るるの日記

なんでも書きます

東条英機内閣発足、軍事重要物資を買えないようにしたアメリカとの戦争準備を急ぐ

2021-06-18 11:10:16 | 日記
■東条英機内閣
1941年から日本は何度かアメリカと交渉し、日本の南方進出を認めさせようとしたが、アメリカは「日本が中国から軍隊を引きあげないかぎり、日本の誠意を認めない」と主張

問題を解決できずに近衛内閣が総辞職し、陸軍出身の東条英機を首相とする内閣ができた

東条内閣は、アメリカと交渉を続けながら、日米開戦をとなえる軍部の要求を受けて、アメリカとの戦争準備を急ぎだした

■日本を包囲するABCDライン
A→アメリカ
B→イギリス
C→中国
D→オランダ

日本がアメリカとの戦争準備をした理由は、日米軍がフランス領インドシナに侵入すると、アメリカは石油など重要物資の対日輸出を禁じ、オランダも植民地から日本が重要物資を買えないようにしたからだ

こうしてABD3国はCを援助しながら、日本の孤立化をねらった。この包囲陣の強化は日本軍部の石油ストップを意味するもので、日本国内では新聞、ラジオで「日本の重大な危機である」と報じ、アメリカやイギリスに対する国民の敵がい心を煽った


とうとう日本がドイツの傘下に入った

2021-06-18 10:47:52 | 日記
ヨーロッパで戦争が始まった
日本は中国で戦争が長引き大変苦しんでいたので、ヨーロッパの戦争どころではなかった

しかし資源の乏しい日本は、日中戦争を解決するために、戦争に必要な原材料を南方(東南アジア)に求めなければならなかった

ヨーロッパでは、ドイツがオランダやフランスを打ち破っていた。日本は、フランス領インドシナや、オランダ領インドネシアを奪い取るよい機会だと南方へ進出した

1940年日本は、フランス領インドシナ(ベトナム)北部を占領した
9月、ドイツ、イタリア、日本は三国軍事同盟に調印。これは
【一国が攻撃を受けたら、他の二国はあらゆる面で援助する】という約束だ

一方日本は南方進出のためには、背後のソ連の動きを封じなければならない。そこで1941年、日ソ中立条約を結んだ

ヒトラーのドイツ軍は強い

2021-06-18 10:31:48 | 日記
■ドイツ
ベルサイユ条約を破り、空軍復活と徴兵制度を宣言

ヒトラーは
1
1938年、ドイツ民族統一の名のもとに、オーストリアを併合

2
チェコスロバキアのドイツ人居住区であるズデーテン地方の併合を要求

3
9月、ドイツ、イタリア、イギリス、フランスの首脳は、ミュンヘンで会談し、ヒトラーの要求を認めた
イギリス、フランスはこれまでもファシズムの侵略を許していた。これは、自分の国さえ平和であればいいという考えと、ファシズムより共産主義の方が危険なものだという考えからきている。だからミュンヘン会議にはソ連、チェコスロバキアも呼ばれなかった

4
1939年9月
ドイツ軍はポーランドへなだれこんだ
イギリスとフランスは、ドイツの侵略があったらポーランドを助ける、という約束をしていたので、ドイツに対してポーランドから軍隊を引き揚げるよう強く要求

5
ヒトラーが要求を受け入れなかったので、イギリスとフランスはドイツに宣戦布告した
第一次世界大戦が終わって20年後だった

6
ドイツ軍はポーランドを破る
ソ連の軍隊も、独ソ不可侵条約に従い、ポーランド東部に侵入し、ソ連とドイツでポーランドを分割して占領

7
1940年、ドイツは、デンマーク、ノルウェー、オランダ、ベルギーを占領。フランスを降伏させた

8
ドイツと軍事同盟を結びながら、態度のハッキリしなかったイタリアも、ドイツのあいつぐ勝利を見て、ドイツ側に加わり参戦

9
ドイツに占領されたヨーロッパ各地の住民は、ドイツ軍のために強制的に働かせられ、いろいろ虐待を受けた
ヒトラーはゲルマン民族による世界征服を目的としていたので、ドイツ国内で有力な地位を占めていたユダヤ人をひどく憎んだ
占領した地域のユダヤ人を捕らえては、強制収容所へ送り、丸裸にしてガス室などに送りこむなど、残酷なやり方で600万人ものユダヤ人を殺した


■イタリア
国際連盟の反対をおしきってエチオピアを征服

♦️ドイツとイタリアは、1936年スペインに内乱が起こるとファシスト派・フランコ軍を援助
ドイツとイタリアは固く手を握った

一国一党・大政翼賛会を結成

2021-06-18 09:49:03 | 日記
■1938年1月
近衛首相は「これからは、中国国民党を相手にしない」と近衛声明を出し、和平の道を閉ざしてしまった。そして日本の言いなりになる汪兆銘の南京政府を作った

■政府は【八紘一宇(世界を天皇を中心とした1つの家とする)】【挙国一致】のスローガンのもとに、戦争協力体制を押し進めた

■1938年4月
国家総動員法を作る
これは【国の経済と国民の生活すべてを、政府だけで決めることができる】とする法律
こうしてあらゆる面で統制が強まっていった

■政党も次々に解散し、1940年には、ナチスのように一国一党で、強力に国策を押し進めるため、【大政翼賛会】が設置され、国民総ぐるみの戦争へ発展していった

■中国国民党政府は長期持久戦に持ち込んでいった。80万人の日本軍は、広大な中国大陸の中で、点と線(都市と鉄道)を押さえるのに精一杯で、中国国民やゲリラの抗日戦に悩まされ続けた

速戦即決方針の日本軍が南京事件を起こす

2021-06-18 09:23:09 | 日記
■盧溝橋の銃声
1937年7月7日夜
中国の華北に駐屯していた日本軍の一部隊135名が、盧溝橋付近で夜間演習をしていたところ、日本軍の頭上を数発の小銃弾がかすめていった

翌日、日本軍は中国軍に攻撃をかけ、中国軍も応戦。しかしこの盧溝橋事件は日中両軍ともに計画的なものではなかったので、11日停戦協定が結ばれた

ところが、この事件が、以後8年間に渡って中国大陸を戦場とする、日中戦争の始まりとなった

■盧溝橋事件が起こる前の中国
1
蒋介石・国民党軍が、毛沢東・共産党軍を討伐していた

2
1936年12月12日
東北軍を率いて紅軍(共産党軍)を攻撃していた張学良が、励ましにやって来た蒋介石を西安で捕らえて閉じ込める西安事件が起きる

3
張学良は蒋介石に、共産党が前から訴えていた「内戦を止めて、日本の侵略者と戦おう」という提案を受け入れるよう要求

4
蒋介石はこれを受け入れて、25日に釈放
ここに中国の【抗日民族統一戦線】ができた

■速戦即決
★日本では、こうした中国の新しい動きに対して、「このさい一気に中国をたたかなければならない」とする考えが有力だった

★日本軍は【速戦即決】の方針
一気に攻めて、早く勝負を決めなければ、広い国土とたくさんの人口を持つ中国が有利になるからである

★1937年7月25日
北京東方で日中両軍が再び衝突開始。日本軍は総攻撃を開始し、北京と天津を占領

★8月13日
戦火は上海へ飛ぶ

★12月13日
日本軍は首都南京を占領
この時、日本軍は南京市民など数万人の中国人を虐殺する南京事件を起こしたが、事実は日本国民には知らされなかった