るるの日記

なんでも書きます

乃木希典さん金沢単身来訪・傷病軍人を見舞う

2021-06-06 13:47:27 | 日記
旅順包囲戦で第9師団、その他を統率した乃木希典陸軍大将が単身で金沢を来訪してくれました

乃木希典は明治天皇の前で自筆の復命書を奉読。読み上げているうちに涙声になり、明治天皇に対し、自刃して明治天皇の将兵に多数の死傷者を生じた罪を償いたいと奏上しましたが、明治天皇は「どうしても死ぬなら、朕が世を去ったあとにせよ」と言われました
そんな、やさしい人です

■明治39年6月
21日
乃木さん
金沢駅で大島第9師団長、足立参謀長以下、幕僚、各部隊長、知事、市長の出迎え受けたあと、塚本旅館に投宿

22日
乃木さん
★金沢市内駐屯各隊を巡視
★金沢衛成病院の傷病軍人を慰問
乃木は一人一人に親しく語りかけ、重症病者に対しては病床日記に目を通し、患部を検視しながら慰めの言葉をかけ、居合わせた親族の苦労をねぎらった





ロシア人捕虜6000人を金沢市内に収容・芸者遊びができるほど自由な捕虜

2021-06-06 13:22:05 | 日記
■明治38年3月
★16日
捕虜になったロシア兵を、金沢市内各所に収容決定

知事、告論発する
「一般市民がロシア兵捕虜に対し、仇敵視して憤怒の感情を抱いたり、嘲笑罵言を浴びせるなど軽挙妄動に走らない」と注意した

★22日
金沢収容所本部は、捕虜人数6000人と公表
〈収容先〉
勧業博物館・80人
歩兵第七連隊営舎・1300人
野村倉庫・1300人
東別院・950人
西別院・300人
妙慶寺・130人
大乗寺・300人
野町専光寺・170人
天徳院・350人
製糸場・420人
材木町元小学校・280人

★26日
午前0時05分
金沢着の臨時列車で700人余り到着
横安江町の東別院に収容

■5月
捕虜、自由散歩規定
1ヶ月2回以内
50人1組
1日500人
日中5時間
下士官指揮のもと隊伍組んで行う
〈外出区域〉
卯辰山
兼六園
菊橋河原
犀川鉄道橋河原

■6月
26日
ロシア兵捕虜数人が自由散歩中に、指定休憩所の、尾張町にある森八洋食店に立ち寄り、散々飲食した後酔いにまかせ、あたご町の丸三楼に登り芸姑を呼び遊興した

27日
ロシア兵捕虜を登楼させた丸三楼が市民の襲撃を受けた


■7月
ロシア兵の水死体が鳳至郡、珠洲郡海岸に続々漂着した

■9月
ポーツマス条約
多くの犠牲払って獲得した戦勝を無にするポーツマス条約を結んだ政府の弱腰と意気地のなさに憤慨し怒る
殉難者を出した第9師団では、国のために命をかけて戦った兵士を犬死にに終わらせる結果となる

■11月23日~12月2日
ロシア兵捕虜送還







日露戦争・各宗派僧侶100人をよんで戦死者を弔いました

2021-06-06 12:44:25 | 日記
明治38年11月6日
金沢市西町大谷廟所で、旅順要塞攻撃で戦死、戦傷病死した将士の
【第九師団戦病死将卒大追善弔会】
が行われました

内陣には名誉の戦死を遂げた将士の遺骨、供物、献品
本堂内には遺族、将校、来賓
本堂入口には一般兵士、学生が
直立不動の姿勢で法会開始を待った

午後1時
軍楽隊が吹奏と、一打の鐘音で法会の開始が告げられました
各宗僧侶100人余り並列する中を、大谷派大谷勝尊師が霊前に進み出て、表城文を朗読し場内に読経が流れ、法会が開始されました

沖原第9師団長が霊前に進み、弔詞を述べ英霊の義勇忠心を讃えました



日露戦争・この時代は日本軍死者7万28人のためにも祝うのだろう

2021-06-06 12:16:44 | 日記
日本軍死者7万28人

■明治38年石川県
1月2日
午前10時20分発の広報で「旅順陥落」の知らせが

5日
ロシア軍が日本軍の軍門に下ったことを慶賀。あわせて日本軍の前途祝福のため官民合同の祝賀会が兼六園内明治記念碑前の特設会場で行われた

8時
開会予告の3発の号砲が放たれると、続々と市民が押し寄せた

13時
二万人の万歳
式は101発の空包を合図に終了

午後は鳴物を打ち鳴らす「全県鳴」を行い祝った

日露戦争・国民の奉公は命を奉じて従軍することと、資金を供して国に捧げること

2021-06-06 11:59:42 | 日記
🐟石川県の動き
■明治28年12月
石川県七尾港を軍港に決定

■明治29年
軍備拡張、師団増設のため
金沢城内二の丸跡を司令部とする、第9師団設置

初代師団長・大島久尚中将

[管区]
石川・富山・福井・岐阜・愛知


🇯🇵日本の動き
■明治37年2月
4日
ロシアとの交渉打ち切り
開戦決議

8日
陸軍臨時派遣隊が仁川に上陸開始
連合艦隊が旅順港外のロシア船隊を攻撃

9日
仁川のロシア軍艦2艘を撃破

♦️10日
ロシアに宣戦布告

24日
第一回旅順口閉塞作戦

■明治37年4月
1日
非常特別税法公布

■明治37年5月
1日
第一軍、九連城を占拠

5日
第二軍、遼東半島上陸開始

31日
大本営が旅順攻撃のため第三軍編成を決定。司令官・乃木希典

■明治37年8月
10日
黄海でロシアと連合艦隊が海戦
ロシア主力は敗走

19日~24日
日本軍第三軍が第一回旅順攻撃失敗
日本軍死傷者15860人

28日
第一、二、四軍が遼陽に先進開始

■明治37年9月
4日
遼陽占領
日本軍死傷者23533人

■明治37年10月
10日
第一、二、四軍が沙河付近でロシア軍主力を攻撃

20日
弾薬不足で攻撃中止
沙河を挟んで両軍対峙
死傷者20497人

26日
日本軍第三軍、旅順第二回総攻撃失敗

■明治37年11月
26日
日本軍第三軍、旅順第三回総攻撃

■明治37年12月
5日
203高地占領



🐟石川県の動き
■明治37年1月18日
知事は【愛国義会設立構想】を発足

〈目的〉
※軍人後援のための軍資供給
※従軍家族の扶助
※出征している兵士の苦労に対し、品物を贈って慰める

■明治37年2月15日
知事は日露開戦にあたって県民に、時局認識と自覚を促すため次の告論を発した

【露国に対し宣戦の詔勅が発せられた。日本帝国の急務は軍資の充実にある。国民の奉公は命を奉じて従軍することであるが、資金を供して国に捧げることも奉公の一つである

政府は軍資募集のため債権を発行しており国民は競ってこれに応じ挙国奮励の盛んなことを発揚しなければならない

従軍者家族については、政府は特に法律を定めて扶助に務めるはずであるが、それ以上に家族の者は今以上に生業に励み、愛和し、共助に務めなければならない

それこそ、従軍者が後顧の憂いなく、一意に奮い立って軍に殉じることにつながる

一時の敵がい心に駈られて、在留外国人に対し軽挙妄動に走ってはならない。これこそ事態を見誤り国民の本分を損なう行為である】