るるの日記

なんでも書きます

韓国併合

2021-06-16 15:54:41 | 日記
現在、小学舘学習百科事典
日本と世界の歴史を読んでいる。韓国併合の項では、反日の人が書いたような文章でした




♦️韓国併合
★日露戦争開戦直後、日本は韓国に日韓議定書を渡した。それは【日本が韓国の独立と領土を守る。そのかわりに日本は必要な時にいつでも、韓国内を軍事的に使用できる】というもの

★ついで日本は、第一次日韓協約を結んで、韓国の外交と財産を奪う

★1905年(明治38)第二次日韓協約で、日本は韓国を保護国とした

★ソウルには、統監府が置かれて、伊藤博文が初代統監になった

■伊藤博文暗殺
1907年、韓国の国王・高宗は、万国平和会議に日本の侵略を訴えた。これを知った伊藤博文は韓国での政治権を奪った上、高宗をやめさせ、韓国軍隊を解散させた

このため韓国の民衆と一部の軍隊が各地で立ちあがり、日本軍や警察に対して、激しい抵抗運動を起こした
日本は二万の軍隊を派遣して、反抗を押さえた

運動がおさまった1909年、伊藤博文は、満州視察途中、ハルビン駅頭で、日本の侵略に反対する朝鮮人に暗殺された

■次の統監になった寺内正毅は、韓国警察を日本の憲兵隊の支配下に置いた
1910年8月、日本は韓国併合の条約を結ばせ、韓国の統治権は日本の天皇が持つことになり、韓国は朝鮮と呼ばれて日本の植民地の1つとなった
ソウルの韓国時には、総督府と改められ、日本は第二次世界大戦の敗戦まで、朝鮮を支配した

■日本は朝鮮を大陸進出の足場として支配し、さらに食料を確保する基地に作り替えようとした。その第一歩として、土地調査という名目のもとに、朝鮮の人々から土地をとりあげた。多くの農民が餓えに苦しむようなり、日本や朝鮮国外へ流れて行き、その先々で最低に近い暮らしを送るようになった

■日本は朝鮮半島に各種工場を建設し、ひどい労働条件で朝鮮人をこきつかった。その上、朝鮮語や朝鮮名のかわりに、強制的に日本語や日本名を使わせ、民族意識をなくさせようとした。このことは逆に朝鮮人の人々の民族心を目ざめさせ、時には半日大暴動を引き起こした

日露戦争での軍事費17億。借金8億。ロシアからは賠償金なし。どーすんのこれ?

2021-06-16 15:05:32 | 日記
■日清戦争後、日本とロシアは互いに朝鮮半島への進出をねらっていた。朝鮮政府内でも、親日派と親ロシア派が対立していた

■1895年(明治28
日本は、軍隊を朝鮮王宮に乱入させて、反日親ロシア派の閔妃を殺した
1896年、国王・高宗は、ロシアの援助で親日派を追放した

■1901年
ロシアは清国に対して、満州に軍隊を置くことを認めさせ、清国と同盟を結んだ

■1902年
日本はイギリスと日英同盟を結び、これを後ろ楯にして、ロシアと戦争をする決意を固めた。と同時に、ロシアの軍事力をおそれ、ロシアに対して、朝鮮と満州の利権を分けあおうという交渉も進めていたが、ロシアは交渉中であっても、東清鉄道を完成させ、極東艦隊を強力にし、旅順などの陽西を固めていたので、日本は戦争してでも、朝鮮を手に入れようと考えるようになった

■日本は、ロシアが日本の朝鮮支配を認めないと返答してきたので、ロシアとの戦争に突入

★1904年2月8日
日本海軍は朝鮮の仁川に兵を上陸させると共に、仁川港のロシア軍艦を奇襲。宣戦の詔勅が出されたのは、それから2日後。ロシア軍が準備不足のため、日本軍は勝ち進んだ

★秋から冬にかけ日本軍は2つの会戦に勝ったが、決定的な勝利ではない
★旅順港にいたロシアの極東艦隊は、パルチック艦隊が来てから日本海軍と戦おうとしていた。日本軍はパルチック艦隊が来る前に極東艦隊を全滅させようと旅順を攻撃
1905年1月、8ヶ月の戦いの末、旅順のロシア軍は降伏。しかし日本軍は13万人の将兵のうち、6万人の死傷者を出した

★1905年3月
奉天にて
日本軍25万
ロシア軍32万
最大規模の会戦。7日間に渡る激戦の末、ロシア軍は退却を始めた。日本軍も弾丸が尽きて、予備の兵力もなく、追撃する力はなかったが、列強諸国はロシアが苦戦しているのを認めるようになった

★1905年5月27日
対馬海峡を抜けようとするパルチック艦隊を、日本の東郷司令官長指揮する連合艦隊が迎え討った。パルチック艦隊38隻のうち、逃げられたのは2隻だけだった
日本海海戦で、日本海軍はロシア海軍に決定的な打撃を与えた

■三井、三菱はじめ武器、弾薬を作って軍隊におさめた大資本家たちは大きな利益を得ていた

一方で、働き盛りの男たちが、召集され、その数はのべ108万人にも達した。一家の父を失った家庭は悲惨だった。国民の生活は、戦費をまかなうための増税につぐ増税と、物価高で苦しくなっていった

■政府は資金に困り、イギリスとアメリカに財政援助を頼んでいた。17億円にのぼる軍事費のうち、8億円も外国に借金していて、もうそれ以上借りることは不可能

戦場では、兵隊や物資が不足し、日本海海戦の生利を、終戦のきっかけとしたかった。ロシアはまだ強大な兵力を持っていたが、ロシア国内では革命運動が高まり、日本との戦争よりも、革命勢力を押さえる方が、重大となる

■1905年8月、アメリカ大統領ルーズベルトの斡旋で、日露講和会議が、アメリカのポーツマスで開かれた
ロシアは敗戦を認めず、領土を譲るのを拒み、賠償金を払わないという態度
日本は賠償金をあきらめ、ロシアも南樺太を日本に譲ることで妥協

9月5日、講和成立、ポーツマス条約が調印
最終的に日本が得たのは
※南樺太
※南満州鉄道
※鉱山
※旅順、大連の租借権
※朝鮮での政治・経済・軍事の利権

■国民はポーツマス条約の内容に憤慨した。重税や苦しい生活も、多額の賠償金や、広い領土が入るということで我慢していたのだ。新聞、雑誌は政府の弱腰を激しく非難した



富める資本家のブラック企業で働く惨めな労働者

2021-06-16 13:55:24 | 日記
■日清戦争で得た、約3億6千万の賠償金は、大部分が軍備拡張費用に使われた

1901年、政府は北九州に八幡製鉄所を作った
民間の重工業の中心は造船だった。三菱長崎造船所や川崎造船は大型船を作るようになったが、民間の重工業よりも、官営軍事工業がはるかにさかんだった。1900年頃の重工業は、労働者の5割、動力の7割までが官営軍事工業だった

■回漕業をしていた岩崎弥太郎は、1874年に政府から13隻の船を譲り受けてから、政府の保護のもと、三菱を大海運会社に成長させた
1887年には、長崎造船所の払い下げを受け、重工業にも手を出した

第一銀行を設立した三井も、政府の他にを受け、貿易会社の三井物産をつくり、三池鉱産の払い下げを受けた

こうして、明治政府の保護のもとに、政商は、次々に官営施設の払い下げを受け、小企業を圧倒していくのである

■1895年、日本には、758の銀行があったが、資本金50万円以上のものは25行だけで、残りは小銀行だった。小銀行の貸し出した額は、預金額を上回り1900年、不景気になると、大銀行は小銀行を合併していった

政府と手を結んで成長した
第一
三井
三菱
住友
安田
五大銀行は、やがて日本経済を左右する財閥に成長していく

■資本主義発達とともに、資本家はますます富み、労働者はみじめになった
1897年には各地でストライキが起こり、資本家と労働者側が衝突した
こうした中、労働運動と社会主義思想とが結びついていて、社会民主党が結成したが

政府は治安警察法をしいて、労働運動の弾圧にのりだしたので、社会民主党は1日で解散させられた

■賃金を求めて農村から都市に出て日雇い労働者や、工事労働者として安い賃金で働かされていた者がいた

★紡績工場で働いている女工は、生活が苦しいため、給料を前借りするという形で身売りされてきた、13歳から24歳までの貧農の娘たちである

労働時間は昼夜2交代の12時間。時には連続19時間も働かされた。
食事のために1回、30分程の休憩時間が与えられた。(食事は、里芋の煮ころがし6コ、蓮根1切れ、沢庵4切れ)
1分でも遅刻すると罰金をとられ、油まみれの衣服を着て、1日中立ち仕事
寄宿舎は畳一枚に一人の割合
せんべい布団1枚しか与えられない

★鉱山労働はもっとも危険な仕事だった。三池炭鉱では、1日平均2.5人の死者を出した。貧農の青年たちは、募集人のたくみな言葉で、鉱山に送られたが、鉱山には重労働が待っていた。能率が下がると、リンチが加えられた




日清戦争後、次の敵国はロシアと定め、国民に敵国ロシアへの復讐心を叩きこんだ

2021-06-16 12:53:43 | 日記
■日清戦争開戦前
1894年(明治27)
日本は日清共同で朝鮮の政治改革をしようと、清国に提案したが、清国が拒否したため、日本が独自に朝鮮政府に改革を迫り、清国軍の撤兵を求め、清国との開戦の口実を作った

7月25日
日本海軍は豊島沖で清国艦隊を奇襲し、運送船などを撃沈。日本陸軍はその後、牙山などを占領

8月1日
宣戦布告され、正式に日清戦争が始まった

■日本は、朝鮮の清国軍を追い払うことと、制海権を握ることを目標に作戦をたてた

陸では
9月15日
平壌の戦い開始。日本軍はようやく平壌を占領

海では
9月17日
黄海の海戦で、清国の北洋艦隊を破り、制海権を握った

日本軍はヤールー川を渡って満州に攻めこみ、旅順と大連を落とし、さらに山東半島のウエイハイウエイも占領

■1895年1月
清国・李鴻章は講和の使いを送ってきた

■1894年10月から日清両国を調停しようとするイギリス、アメリカの動きがあったが、日本は清国との直接交渉を要求し、清国は李鴻章、日本は伊藤博文、陸奥宗光が交渉

■1895年3月20日
下関で講和会議
交渉を重ねた末、4月17日下関条約調印

※日本は清国に、朝鮮の完全独立を認めさせ、朝鮮に干渉しないこと

※清国は遼東半島、台湾、ボンフー島を日本に譲り、賠償金を払うこと

※揚子江沿岸の重慶など、4つの港を開港すること

※日本人が清国で工業を興すこと

を認めさせた

■しかし、ロシア、ドイツ、フランスから日本に横やりが入った
[三国干渉]
「日本が遼東半島を領有することは、清国の首都・北京に対して脅威を与え、東洋の平和を乱すから、遼東半島を清国に返すべきだ」
と、日本政府に抗議してきた

この干渉の中心国はロシア
ロシアはシベリアから南下して、冬でも凍らない港を求めていたから、日本に遼東半島を握られることは、南下政策の大きな障害となるのだ

日本は三国と戦う力はない。日本は、代償金4500万円と引き換えに遼東半島を清国に返した
その後遼東半島は、ロシアの租借地となった

日本国民は三国干渉に怒り、政府の外交を攻め、政府はロシアを敵国と定め、軍事力の強化に走り、国民にロシアへの復讐心を叩き込んだ


台湾出兵・日朝修好条規・壬午軍乱・甲申政変・天津条約・農民戦争

2021-06-16 12:07:58 | 日記
■台湾出兵
1874年(明治7)大久保利通は、台湾への出兵を強行した。これは藩閥政治に対する、不平士族や国民の非難をそらし、目を他に向けさせるためだった

出兵の口実は、1871年に琉球島民が台湾に漂着した時、台湾の住民に殺され、清国政府がその責任をとらなかった、というもの

清国は、日本の出兵に激しく抗議したので、大久保利通が北京に渡って、清国と交渉し、協定を成立させた。
[協定内容]
日本は清国に、「日本の出兵は正義の行動」であることを認めさせ、清国に賠償金の支払いを約束させた

■日朝修好条規
鎖国制度をとっていた朝鮮半島に、日本は欧米より先に勢力をのばそうとした

1875年9月
日本は、朝鮮半島の西海岸に軍艦を進めて測量するなど、朝鮮を刺激し、朝鮮の江華島砲台から砲撃を受けた

1876年2月
日本政府はこれを口実に、6せきの艦隊を送って開国を迫り、朝鮮に日朝修好条規を交わした

この条規で、
※日本は、清国の朝鮮に対する政治を管理する権利を否定
※日本の朝鮮での治外法権を認めさせた
※関税自主権を奪った

日本は、自国が押しつけられていた、不平等条約を、今度は朝鮮に押しつけた

■壬午軍乱
1882年朝鮮のソウルで、反乱が起きた。兵士や民衆が王宮に乱入したり、日本の公使館を焼き討ちした。この反乱の背後には、国王の妃・閔一族の追放を狙う国王の父・大院君がいて兵士や民衆を動かし、反乱の直接原因は、日本の商人が米や大豆を買い占め、人々の生活を混乱させたためだった

日本は朝鮮に50万円の賠償金の要求と、公使館に守備兵を置くことを認めさせた

■甲申政変
閔氏一族は、清国を頼った
朝鮮政府内部には、日本と結んで独立しようとする、朴泳孝・金玉均らの開化派がつくられ、閔氏一族守旧派と対立

1884年、日本の軍隊に守られて開化派がクーデターをおこしたが、守旧派が清国に救いを求めたため、日本軍は清軍に破れ、クーデター失敗
朴泳孝・金玉均らは日本に亡命した

1885年
日本は朝鮮に賠償金を求めた

■天津条約
その後も、日清両軍は対立したままだったので、伊藤博文は清国に行き、李鴻章と天津条約を結んだ
この条約で、日清両国は、同時にソウルから兵を引き上げ、朝鮮へ出兵する時は、互いに通知しあうことを決めた

■朝鮮の政権をもつ守旧派は、条約後も清国を頼ったので、日本は朝鮮との貿易も、清国に抜かれそうになり、日清両国の対立は深刻になる

■1894年、朝鮮で東学を信仰する農民中心に、反乱が起きた。反乱は各地に広がった
農民の反乱鎮圧のため、朝鮮政府は清国に援助を求めた

清国の出兵を知った日本政府は直ちに軍隊を朝鮮に送った。農民の反乱は間もなく押さえられた