア領とし、千島列島を日本の領土とした

★琉球は、薩摩藩と清国両方に従っていたが、廃藩置県のとき、鹿児島県にくりいれた。清はこれを認めず、琉球王・尚泰も日本に抵抗したので、軍事力で押さえ、1879年沖縄県として日本領にした

★小笠原群島は、16世紀に日本人が発見した島で、アメリカと領有を争っていたが、1876年、日本の主権が承認された

最後まで戦わなかった徳川慶喜

2021-06-15 15:58:47 | 日記
■第二次長州征伐が中止された1866年の暮れ、幕府は前水戸藩主徳川斉昭の子で一橋家を継いでいた慶喜を第十五代将軍に迎えた。慶喜は幕政の改革にのり出した。これは幕府の体制を強化しようという最後の試みだった

■同盟を結んでいた薩長両藩は、天皇から武力倒幕の許しを得ようとしていたところ、1867年、孝明天皇が崩御し、明治天皇が16歳で皇位に就くと、倒幕派はついに10月、公家・岩倉具視の仲立ちで倒幕の密勅を入手した

■これより先、山内容堂らが武力倒幕に反対し、後藤象二郎、坂本龍馬の意見をいれ、政権を朝廷に返すように徳川慶喜に勧めた。慶喜は、倒幕の密勅が下る気配を察し、その勧めをいれて、同日、大政奉還した
幕府は政権をいったん朝廷に返し、新しく作られる政府の中で、徳川家の勢力を保っていこうとした

■あくまでも、幕府の権力を一掃しようとした岩倉具視、西郷隆盛、大久保利通らは武力を背景に12月9日、幕府の廃止を宣言し、王政復古の大号令を発した。それは天皇を中心の新しい政府を組織することを宣言したものだった
徳川慶喜は官職を奪われ、領地の返納を命じられ、ここに徳川幕府は倒れ、約700年に渡る武家政治は終わりを告げた

■徳川家に思いを寄せる旧幕府の家来、会津藩や桑名藩など幕府支持者は薩長の強引なやり方にいきり立った

★1869年1月1日、大阪城にいた旧幕府側の兵は、京に向かう。新政府軍はこれを鳥羽・伏見で討ち破った

★新政府軍は江戸へ進軍。江戸に帰っていた慶喜は、江戸城を出て、上野の寛永寺にこもり、朝廷に対する恭順の意を表した

★新政府軍は江戸城攻撃を計画していたが、幕臣の勝海舟と、新政府軍の参謀西郷隆盛の話し合いの結果、血を流すことなく江戸城は明け渡された

★しかし、あくまでも戦う立場をとった、一部の幕府支持者は彰義隊をつくって上野にたてこもり、また会津藩を中心とする東北諸藩も根強く反抗した

★これらの勢力が破れた後も、函館の五稜郭には、旧幕府軍がたてこもり、榎本武揚を総裁として、独立した共和政府を作ろうとした

■このような旧幕府軍の抵抗は約1年半も続いたが、1869年ついに五稜郭にたてこもっていた榎本武揚らも降伏し、新政府が日本全国を支配することになった

薩長同盟をとりもった坂本龍馬

2021-06-15 15:14:24 | 日記
■薩摩藩は最初は幕府を助けながら、薩摩藩の発言力を強めることに務めていたが、幕府では日本を新しく強力にすることは望めないことがハッキリすると、幕府を見かぎり、薩摩藩の富国強兵に務めた
そしてかつて対立していた長州藩と接近

■このような薩摩藩と長州藩の動きを見ていた土佐藩の坂本龍馬は、倒幕派の両藩を結びつけて、強力な勢力にしようと、その間をとりもち
「今までの行きがかりを捨て、今こそ両藩は力を合わせるべきだ」
と説いた
こうして1866年1月薩長同盟成立

♦️坂本龍馬
1835年、高知城下の酒造家に生まれた。1862年26歳で藩を抜け出て、幕府の開国論者である勝海舟の門に入り、政治的見識を養った

1865年、薩摩藩の援助をうけて、【社中】を長崎に創り、海運業や、諸藩と外国商人の仲介を行った。社中は土佐藩から公認され【海援隊】となった

第二回長州征伐をひかえ、長州藩の武器や汽船購入の希望を知ると、薩長との間をとりもって、イギリス商人グラバーから、薩摩藩名義で長州藩に武器を購入させた。これが薩長同盟のきっかけとなった

1867年6月、土佐藩士・後藤象二郎と、海路京都に向かった。その途中で筆をとり、まとめたのが「船中八策」。その要旨は、政権を朝廷に返すことや、上下の義政局を設けて万機公論に決するなど、八項目からなっていた

これは明治維新の改革の大綱ともいうべきもので後藤象二郎によってさらに練られ、前土佐藩主・山内容堂から幕府への大政奉還の勧めとなった

1867年11月、大政奉還の1ヶ月後、維新の改革を見ることなく、京都で幕吏に暗殺された





■1866年6月幕府は、第二次長州征伐が開始した。すでに薩長同盟が成立していたので、薩摩藩は出兵に応じないばかりが、長州藩へ武器を送り届けた
こうした中、大阪城にいた将軍家茂が病気のため、21歳の生涯を閉じた。幕府はその喪に服することを理由に、第二次長州征伐を中止した

京都から長州藩の一掃

2021-06-15 14:34:41 | 日記
■【攘夷実行不可能】【国力充実優先】【開国】という決意はまだ、一部指導者の心の決意にすぎず、士気の上がっていた尊王攘夷派は、天皇を奈良に迎えて、兵をあげる計画を立てた

この動きに対して、薩摩藩内部の公武合体派は、朝廷内部の公武合体派を動かし、京都警備の会津藩とも結んで、長州藩の尊王攘夷派を朝廷から一掃し、主導権を回復しようとした
1863年8月18日、公武合体派は、長州藩兵を京都から追放し、天皇の奈良行幸を中止させた。今まで朝廷を意のままに操っていた長州藩士の勢力は一夜にして追い払われ、尊王攘夷派の公卿は長州藩に落ち延びた

■1864年、京都における尊王攘夷派の勢力を盛り返そうとした長州藩士らと、薩摩藩士、会津藩士らが、蛤御門で戦い、宮中の門に砲撃を加えた長州藩はその罪によって、朝敵になった。幕府は目の敵である長州藩を潰そうと、8月、討伐軍をおこした

■長州藩は下関砲撃の惨敗によって、尊王攘夷派が退き、保守派が台頭していて、蛤御門の責任者として、三家老を切腹させ、尊王攘夷派を一掃し、幕府に謝罪の意を示した
こうして一戦も交えることなく、第一回長州征伐は終わった

■その後長州藩では、高杉晋作ら率いる奇兵隊・尊王攘夷派と、保守派が争い、尊王攘夷派が勝利し、再び藩政の実権を握り、幕府に対してもいざというとき戦える実力を養うことに務めた

長州藩VSイギリス、アメリカ、フランス、オランダの連合艦隊

2021-06-15 14:00:52 | 日記
■老中・安藤信正は、尊王攘夷運動の火の手を消し止めるために、公武合体し、朝廷と幕府が協力して、内政、外交の困難な局面を切り抜けようと、将軍夫人に孝明天皇の妹・15歳の和宮を迎えた

尊王攘夷派は、「神聖なる天皇にまで手を伸ばして干渉する、ふとどきなこと」と、かえって憤り、安藤信正は、坂下門外で浪士の不意打ちにあい、傷つく

■長州藩は、朝廷を動かして、幕府に攘夷の実行を迫ったので、幕府は「攘夷なんてできるはずがない」と知りながらも、実行を約束した

1863年5月長州藩は、下関海峡を通る外国船に対し攻撃を開始した。しかし、列強国は、まず長州藩を破ることによって、「攘夷は全く不可能」であることを思い知らせ、見せしめにした

1864年8月、イギリス、アメリカ、フランス、オランダの連合艦隊は下関を砲撃し、徹底的に打ち破り、砲台を占領した。長州藩は降参し、外国船の下関海峡の自由通過と軍費の賠償などを約束させられた

■こうして、長州藩の高杉晋作、桂小五郎、薩摩藩の西郷隆盛、大久保利通らは「攘夷実行不可能」ということを知った
そして国力の充実こそ急いでなすべきことだと、しみじみ悟り、それぞれがひそかに、今後の方針は開国にあると決意した