るるの日記

なんでも書きます

選挙運動で死者25名、重症者400名をだす

2021-06-16 11:04:30 | 日記
一時的に政府与党の勢力が増えた衆議院では、その後再び反政府派が半数以上を占め、政府が提出する議案を、すべて否定した。そのため、総理大臣の松方正義は国会を解散した

1892年2月第二回選挙が行われた
政府は、反政府派の選挙運動を妨げるため、あらゆる手段を使った
この選挙干渉は、死者25名、重症者400名という激しいものだった

しかし、結果は反政府側がまたも多数を占め、政府は再び苦しい立場に立ち、松方内閣は選挙干渉の責任を追及され辞任

第二次伊藤博文内閣が組織され、政府と反政府派は、予算案などをめぐって対立を繰り返した
反政府派は内閣弾劾案を提出し政府を攻撃
政府は、議会を解散するか、内閣を総辞職するかのどちらかに追い込まれた

政府は、天皇の詔勅を出して妥協を呼びかけ、この局面を切り抜けた。反政府派は、政府攻撃をやめざるをえなかった

賛成強化のために、あらゆる手段を使った政府

2021-06-16 10:46:44 | 日記
■1890年(明治23)7月1日
日本で最初の衆議院議員選挙が行われた。投票率は93.9%。しかし実際に選挙権を持っていたのは、国民の1.1%にすぎなかった

開票結果は、反政府系の当選者が定数300名のうち171名。半数を完全に越えていた
伊藤博文は政党を無視する宣言を行った

■1890年11月25日
明治天皇による第一回帝国議会開会宣言が行われ、アジアで最初の議会が開かれた。議員全員は、天皇の期待にそって、国政を行うことを誓った

議会では
朝鮮半島への進出をねらった政府が、軍事強化のために、膨大な予算案を提出した。しかし、反政府側の議員たちは「民力休養(国民の負担を軽くする)」と言って、これに反対し、予算を大幅に削った

これに対して政府は、反政府側から議員28名を引き抜き、軍備拡大に関する修正案を作って、二票差で可決した。政府は賛成派強化のために、あらゆる手段を使った


大日本帝国憲法発布・国家による教育統制はじまる

2021-06-16 10:22:11 | 日記
■1888年(明治21年)
大日本帝国憲法成立
翌年発布

しかし国民は、誰一人として憲法の内容をよく知らなかった。憲法という言葉さえ和からなかった人が大部分だった

■この憲法は、天皇が定めて、国民に与えたもので、欽定憲法という
天皇は最高の権力者で、内閣と役人は、天皇の内閣と役人であり、軍隊も天皇の軍隊で、統帥(指揮)できるのは、天皇だけ

国民の権利や自由は、ある法的に保障されていたが、法律や勅令で制限できた

■政府は、自由民権運動がさかんになると、国家による教育統制を進めた。1886年(明治19)学校令を定め、学校制度を整えて、国家の目的にあった教育を行うことをめざした
教科書の検定制度もはじまり、1903年には小学校に国定教科書制度が取り入れられた

■教育勅語
儒教の教えに基づいて、天皇に忠義を尽くし、親に孝行しなさいということが書かれている
国民の生活を、国家主義で統一しようという政府の考え方が打ちだされていた

■内村鑑三の不敬事件
1891年1月9日、第一高等中学で教育勅語をいただく儀式が行われた。参加者は教育勅語にお辞儀をするように言われたが、内村鑑三はキリスト教徒としての立場からお辞儀をしなかった。このため、内村鑑三は学校を辞めさせられ、非国民と呼ばれた

政府への攻撃をゆるめさせようと、政党有力者に金ををばらまき買収した

2021-06-16 09:51:53 | 日記
■1882年(明治15)4月
自由党総裁・板垣退助は岐阜市で講演会を開いた。講演を終えて外に出たところ、暴漢に襲われ、手と胸を刺された。犯人は帝政党の支持者だったので、帝政党に対する自由党員の復讐が各地で起こった

政府はこの事件をきっかけに、政党弾圧に出て、自由民権運動を厳しく制限した

■政府は、政党の有力者には、金をばらまいて買収し、政府に対する攻撃をゆるめさせようとした

このような時期に、板垣退助は後藤象二郎と共に憲法制度調査の名目で、ヨーロッパ旅行に旅立ったが、これは政府が自由民権運動の力を弱めるために、三井から金を出させて行ったものだった

■板垣退助の旅行は裏切りであるとして、自由党員は次々と自由党を抜けた
改進党は、新聞や講演などで、自由党は政府に買収されたと攻撃した
そして、両党は泥試合を繰り返し、政府はこれを弾圧の材料にした

■自由民権運動の中心勢力であった2つの政党は力を失い、運動も不活発になった

政商・五代友厚

2021-06-16 09:30:38 | 日記
■明治政府は、自由民権運動を押さえきれなくなってきた。このような時、北海道開拓使官有物の払下げ事件が起こる

政府は1500万円の費用をかけて、北海道開拓のために、官有設備を作ってきた。この設備を北海道開拓長官・黒田清隆が、友人の政商・五代友厚に不当に安い39万円、30年払いの無利子で払下げようとした

これを大隈重信が発表したため、国民はますます政府攻撃を続けた

■政府は世論の矛先をそらすため、10年後の1890年に国会を開くことを約束した
そして、官有物払下げ事件を発表した、大隈重信以下政府反対派の立場の官吏を政界から追放し、政府内部を再編成し、強化した

■1881年、日本最初の政党・自由党ができ、板垣退助を総裁とした
大隈重信は立憲改進党を組織した