■天地分かれた
天は神のいる場所
■地、葦原中津国(地球)では
猿人から原人時代へ、氷河期、
海水面100メートル以上低くなり日本は大陸と陸続き。日本に象🐘いた
■最後の氷河期終わると海水が増え生き物はほとんど絶滅寸前だったが、生き残った原人はいた。日本海ができて、日本列島ができた
【イザナギとイザナミの二柱で日本国生み、神生み、イザナミ死んで黄泉の国へ、イザナギも黄泉の国へ行って、戻って来て海で禊しながら神生む】
■旧石器時代、新石器時代
【荒ぶる神のスサノオが先に天から降りて出雲へ、出雲の原人と戦い勝利し出雲を支配。子孫増日本全国に散らばる】
■縄文時代
【ニニギが天から降りて宮崎へ。宮崎原住民を支配し、子孫が増える】
■弥生時代
★邪馬台国女王卑弥呼いた(3世紀)
【ニニギ子孫が宮崎から各地を支配するため戦争しながら大和へ】
【出雲の国譲り】
【長髄彦と大和で戦う】
★邪馬台国も天皇に支配されたもよう、ヤマタイコクはヤマトか?
■朝鮮と交流(4世紀以降)
仏教伝来
蘇我氏
推古天皇
聖徳太子
■645年
大化政治(遣唐使や遣隋使が帰り、唐や隋の政治を真似る)
豪族が勝手に人民を支配していたが
豪族が持っていた土地・人民は国家のものとし、人民の戸籍を作り、これをもとに人民に田を与え、税を徴収。天皇は全ての土地人民を支配
日本を都・国・郡・里に区分した
豪族はそれまで地方の在地勢力で、連合政権。大王位巡る争いは軍事力で行われた
豪族は天皇に支配され、朝廷の官僚、政権中枢の貴族となる
663年 白村江の戦いで日本敗戦
668年 天智天皇即位
671年 天智天皇崩御
672年 壬申の乱
673年 天武天皇即位
686年 天武天皇崩御
690年 持統天皇即位
701年 藤原不比等大宝律令
(757年、大宝律令施行)
710年 平城京遷都
781年 桓武天皇即位
794年 奈良仏教の影響を避けるため平安京へ遷都(和気清麻呂のおすすめ)
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■神話時代から7世紀前半の能登★珠洲市若山は、若倭部に指定されていた。若倭部とは、若倭根子大毘毘命【開化天皇(紀元前208~28)】の名を伝えるための儀式の費用を貢納する義務を持つ
★越前、加賀、能登、越中、越後で一国だった【越国】、、広すぎ、、というか国という概念はなかったか
■7世紀後半
全国に【国郡制度】を引いた
越は、越前・越中・越後に分かれた
加賀・能登は【越前】
■701年
【郡司】が郡に置かれた
郡司は中央から派遣された国司の下で郡を治める地方官である。国司推薦の地方豪族から式部省が任命し、のちは任期はなく世襲性。伝統と権威と財を有している
■717年~723年
泰澄が修験道を開き、佐渡、飛騨、越後、越中、越前、加賀、能登を知行地とする
■718年
能登は越前国から分かれ【能登国】となる。中央権力を東北まで及ぼすための基地とするため
■741年
能登国が【越中国】に組み入れられる
奈良大仏や地方に国分寺建立によって財政難となり、国々の仕組みを小さくした
奈良仏教は人々を苦しめる
■749年
東大寺大仏作り資金集め
越中国・国司大伴家持が、春の税を課すため能登巡行。宮苗を強制的に貸付け、秋に30~50%の利稲つけての返済義務を課す
郎党、荷物を担ぐ人夫、遊行婦女(うかれめ)を従え巡行し、歌を読んだりした
■757年
再々度、【能登国】となる
東北地方の反乱、新羅に向けての出兵計画による防備固め
■764年
能登守・村田子老(こおゆ)
藤原仲麻呂の乱で一族が藤原側に組した理由で1ヶ月で解任
能登守・平群虫麻呂
藤原仲麻呂の乱で、孝謙天皇が組したらしく能登守に任ぜられる
■774年
能登守・多治比名負
3月~9月
能登守・巨勢馬主
■817~7年間
全国的に長年にわたって干害などで農業生産が不振。能登国も荒廃し乱れた
★徳ある役人
【能登守・春枝王(天武天皇後裔)】
※就任して3年ほどで復興。世が鎮まり安心を得た
※巡行の時の接待を簡素化し人民の負担を軽減してくれた
※朝廷に申請し、大興寺を能登国分寺とし、安居の講の際は春枝王も参加。梵唄の声が休むことなく続いた。
※843年臣籍降下の際は子供3人に高階真人の氏姓を与えられた