るるの日記

なんでも書きます

幕末・明治維新の混乱時代は明治天皇すり替えは普通にあり得る・血統なき背乗り。それも二重の。

2021-06-05 20:47:25 | 日記
明治天皇

■1852・11・3~1912・7・30
天皇在位(1867・1・30~1912)

孝明天皇第二皇子
生みの母・中山慶子(中山邸で出生)

■1856年宮中に転居・4歳
准皇后九条さんの実子とされる

■1864・7月19日・12歳
発泡しながら近づいてくる長州藩兵を、会津・桑名・薩摩連合軍が撃退
翌日夜、宮中に不審者300人以上侵入のパニックの中、親王が卒倒

長州藩に内通した嫌疑で外祖父中山に処分

■1867年1月30日(14歳)
孝明天皇崩御
14歳で皇位につく

■1868年12月28日(15歳)
一条好子を皇后に

4月
五ヶ条の御誓文
(これは新政府の基本方針)

♦️明治天皇すりかえ説
■土佐藩出身・田中光顕の告白
明治天皇は後醍醐天皇の11番目の皇子・満良親王の子孫。長州を治めた毛利氏により守られた【1850年生まれ・大室寅之祐】

薩長同盟が成功した根本理由は、桂小五郎が「南朝の御正系をお立てして王政復古をする」を西郷隆盛に打ち明けたところ、西郷隆盛が南朝の忠臣・菊地氏の子孫であったことから賛同した

■二人の天皇が並ぶ南北朝時代
大室寅之祐の父は海賊の作蔵

1
作蔵は吉左衛門の養子となる
1846年20歳となった作蔵は、寺の娘スヘと結婚(スヘは浄土真宗大谷家の血筋)
1850年長男・虎吉生まれる

2
虎吉が4歳の時両親は離縁し、母スヘに引き取られる
母スヘは大室弥兵衛と再婚

3
1855年弥兵衛とスヘの間に寅之助が生まれるが一歳で早世。弥兵衛、子がないまま死去
大室家の血筋断絶になるので、寅吉は早世した異父弟・寅之助になりすます

4
高杉晋作が組織した奇兵隊に参加したことで寅之助になりすました虎吉が南朝末裔として注目

5
寅之助は伊藤博文とフルベッチの所に生き写真にうつる
即位後の明治天皇に似ている


えー背乗りやん
それも二重の




明治3年、4年、6年、7年の出来事

2021-06-05 19:48:02 | 日記
♦️明治3年
■1月3日
※神道国教化の詔
※京都・土御門家が代々担当してきた天体観測暦作成事業を大学に移す

■4月23日
宣教師心得書を定め、皇道主義に基づいて国民教化をする

★天津
キリスト教会焼討、フランス領事ら殺害される

★信州・松本藩
廃仏運動により領民を神道に改宗

■平民、苗字使用許可

■岩崎弥太郎、九十九商会設立(三菱商会)

■一万石につき5人の徴兵規則

♦️明治4年
■戸籍法が定まる。えた、廃止しすべて平民に

♦️明治6年
■キリスト教黙認
■皇后お歯黒、まゆ墨落とす
■天皇断髪

♦️明治7年
医療、服薬の妨害となる祈祷のとりしまり






遷都による人心の不安、恨み

2021-06-05 19:08:55 | 日記
東京遷都

■まず、大阪行幸を発表
これが遷都につながると考えた公家、宮中、京都市民から反対の声があがるが
1864年4月13日、天皇1655人のお伴を連れて京都出発
大阪本願寺津村別院を行在所とし40日間滞在する。そして江戸城は無血開城され、目的は江戸へ。一旦京都御所へ戻る

■薩摩藩洋学校教授・前島密による「江戸遷都論建白書」が大久保利通に届けられた

[内容]
【遷都しなくても衰退の心配のない大阪より、帝都にしなければ市民が離散して寂れてしまう江戸に遷都すべき】大久保利通は支持。反対派多し

5月24日
徳川氏が江戸から駿府70万石に移されることが決まる

6月19日
木戸孝文らが江戸が帝都に適しているかを調査(風水調査と呪詛されてないか?の調査か🤔)

7月7日
遷都可能報告

7月17日
「江戸を東京と為す」の詔書発せられる。天皇は日本を一つの家族として東西を同視することとなる

■8月27日
即位の礼

9月20日
京都出発。東京に行幸。お伴3300人

10月13日
江戸城着
その日のうちに皇居と定め、東京城と改称

10月17日
天皇が皇国一体、東西同視のもと政を自ら裁決することを宣言

■祭司を行うため京都へ戻ることになる。東京人に不安を与えぬよう、本丸跡に宮殿造営を発表した

★三条という人の意見
【今すぐ戻れば関東の人心を失う
天皇に数千年も親しく恵み受けてきた京都、大阪、の人々の動揺と、
徳川氏に300年恩恵を受けてきた関東の人々に恨み、失望を与えることの利害得失を比べてみると、関東の人心に京都、大阪の盛衰や、国の興廃がかかっている
よって、京都、大阪の人心を失っても、地勢に優れる東京を失わなければ、天下を失うことはない】

明治2年1月25日
東京へ再度行幸前
岩倉具視は「天皇の意向を知らずに、政府の意向の遷都である」と思っている者がいるため、京都大阪の人々の動揺が激しい

よって「関東は王化が行き届いていないため、新政を施すための再幸である」と十分にわからすための論令を出すことを求めた

■3月7日
翌年3月に京都に戻り、冬に大嘗祭を行うことにして(実際は東京で行った)三条らを従え再び東京へ行幸

28日
天皇東京城着
京都に留守宮設置

10月24日
皇后東京に移る
天皇は京都の人心の動揺を鎮めることに勤める

京都は御所を残し、明治4年までに京都留守、出張所が次々廃され消えていきました

明治1年その他の出来事・当時はこれが自由だったんです

2021-06-05 18:01:15 | 日記
★祭政一致制を復する

★キリシタン邪宗門禁令

★神仏判然令
仏語の神号、仏像を神体とすることを禁ずる。以後廃仏棄釈運動おこる

★江戸城開城。徳川慶喜は水戸へ退去

★長崎浦上キリシタンを弾圧。逮捕者4000人

★出版物無許可発行禁止

★上野彰義隊を新政府軍が攻撃。民家等1200戸焼失

★江戸を東京と改称

★天皇が東京に入り、江戸城を皇居と定める

★東北諸藩の処分決定



北越戦争で信頼回復したい加賀藩

2021-06-05 17:47:18 | 日記
新政府軍は東征軍を組織し東海道、東山道、北陸道に分かれて進軍した

★北陸道指揮官
山県有朋・黒田清隆

長岡藩は大政奉還後も徳川家を指示し、最新兵器を購入していた。長岡藩の軍事総督は河井継之助

新政府軍が長岡に近い小干谷に陣営を敷くと、河合は腹心・鬼頭に小隊を与え新政府を監視させ、その動きを封じた
その後、旧幕府・新政府の調停を申し出ることにした

会津藩は長岡藩に奥羽列藩同盟の参加を申し入れてきたが、河合は拒んだ

河合は長岡への侵攻中止のため、新政府軍総督と小干谷の慈眼寺で会談
決裂
長岡藩は奥羽列藩同盟に参加
これにより長岡藩と新政府軍の間に戦端が開かれた

♦️加賀藩の動き
4月5日
前田土佐守(前田利家二男の家系)が、北越出兵軍指揮を命じられた

15日
朝廷から北越への出兵命令下る
すでに越中に駐屯していた加賀藩兵が越後に進発

19日
越後高田に入る。薩長軍と共に柏崎青梅川へ

27日
越後鯨波にて初戦闘
戦死者5人
重傷者12人

5月5日
赤田村にて敵軍300撃破

14日
信濃川中洲に砲台を築き長岡城を砲撃

16日
長岡城占領戦始まる

19日
長岡城落城

25日
長岡城奪還される

29日
長岡城を再奪還する

8月1日
金沢に勝利の凱旋

出兵数・7600人
戦死者・106人

11月2日
加賀藩主は北越戦争戦死者を祀るため、卯辰山において招魂祭施工

♦️北越戦争顛末記
この年の正月二日、京都詰めの加賀藩士・北川は徳川慶喜から大阪に招かれ、藩主・前田に宛てた手紙を渡されました。手紙は薩摩藩などに対抗するための協力依頼の内容でした。藩主・前田は徳川支援のための近江出兵を決めました

しかし6日、京都詰めの家老は朝廷からの詰問に対し明確な勤皇論を展開していたのです。なぜなら幕府側劣勢は在京している家老の目に明らかだったからです

金沢城にいる藩主は
幕府の援軍要請
朝廷の藩主上洛命令
そのはざまで、明確な態度を決めかねていました

上方から明確な情報がもたらされると、勤皇決定

1月14日
藩主は藩士に、朝廷が幕府討伐に至った理由を説明

15日
鳥羽・伏見の戦いでの、幕府援軍帰還命令を出す

当初はこのような日和見的態度だったため朝廷の信用を得られず、単に東征のための兵糧、人馬、金などの準備のみを命じられるのみとなっていたのです

そして、北越戦争にて汚名返上の出兵となったのです。しかし、、戦い終わってみれば、藩・領民の財政的貧窮を招きましたとさ

なんでー💧