るるの日記

なんでも書きます

人間が動物より生きづらい理由

2021-06-24 16:37:04 | 日記
人間と動物の違い

★環境
動物は一定の環境があって、その中でのみ生きられる。その環境がないと生きられない

人間はいろいろな環境の中でも生きられるようになっている。このことは人間に有利な条件にみえ、反面非常な不安にさらされている

どんな環境でも生きれるが、そのために、その場その場で考え工夫しなければならないということ。その考えや工夫が不適切であればたちまちアウトになりかねない。常に不意打ちの危険にさらされている

★認識
動物は、見分けの力を一定環境の中で、直感的に働かせるだけで身の安全は保障される

人間はそう簡単にはいかない。認識の相手が特定の環境ではなく、周囲という漠然とした世界なので、動物のよう簡単にはいかず、複雑微妙になってくる

★完成度
動物はそれぞれ完成している
特定の環境に生きるために個体が特殊化されている

人間は常に未完成の動物
特定の環境なく、さ迷う動物だから、人間の姿、機能を特定の形に固定させ、完成させておくわけにはいかない

♦️以上3つが人間と動物の違い。このことは人間としてすばらしいこと。と同時にきわめて厳しく心細いこと。人間は動物と違って、生きていくことに、二重三重に頭を、気を使わなければならない。嫌でも慎重にならざるを得ないように仕向けられている



♦️生きるために必要な交流の場♦️

2021-06-24 16:06:48 | 日記
■社会とは人間の自由な交流の場であるという時の【交流】だ。交流によって物事に対する私たちの認識や判断が修正され、交流によって人間一人一人が自己形成されていく
そのために交流は、自分と他人との交流だけでなく、自分の中のもう一人の自分との交流(主観と客観)が必要であり、もう一人の自分(客観)は社会的身体を持った社会人としての自分でなければならない。。。。

そして、交流にはもっと深い意味がある

♦️交流なしに人間は生きていけない
自己形成どころか、人間の存在の根本、生き死にに関わる問題としての交流がある
生きていくための交流とは、単に助けあうということではない。生きていくための場をつくることが、交流の最大の目的である

社会があるから交流があるのではなく、生きるための場をつくるために交流の必要があるから、そこに社会ができる

なぜ、そうなのか?
なぜ、社会なのか?
動物は交流だの、社会づくりだの厄介なことをしないでも生きていけるように出来ている
人間だけが、生きるために交流や社会づくりを必要とする

それはなぜか?



社会は全体ではない

2021-06-24 15:43:46 | 日記
社会を集団、労働の場、あるいはそれらを支配し管理するための制度だと考えると、社会は全体ということになりやすく、そうゆうイメージが強くなると、人は反動的に個として生きることの方がいいと考えるようになる。個が全体に飲み込まれては、個の自由が失われる、という

社会は全体ではなく、私たち人間が生きるために必要な場であるということになると、個主義は成り立たなくなる
個と全体の問題は、社会と人間の間には関わりがない

昔から社会をめぐって、全体か個かで議論が堂々巡りしがちなのは、社会を集団や制度と同一視する、誤った社会観に原因がある

社会は、利害関係のない交流ができる場

2021-06-24 15:28:13 | 日記
■社会とは、私たちが人間としての生活を営む場の一つ

★生活を営む場
※個人としての生活の場
※集団としての生活の場
※労働を前提の生活の場
※人と人とが広く自由に【交流】しあうことによって成り立っ生活の場

★集団、労働の場の交流は、集団の利害や労働の利害がからんでいて、本来の交流ではなく【関係】

※集団の場での交流
保護と被保護、支配と被支配という関係の交流

※労働の場での交流
目的と手段の関係。生産関係としての交流

※社会での交流
利害関係を抜きにした交流
街の中で人が行き来する
人と人が出会う
利害抜きに挨拶したりおしゃべりする

♦️利害関係から離れた自由な交通とコミュニケーションが交流、そうゆう交流によって成り立つ生活の場が、社会
社会をソサイエティ(交わりの場)というのはそのため

♦️集団や労働の場は、人間を生かすための場でしかないのに対して、社会は私たちを人間的に生かす場

♦️私たちは生きるために「がんばって」いる。それに対して生きることも大切だが、人間として生きることがより大切であることを教えてくれるのが社会
生き方でなく、人間としてのあり方を教えてくれるのが社会
交流には大きな教育的意味がある

♦️教育は、集団内や労働の場でもなされるが、そこでの教育は利害関係を優先するため甘くなりがち
社会での教育は、利害関係が絡んでいないため、より厳しい。人々は不愉快なことには遠慮なく手厳しい反応を示す。その反応の手厳しさが人間としてどうあるべきかを否応なしに反省させ、考えさせるのである



釈迦は悟った瞬間、自身の主観の客観化もしていたのかな?

2021-06-24 14:50:55 | 日記
■観性は心の眼
この心の眼を拓くために
昔の人はいろいろ修行をした
とくに東洋では観性をどのように拓くかを実践的な角度からとりあげられてきたため、昔から今日にいたるまでいろいろな形での修行が盛んだ

ヨガ
仙術を目指す修行
菩薩、覚者を目指す仏教修行
ユートピアを目指す道教修行
俗界の芸事修行

東洋の世界は宗教も芸事も、心眼を拓くための大小さまざまな修行で一杯だ
またその修行は、心の修行だけに留まらず、身体的な修行である
観性が身体的なものであることを昔の人は直観していたわけだ。だが、ヨガ、座禅、芸事など修行で、観性が拓かれるかというと必ずしもそうではない

■東洋の観性修行には大きな欠陥がある。それは修行中、社会の認識や配慮に欠けていること

観性とは社会と深く関わっている、社会の眼である。にも関わらずその肝心の社会が、観性修行の中でシャットアウトされている。これではいくら修行しても、またそれによって心の眼が拓かれたとしても、観性が拓かれたとはいえない

■修行により新たに拓かれたその眼は、いずれもマクロ・ミクロの世界に向かって拓かれているのであって、社会に向かって拓かれているということにはならない。世界は世界、社会は社会で別なのである。マクロ・ミクロに問わず世界観は大事だが、同時に大事なのは社会観である

■【社会観】とは、私たちの主観を客観化させてから、認識判断させ、個や社会の両面に対して、バランスをとり安定せしめるため働く、社会的観性としての心の眼である

社会観として心の眼が拓かれないと、人間はこの世で、安全に幸せに生きていくことができない

■世界観
私たちがこの世で安全に幸せに生きていくことと直接関係がない
世界観とは、個の側から見ての世界の認識、世界に対する個としての自分のあり方の認識問題であって、それだけでは、現実の生きた観性にはつながらない

世界観そのものが観性否定の産物。すなわち観性を殺すことによって、今まで見えなかった世界が見えてくる。それが世界観
世界は認識の対象であっても、観性強化の契機にはなりえない。「世界を直視することをもって悟る」といっていることに、修行の何たるかが示されている。観性強化の契機になり得るのは、世界でなく社会なのである
東洋流の観性修行論は、肝心の社会を欠落されている

■個体の主観の修行によって、新たな世界をとらえた、といっても、それが正しい認識であるかは何ともいえない。認識そのものが果たして認識なのか、そのへんも客観化されていない以上何ともいえない。悟性は騙されやすい

■人々の眼が個体の心の中だけに閉じこもらないで、社会に向かって開かれるようになればいい。そのためには2つのことについて考え直すことが必要。なぜならこの2つのことについて考え直してはじめて、心の眼を社会に向けようという気になるからである
その2つとは

★社会

★気分