るるの日記

なんでも書きます

能登若山荘領家・日野家に関係する女・日野富子と高階栄子

2021-06-10 16:09:28 | 日記
♦️日野富子♦️
8代将軍・足利義政の正室
9代将軍・義尚の母
能登若山荘領家・日野勝光は兄

■1459年第一子を生むがその日のうちに夭折。富子は義政の乳母が呪いをかけたとし流罪。義政の側室4人を追放

■応仁の乱では、東西両軍の大名に多額の金銭を貸し付け、米の投機を行う。一時60億の資産があった

■京都七口に関所を設置。目的は内裏修復費や諸祭礼費。だったはずだが、全額富子の懐に入っていた。民衆や公家は怒り、関所を破壊。富子は逆ギレし財産を守るため民衆を弾圧

■息子義尚は酒色に溺れ25歳で没
翌年、夫・義政没落

♦️高階栄子【丹後局】♦️
■後白河法皇側近である平業房の妻。数人子を生む

子の一人は日野資実(能登若山荘領家)の母
高階栄子は祖母

■清盛によって後白河法皇が幽閉された時、業房も流罪になる。業房は脱走しようとしたため処刑された

業房の妻、高階栄子も幽閉されたが、、たちまち後白河法皇の寵愛を受けた。1181年皇女を生む
同年清盛死去
高階栄子は政治に介入
楊貴妃のような有様

安徳天皇廃し、新たな天皇を擁立する時、後鳥羽天皇を立てるよう進言

■平氏滅亡後、1186年から源頼朝の顔役となり、大江広元と何度も交渉

■後白河法皇崩御のため出家
後白河法皇遺言
※山科所領を高階栄子に
※長講堂所領を、高階と法皇の娘の宣陽門院にそれぞれ相続

■九条兼実(能登若山荘領主)が権勢を誇っていたが、反兼実派の土御門通親と高階栄子は手を組んで九条兼実を失脚させた

【九条兼実は厳格過ぎて周囲から疎まれていたし、厳格な兼実は高階栄子が大嫌いだった

頼朝は娘大姫入内のため高階栄子に接近したことで、兼実への支援を打ち切る

後鳥羽天皇と対立、大半の貴族からも見きりをつけられ、関白の地位を追われた。法然を師として出家】

■朝廷の実権は若年の後鳥羽天皇に代わって、高階栄子と土御門通親が掌握

■1202年、土御門通親死去。後鳥羽上皇は本格的に院政を開始
高階栄子の威信は急速に失墜
朝廷から去り、亡き夫業房の所領にあった浄土寺に住んだ



応仁の乱の根本原因は日野富子

2021-06-10 14:48:19 | 日記
■1408年足利義満が亡くなってから、室町幕府の実権は弱まっていった

4代将軍・義持は、死の床で自分の跡継ぎを決めることができず、次の将軍を大名に任せてしまう有様

6代将軍・義教(よしのり)は4人兄弟の中から、なんと、くじ引きで決まった。最後は1441年に赤松満祐に騙され殺された

8代将軍・義政は、1459年~1461年にかけ多くの人が飢饉や疫病で死んだというのに、人びとの苦しみをよそに、御所の工事や寺詣りに熱中

■義政には男子が生まれず、弟の義視を後継ぎに決め、細川勝元が後見となったが、その翌年1465年、義政に男子誕生

義政夫人・日野富子は、息子の義尚を将軍にしたくて、後見人に山名宗全を決めた
こうして富子と義視の対立は、二大守護大名の細川と山名の対立に発展

■1467年、京都で畠山氏が一族の争いを始めた。それもすぐ細川・山名両氏の戦いに発展し全国の大名を巻き込んでいく。応仁の乱はこうして始まった。約30万人が京都市街戦を行ったので京都は焼け野原になった
しかし、この戦いはどちらが勝利を治めるところまではいかなかった

■1473年、山名宗全と細川勝元があいついで病気で亡くなると、自国へ帰る大名が増えた
残った畠山氏などが戦いをつづけていたが、1477年に兵をひきあげた。結局、応仁の乱は11年もつづいたあげく、うやむやのまま終わった

応仁の乱は終わったが、実力で上の者を倒す下剋上の世となり、戦乱はおさまらなかった

三代目・足利義満が南北朝統一させ争乱も落ち着くが、下剋上の予兆は始まっている

2021-06-10 14:13:12 | 日記
■1368年
足利義満は10歳で三代将軍となる。成人すると全国を回り幕府の権勢を示した
【能登・若山荘の領家は公家の日野時光。娘や孫娘が足利義満の室になってから、代々日野家の女が将軍の室になったので、戦乱まで若山荘は公家日野家が領家だった。(領主は公家の九条氏)】

1390年
義満、有力な守護大名・土岐氏を討つ
翌年、全国6分の1支配していた山名氏清を倒す

1392年
南朝の後亀山天皇は北朝の後小松天皇に三種の神器を譲り、南北朝合一。長い間続いた動乱もようやく鎮まる

■南北朝の60年の動乱がもたらしたもの

★荘園が武士によって侵略され荘園制が崩れた。そのため寺社や貴族の力は衰えた

★地方の守護大名がその土地の武士を家来にして領主にのしあがり、勢力を持つ

★農民の団結は強まり、反抗的に

★有力名主が武士化し、地侍になり、荘園を手に入れた

★領地を手に入れるため、武士同士が争う

南北朝の争乱のなか、地方は守護大名が支配

2021-06-10 13:36:44 | 日記
■足利尊氏は後醍醐天皇を京都の花山院に閉じ込め、光厳上皇の弟を光明天皇とした。しかし後醍醐天皇は50日程で京都を抜け出し吉野山へ入った。こうして京都と吉野に2つの朝廷が存在することになった
吉野の朝廷を南朝
京都の朝廷を北朝
朝廷は60年間分裂した(南北朝の時代)

■朝廷が2つに分裂してから、全国各地の武士たちが入り乱れて戦う動乱の時代となった。武士たちは権力と土地を求めて、利益のありそうな方についた

南朝方の主な武将はあいついで戦死。1339年、後醍醐天皇も崩御。南朝方は組織的な戦力を失った

■幕府側でも尊氏と、弟直義の争いをはじめとする揉め事がつづき、南朝方に味方する大名もあり、南朝方が京都を占領したこともあった

■争乱の中、農民は団結し始め、その農民をおさえることができた者が勢力を増していった
これが守護大名

■守護は国ごとに置かれ警察の役目や、御家人の指揮をする仕事をしていた。南北朝の動乱のなかで勢力を増した守護は、国司の仕事を含めた国全体の支配者になっていった

朝廷の役人が行うはずの地方政治は、守護でなくてはできなくなっていた

足利尊氏いざ出陣

2021-06-10 13:08:13 | 日記



■後醍醐天皇新政府では「尊氏無し」という言葉が生まれていた
倒幕の時、もっとも手柄のあった足利尊氏が、大きな役職につかなかったからだ
尊氏は新政府に不満持つ武士を集め勢力を強めていた
護良親王は尊氏を倒そうとしたが失敗し、鎌倉に送られた

■1335年
北条高時の子・時行が兵をあげ、鎌倉に攻め入った。尊氏の弟・直義は、時行に負け、護良親王を殺し鎌倉から逃げた

尊氏は天皇の許しを得ず直義の元に駆けつけ、20日ばかりで鎌倉を奪い返した。尊氏はそのまま鎌倉にとどまり朝廷に叛く様子を示した

■後醍醐天皇は新田義貞軍を派遣したが、尊氏はその軍を破り、京都へ攻め入り占領した。しかし尊氏は北畠顕家軍に敗れた

■尊氏は九州へ逃れ、たちまち九州の武士を従えて兵をあげた
1336年、楠木正成を戦死させ、新田義貞を追って京都に入り、後醍醐天皇をおさえて、政治の実権を握った