■観性は心の眼
この心の眼を拓くために
昔の人はいろいろ修行をした
とくに東洋では観性をどのように拓くかを実践的な角度からとりあげられてきたため、昔から今日にいたるまでいろいろな形での修行が盛んだ
ヨガ
仙術を目指す修行
菩薩、覚者を目指す仏教修行
ユートピアを目指す道教修行
俗界の芸事修行
東洋の世界は宗教も芸事も、心眼を拓くための大小さまざまな修行で一杯だ
またその修行は、心の修行だけに留まらず、身体的な修行である
観性が身体的なものであることを昔の人は直観していたわけだ。だが、ヨガ、座禅、芸事など修行で、観性が拓かれるかというと必ずしもそうではない
■東洋の観性修行には大きな欠陥がある。それは修行中、社会の認識や配慮に欠けていること
観性とは社会と深く関わっている、社会の眼である。にも関わらずその肝心の社会が、観性修行の中でシャットアウトされている。これではいくら修行しても、またそれによって心の眼が拓かれたとしても、観性が拓かれたとはいえない
■修行により新たに拓かれたその眼は、いずれもマクロ・ミクロの世界に向かって拓かれているのであって、社会に向かって拓かれているということにはならない。世界は世界、社会は社会で別なのである。マクロ・ミクロに問わず世界観は大事だが、同時に大事なのは社会観である
■【社会観】とは、私たちの主観を客観化させてから、認識判断させ、個や社会の両面に対して、バランスをとり安定せしめるため働く、社会的観性としての心の眼である
社会観として心の眼が拓かれないと、人間はこの世で、安全に幸せに生きていくことができない
■世界観
私たちがこの世で安全に幸せに生きていくことと直接関係がない
世界観とは、個の側から見ての世界の認識、世界に対する個としての自分のあり方の認識問題であって、それだけでは、現実の生きた観性にはつながらない
世界観そのものが観性否定の産物。すなわち観性を殺すことによって、今まで見えなかった世界が見えてくる。それが世界観
世界は認識の対象であっても、観性強化の契機にはなりえない。「世界を直視することをもって悟る」といっていることに、修行の何たるかが示されている。観性強化の契機になり得るのは、世界でなく社会なのである
東洋流の観性修行論は、肝心の社会を欠落されている
■個体の主観の修行によって、新たな世界をとらえた、といっても、それが正しい認識であるかは何ともいえない。認識そのものが果たして認識なのか、そのへんも客観化されていない以上何ともいえない。悟性は騙されやすい
■人々の眼が個体の心の中だけに閉じこもらないで、社会に向かって開かれるようになればいい。そのためには2つのことについて考え直すことが必要。なぜならこの2つのことについて考え直してはじめて、心の眼を社会に向けようという気になるからである
その2つとは
★社会
★気分