■1853年6月、ペリーに率いられたアメリカの軍艦が、日本に開国要求する国書を手渡すためにやって来た
ペリーは江戸湾深くに入り、測量などをし、無言の圧力をかけてきたので、幕府は国書を受け取った。ペリーは来春回答を求めたいと日本を去った。この頃はアメリカだけではなく、ロシア、イギリスなども日本に開国を迫っていた
■この難局を背負って立っていたのは、老中・阿部正弘。阿部はすべての大名に、国書の回答について相談した。これは、幕府が独断で解決できないことを示してしまったという、異例のことだった
■ペリーは予定を早め翌年1月やってきた。幕府は大艦隊の威力に負けて、日米和親条約を結んだ。幕府は続いて、オランダ、ロシア、イギリス、フランスとも和親条約を結んだ
■1856年8月、アメリカ総領事・ハリスが下田に着任。幕府は老中・堀田正睦を交渉に当たらせた
1857年、ハリスは江戸城に上って将軍と対面し、国書を提出
幕府は条約締結の許可を天皇に求めたが、脚下された
■1858年井伊直弼は天皇の許可なく、日米修好通商条約に調印。これは日本に不利な不平等条約だった。なぜこのような条約を結んだかというと、日本が無知だったからだ。幕府はついで、オランダ、ロシア、イギリス、フランスとも条約を結んだ
■朝廷の許可なく、条約調印したことに対して尊王攘夷派、改革派大名は、おおいに憤激した。こうした動きに対して井伊直弼はただひたすら、大弾圧した。【安政の改革】
水戸藩士は井伊直弼に恨みを持ち、1860年3月井伊直弼を暗殺した