♦️日野富子♦️
8代将軍・足利義政の正室
9代将軍・義尚の母
能登若山荘領家・日野勝光は兄
■1459年第一子を生むがその日のうちに夭折。富子は義政の乳母が呪いをかけたとし流罪。義政の側室4人を追放
■応仁の乱では、東西両軍の大名に多額の金銭を貸し付け、米の投機を行う。一時60億の資産があった
■京都七口に関所を設置。目的は内裏修復費や諸祭礼費。だったはずだが、全額富子の懐に入っていた。民衆や公家は怒り、関所を破壊。富子は逆ギレし財産を守るため民衆を弾圧
■息子義尚は酒色に溺れ25歳で没
翌年、夫・義政没落
♦️高階栄子【丹後局】♦️
■後白河法皇側近である平業房の妻。数人子を生む
子の一人は日野資実(能登若山荘領家)の母
高階栄子は祖母
■清盛によって後白河法皇が幽閉された時、業房も流罪になる。業房は脱走しようとしたため処刑された
業房の妻、高階栄子も幽閉されたが、、たちまち後白河法皇の寵愛を受けた。1181年皇女を生む
同年清盛死去
高階栄子は政治に介入
楊貴妃のような有様
安徳天皇廃し、新たな天皇を擁立する時、後鳥羽天皇を立てるよう進言
■平氏滅亡後、1186年から源頼朝の顔役となり、大江広元と何度も交渉
■後白河法皇崩御のため出家
後白河法皇遺言
※山科所領を高階栄子に
※長講堂所領を、高階と法皇の娘の宣陽門院にそれぞれ相続
■九条兼実(能登若山荘領主)が権勢を誇っていたが、反兼実派の土御門通親と高階栄子は手を組んで九条兼実を失脚させた
【九条兼実は厳格過ぎて周囲から疎まれていたし、厳格な兼実は高階栄子が大嫌いだった
頼朝は娘大姫入内のため高階栄子に接近したことで、兼実への支援を打ち切る
後鳥羽天皇と対立、大半の貴族からも見きりをつけられ、関白の地位を追われた。法然を師として出家】
■朝廷の実権は若年の後鳥羽天皇に代わって、高階栄子と土御門通親が掌握
■1202年、土御門通親死去。後鳥羽上皇は本格的に院政を開始
高階栄子の威信は急速に失墜
朝廷から去り、亡き夫業房の所領にあった浄土寺に住んだ