るるの日記

なんでも書きます

神代~平安京までの中央と能登のあゆみ

2021-06-07 15:45:20 | 日記
■天地分かれた
天は神のいる場所

■地、葦原中津国(地球)では
猿人から原人時代へ、氷河期、
海水面100メートル以上低くなり日本は大陸と陸続き。日本に象🐘いた

■最後の氷河期終わると海水が増え生き物はほとんど絶滅寸前だったが、生き残った原人はいた。日本海ができて、日本列島ができた

【イザナギとイザナミの二柱で日本国生み、神生み、イザナミ死んで黄泉の国へ、イザナギも黄泉の国へ行って、戻って来て海で禊しながら神生む】

■旧石器時代、新石器時代
【荒ぶる神のスサノオが先に天から降りて出雲へ、出雲の原人と戦い勝利し出雲を支配。子孫増日本全国に散らばる】

■縄文時代
【ニニギが天から降りて宮崎へ。宮崎原住民を支配し、子孫が増える】

■弥生時代
★邪馬台国女王卑弥呼いた(3世紀)
【ニニギ子孫が宮崎から各地を支配するため戦争しながら大和へ】
【出雲の国譲り】
【長髄彦と大和で戦う】
★邪馬台国も天皇に支配されたもよう、ヤマタイコクはヤマトか?

■朝鮮と交流(4世紀以降)
仏教伝来
蘇我氏
推古天皇
聖徳太子

■645年
大化政治(遣唐使や遣隋使が帰り、唐や隋の政治を真似る)
豪族が勝手に人民を支配していたが
豪族が持っていた土地・人民は国家のものとし、人民の戸籍を作り、これをもとに人民に田を与え、税を徴収。天皇は全ての土地人民を支配
日本を都・国・郡・里に区分した

豪族はそれまで地方の在地勢力で、連合政権。大王位巡る争いは軍事力で行われた
豪族は天皇に支配され、朝廷の官僚、政権中枢の貴族となる

663年 白村江の戦いで日本敗戦
668年 天智天皇即位
671年 天智天皇崩御
672年 壬申の乱
673年 天武天皇即位
686年 天武天皇崩御
690年 持統天皇即位
701年 藤原不比等大宝律令
(757年、大宝律令施行)
710年 平城京遷都
781年 桓武天皇即位
794年 奈良仏教の影響を避けるため平安京へ遷都(和気清麻呂のおすすめ)

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■神話時代から7世紀前半の能登
★珠洲市若山は、若倭部に指定されていた。若倭部とは、若倭根子大毘毘命【開化天皇(紀元前208~28)】の名を伝えるための儀式の費用を貢納する義務を持つ

★越前、加賀、能登、越中、越後で一国だった【越国】、、広すぎ、、というか国という概念はなかったか

■7世紀後半
全国に【国郡制度】を引いた
越は、越前・越中・越後に分かれた
加賀・能登は【越前】

■701年
【郡司】が郡に置かれた
郡司は中央から派遣された国司の下で郡を治める地方官である。国司推薦の地方豪族から式部省が任命し、のちは任期はなく世襲性。伝統と権威と財を有している

■717年~723年
泰澄が修験道を開き、佐渡、飛騨、越後、越中、越前、加賀、能登を知行地とする

■718年
能登は越前国から分かれ【能登国】となる。中央権力を東北まで及ぼすための基地とするため

■741年
能登国が【越中国】に組み入れられる
奈良大仏や地方に国分寺建立によって財政難となり、国々の仕組みを小さくした
奈良仏教は人々を苦しめる

■749年
東大寺大仏作り資金集め
越中国・国司大伴家持が、春の税を課すため能登巡行。宮苗を強制的に貸付け、秋に30~50%の利稲つけての返済義務を課す

郎党、荷物を担ぐ人夫、遊行婦女(うかれめ)を従え巡行し、歌を読んだりした

■757年
再々度、【能登国】となる
東北地方の反乱、新羅に向けての出兵計画による防備固め

■764年
能登守・村田子老(こおゆ)
藤原仲麻呂の乱で一族が藤原側に組した理由で1ヶ月で解任

能登守・平群虫麻呂
藤原仲麻呂の乱で、孝謙天皇が組したらしく能登守に任ぜられる

■774年
能登守・多治比名負
3月~9月
能登守・巨勢馬主

■817~7年間
全国的に長年にわたって干害などで農業生産が不振。能登国も荒廃し乱れた
★徳ある役人
【能登守・春枝王(天武天皇後裔)】
※就任して3年ほどで復興。世が鎮まり安心を得た
※巡行の時の接待を簡素化し人民の負担を軽減してくれた
※朝廷に申請し、大興寺を能登国分寺とし、安居の講の際は春枝王も参加。梵唄の声が休むことなく続いた。
※843年臣籍降下の際は子供3人に高階真人の氏姓を与えられた










七尾城・裏切り者だけど働き者の遊佐氏の仕事ぶりが気になる

2021-06-07 11:51:54 | 日記
遊佐氏が働き者だと思ったのは【守護代】という役割だったからだ。守護の畠山氏は室町幕府のある京都に住んで、家臣の遊佐氏が守護代として府中(能登国の七尾)に住み能登を実質治めていた

守護・畠山義統(よしむね)になってから、応仁の乱が終わると守護畠山氏も能登に帰国し城づくりが始まった。やっと守護畠山氏が自分の領地に目を向けてくれたって印象。それまでは遊佐氏が頑張ってくれた。





















遊佐氏は畠山氏に仕え、子孫は河内国、能登国、越中国の守護代を務めた

能登では遊佐秀頼、続光が権力を握ったが、1581年織田信長により処刑。
働き者の遊佐氏だが、処刑されたのは因果応報。裏切り者の罪だ

七尾城では長続連が台頭していた。守護畠山春王丸は5歳。
遊佐続光は、七尾城に侵攻してきた越後上杉軍に内応し、長続連一族を殺害。上杉に降って能登の実権を我が物とした

翌年、上杉謙信死去
再び織田軍が能登に攻め込んで来ると遊佐続光は子と共に信長に降伏したが、信長は長一族を殺した罪を許さず遊佐親子は処刑された


北の海っ道

2021-06-07 10:50:33 | 日記
■禄剛崎
朝日と夕日が同じ場所で見れます
一帯は海難事故が多かったので、古くから航路を照らす烽火が上げられていた場所です。光は海上34キロまで達します
珠洲は日本海航路の要所として重要視されていましたので、隔絶された地のわりには集落が発展しました
珠洲はすすみ(のろし)にちなむ地名

■海外から寄り来る船は、流れにのり能登半島沿岸に漂着しました。厳しい海外政治を請け負った者もおり珠洲の人々を緊張させました
859年正月渤海から烏孝慎・一行104人が漂着した際は約10日間滞在したので住民は接待のため臨時貢納として米、酒、肉、ニンニクを負担せねばなりませんでした

■1800年前神后皇后(息長足姫命)の三韓征伐のおり、帰路に風波のため3艘の船が海岸に漂着しました
(高麗人が流れついた説もあり)
乗っていた人々に傷死した者があり、白山宮内仮殿を作り病没の神を祀りました。逝く人は仮殿西方に埋葬し、そこに神像を彫った石をたてました。その後数百年後五輪塔、地蔵尊もたてられ、その後、三韓征伐の御神霊を祭神とするお宮が建てられました

■能登半島沖
南から暖流(対馬海流)
北から寒流(マリン海流)の一部が合流

熱帯地方の熱エネルギーが温暖差によって北極へ運ばれる大気の流れがあり、その熱移動の境界線38度線が能登沖を通り、大気・海流エネルギーの交差する場です

■珠洲の岬は日本海の関所ともいうべき存在で、都から離れて辺境の地に至る海っ道のはざまとして人々の心にうつりました
岬の一角に高くそびえる山伏山と宝立山は、日本海を行く人々に神奈備の姿を心を焼きつけました

■神話時代から7世紀末までは、日本海の潮の流れによる海上交通で【出雲との交流】がさかんでした

[証拠]
★出雲の神さま大国主の命、少彦名命を祭る神社が多い

★古麻比古神社(珠洲市若山町)
コマ→高麗
シ→魂
高麗人の祖霊か?
※境内社に少名彦神社がある
少名彦命は神産日神の子で、大国主の命と共に国作りをした

※出雲には神魂(かもす)神社あり
かもすは神産巣日神
元来は出雲の神。新たにヤマト政権の祖先神話の名に基づく名に負担を強いられる
始祖霊信仰から始祖人格信仰へ

■須須神社奥宮ある山伏山

山伏山は標高172メートルの霊山
原始時代から航行の目標となり、御神体山として崇拝
平安中期海上警戒設備を置き、山伏山から狼煙が上がると郡家で受け継ぎ、国府、京都へ伝達

中腹には大灯明堂(灯台)
一夜に油一升、燈心布三尺もらい、夜毎献灯し渡海船を守護






















新田義貞28代目当主

2021-06-07 08:56:17 | 日記
■加賀藩十村役喜多家■
石川県宝達志水町
新田義貞の三男・義宗嫡流、13代目四郎兵衛義勝が伊予国喜多郡本国から能登国鳳至郡木住村に土着
(1575年頃)

四郎兵衛義勝二男は伊予国に戻り病死。遺児孫七郎は能登に戻り、士官の道を探すも叶わず北川尻に土着
喜多家初代(1638年頃)
1814年頃、大地主となる

1819年頃、新田義貞より23代目・喜多市十郎義真が農村支配の役職・十村役を3代にわたり勤め、口能登を治める
現当主は義貞より28代目

■新田義貞■
鎌倉幕府を滅亡に追い込み、後醍醐天皇による建武の新政樹立の立役者の一人。足利尊氏が反旗を翻すと官軍総大将に任命され、足利尊氏と対抗。各地で転戦
後醍醐天皇皇子・恒良親王、尊良親王を奉じ、越前国を拠点として活動。越前藤島で戦死




















昭和7年・金沢第9師団・上海事変出動から帰還まで

2021-06-07 07:56:05 | 日記
昭和7年
■1月31日

徴兵適齢者1368人
届け出1131人
未届け237人(例年の3割増加)

満州事変の真っ只中、全国民が「満州へ!満州へ!」と叫びをあげていたが、徴兵適齢届け出は反対現象

■2月14日
上海方面、事態急迫
日本軍第9師団ら上海上陸開始

■18日
上海に上陸した第9師団・林連隊の前進に対し、江湾停車場付近の中国軍は正午から砲撃開始
同連隊は応戦せず敵陣を飛行機で偵察
中国側に最後通達→拒絶される

■20日
●午前7時第9師団・植田司令部・総攻撃命令
これより先午前4時、予定陣地に向かった林連隊、数十分の激戦後、敵を撃退し予定陣地占領

●植田司令部
午前10時30分
敵前3.5キロに進む
正午
さらに前進し、これより先西方移動

●林連隊本部
第一線から1キロ前線に移され、林は道ばたの土饅頭の後方に

●前原は
三民路の路上に仁王立ちとなり林連隊本部とともに敵弾雨下にさらされる中、「金沢師団の名に背くな」と命令

■22日
消息不明であった金沢第7連隊・第3大隊長・空閑小佐
21日夜、部下と共に江湾鎮の西北進撃中、名誉の戦死を遂げたことが判明した

■27日
午後4時
第9師団は江湾鎮全域を完全占領
戦死傷者1104人

■3月1日
植田第9師団に属する
歩兵第一大隊長・林大八大佐が戦死

■6月5日
植田師団長以下、第9師団司令部・幕僚・独工本舞隊を乗せた列車が金沢へ
植田師団長は松葉杖をつき、一睡もせず熱狂の群衆に答礼

★6日
歩兵第7連隊・第2中隊590人は、小川大隊長に率いられ、午前10時16分金沢駅へ
★8日
歩兵第7連隊・第1、第3大隊は、連隊旗を先頭に、午前8時22分金沢駅へ

★10時14分、第9連隊本部と第1大隊長、上海事変出動部隊、最後の帰還をはたした