一時的に政府与党の勢力が増えた衆議院では、その後再び反政府派が半数以上を占め、政府が提出する議案を、すべて否定した。そのため、総理大臣の松方正義は国会を解散した
1892年2月第二回選挙が行われた
政府は、反政府派の選挙運動を妨げるため、あらゆる手段を使った
この選挙干渉は、死者25名、重症者400名という激しいものだった
しかし、結果は反政府側がまたも多数を占め、政府は再び苦しい立場に立ち、松方内閣は選挙干渉の責任を追及され辞任
第二次伊藤博文内閣が組織され、政府と反政府派は、予算案などをめぐって対立を繰り返した
反政府派は内閣弾劾案を提出し政府を攻撃
政府は、議会を解散するか、内閣を総辞職するかのどちらかに追い込まれた
政府は、天皇の詔勅を出して妥協を呼びかけ、この局面を切り抜けた。反政府派は、政府攻撃をやめざるをえなかった