るるの日記

なんでも書きます

無知な日本政府につけこんで利用したアメリカ、オランダ、ロシア、イギリス、フランス諸国

2021-06-15 13:34:15 | 日記
■1853年6月、ペリーに率いられたアメリカの軍艦が、日本に開国要求する国書を手渡すためにやって来た

ペリーは江戸湾深くに入り、測量などをし、無言の圧力をかけてきたので、幕府は国書を受け取った。ペリーは来春回答を求めたいと日本を去った。この頃はアメリカだけではなく、ロシア、イギリスなども日本に開国を迫っていた

■この難局を背負って立っていたのは、老中・阿部正弘。阿部はすべての大名に、国書の回答について相談した。これは、幕府が独断で解決できないことを示してしまったという、異例のことだった

■ペリーは予定を早め翌年1月やってきた。幕府は大艦隊の威力に負けて、日米和親条約を結んだ。幕府は続いて、オランダ、ロシア、イギリス、フランスとも和親条約を結んだ

■1856年8月、アメリカ総領事・ハリスが下田に着任。幕府は老中・堀田正睦を交渉に当たらせた
1857年、ハリスは江戸城に上って将軍と対面し、国書を提出

幕府は条約締結の許可を天皇に求めたが、脚下された

■1858年井伊直弼は天皇の許可なく、日米修好通商条約に調印。これは日本に不利な不平等条約だった。なぜこのような条約を結んだかというと、日本が無知だったからだ。幕府はついで、オランダ、ロシア、イギリス、フランスとも条約を結んだ

■朝廷の許可なく、条約調印したことに対して尊王攘夷派、改革派大名は、おおいに憤激した。こうした動きに対して井伊直弼はただひたすら、大弾圧した。【安政の改革】
水戸藩士は井伊直弼に恨みを持ち、1860年3月井伊直弼を暗殺した

死んだら神になることまで計画していた徳川家康

2021-06-15 12:48:45 | 日記
■秀吉が朝鮮征服という無謀な夢に取り憑かれている頃、徳川家康は新しい統一者の道をちゃくちゃくと歩んでいた。信長、秀吉に仕えて、じっと時機の来るのを待っていたのだ

1590年、小田原の北条氏を滅ぼした秀吉は、家康にこれまでの領国とひきかえに、関東六国を与えた。家康は先祖代々の領国を離れて、草深い江戸の地に自分の城を作ることにした。そして農民にとって、めでたい刈り入れの祭日である8月1日を選んで、浜松から江戸に移った。これを江戸打入りとよぶ

■1598年8月、豊臣秀吉が病死した
家康に実権を奪われるのを恐れて、石田三成など家康を心良く思わない大名たちは、1600年7月、家康を討つ兵をあげた
9月15日、関ヶ原で徳川方10万、石田方7万5千の兵が激しく戦った。石田方に裏切りがあり、徳川方が勝利

■1603年、朝廷から征夷大将軍に任じられ、江戸に幕府を開いたが、2年後にはその征夷大将軍を徳川秀忠に譲り駿府に隠居した。これは、他の大名には将軍職を譲らず、徳川氏が代々受け継いでいくのだ!ということを天下に示したのだ
隠居したとはいえ、大御所と呼ばれて政治の実権は握っていた。家康は自分が生きているうちに、豊臣氏を滅ぼそうと考えた

■家康は、大阪城の富を減らす目的で、寺や神社の修復を豊臣氏に勧めた。こうして再建された寺の一つが方広寺。家康は釣り鐘に刻まれた銘文に言いがかりをつけた。文中に「国家安康、君臣豊楽」とあるのは、「家康を2つに切り離し、豊臣を君として子孫の栄えを楽しむの意味で家康を呪ったものである」と言う
この事件をきっかけにして、家康は冬の陣を起こし、豊臣氏を追い詰めていった

1615年、夏の陣で破れた秀頼は自殺し、豊臣氏は滅びた

1616年4月家康は病死した
遺骸はすぐ久能山に葬らる、翌年には日光に移されて、朝廷から東照大権現の号を贈られ、家康は江戸幕府の続く間、【権現さま】としてあがめられた

秀吉の豪遊と、朝鮮征服の夢

2021-06-15 12:01:20 | 日記
■豊臣秀吉は、織田信長の死からわずか八年で、信長の武将たちを従え、天下統一の夢を一応実現したが、秀吉は天下をとってからも自分の出身がいやしいと、気にしていた

だから秀吉は、自分の富と権力を誇るため、大がかりなイベントをした。組み立て式の黄金の茶室を御所に運んで、天皇にお茶を差し上げたり、京都北野天満宮で大茶会を開き千人集め、人々に自分の集めた茶道具を並べ自慢したり、醍醐の花見は、多くの夫人や侍女を従え行われた。農民出身でありながら、秀吉は民衆の気持ちを忘れていたのである

■国内が平和になると、海外へ出て活躍しようとする者がたくさん出て、秀吉の朱印状を得てあいついで南方へ出かけた。貿易を有利に進めようとした秀吉は、インドや台湾に手紙を送り、日本に従うよう求めたが、無理だった

明との貿易を再び行おうとしたが、李氏朝鮮がその仲立ちを拒んだので、秀吉は1592年に15万の大軍で朝鮮を攻めた。朝鮮出兵の影には広い領地を求める大名と、海外への進出をのぞむ貿易商人の野心があった。しかし秀吉が死んで日本軍は引き上げ7年に渡った朝鮮征服の夢は破れた

京都市方広寺近くには耳塚がある。朝鮮で戦った兵は、その手柄を証明するため、殺した敵の耳をそいで、秀吉に送った。秀吉はこれを手厚く葬り大きな法要を開いた。しかし耳は2つずつあるので正確な人数がわかりにくいから、じつは鼻をそいで送ったらしい

寺院同士の戦い

2021-06-15 10:56:58 | 日記
■波佐谷山 (はさたにやま) 松岡寺(しょうこうじ)

1451年蓮如三男・兼祐(蓮綱)が開く。能美郡波佐谷で勢力を伸ばす

■1531年、超勝寺と、本覚寺が松岡寺を急襲。兼祐、子・兼玄、など松岡寺一族が捕虜となる。寺は焼失
兼祐は10月18日82歳で死亡
一族、従者11月18日逃亡するが発見され自害

兼玄49歳
長男兼相29歳
四男22歳

■兼相の妻は超勝寺の娘であったため、一子(女)と共に助けられ、兼玄の二男、三男、五男は他国にあって難を逃れた
末娘は後に畠山義総を頼り、その妾となった

■兼相の子、兼利(10歳)は、能登国柳田の桐畑、それから空林の山の寺、そして松波御坊町の高福寺へ入った。高福寺の娘と結婚。子が生まれ長男は高福寺6代に、二男が前田利家より寺地を受け、堂を建て、松岡寺と元の名に改めた

★高福寺(能登国松波→正院)
宇多天皇期、比叡山座主慈覚大師の弟、円玄阿闍梨創健。23代玄恵奉祀が蓮如に帰依し弟子になり、高福寺は空院に。蓮如に請い、蓮如の子(蓮綱の弟)蓮性法師をここに居らしめ、後に正院に移った
松岡寺、第四代兼利、松波に下り高福寺の空屋に入寺

■兼玄二男慶玄は、諸国流浪後に高福寺に入り、兼利、兼秀二代の後見となった
諸国流浪の終着駅、奥能登にて松岡寺再興の役割をした彼を、松岡寺五代の位置づけとしたい











孝恩寺・長景連

2021-06-15 09:26:59 | 日記
黒瀧城(正院川尻城)
最初の城主は温井兵庫
天正4年春、謙信の武将・長景連に征されて黒瀧城とした

天正5年5月~7月
鳳至の土豪・時国四郎左衛門時信が、畠山氏の命により、黒瀧城主と争う

天正5年9月
七尾城が落ち、能登は上杉のものとなる

謙信の死後温井、三宅等が台頭し
天正7年、正院川尻城に迫る
城主・景連は海を渡り越後へ逃れた

天正10年、5月景連は鳳至の棚木城を攻めるも、同族の長連龍に殺された

または、逃げて、能登国熊木の臨済宗・定蓮寺の僧となった後、孝恩寺の住職となり、僧形で孝恩寺を通称として戦場へ出た説あり