るるの日記

なんでも書きます

命令形は自分で考えなくていいが不自由・否定形は反省、自己批判しつつ考えなくてはいけないが自由

2021-06-24 13:22:21 | 日記
■良識・良心・正義の共通特性は
「こうであってはいけない」と
否定系の働き方をする

否定系の働きが、観性と関わると、大きな意味と力を持つ

■観性には
客観化の力がある
自覚、反省、自己批判の力が働いている。いずれも直感に欠けている要素であり、それが直感と直観の大きな違い

■良識、良心、正義が
「こうであってはいけない」
という形で働くから、観性は主観を改めて自覚し直し、反省し、批判するようになる【客観化】
「こうあるべし」と命令形で働くなら、その命令に従って行動すればいい。観性はいらない、判断や考えることはいらない

■私たちに観性があり、それを働かす必要があるのは、考えるためだ
世の中で活動していくにあたって、どうゆう行動をとるのが1番かを考えるためだ
そのため、物事をとらえ直し、判断をし直す

■良識、良心、正義は、その考える力を促進するために否定形に働く
「そんなことではいけない。もっと真剣に、もっといいやり方はないかを考えろ」と
観性を怠けさせないために、「こうであってはいけない」という形で、心にムチを当てるのである。そして「どうしたらいいか」ということになると、各自が考えない限り、答えは出てこないものだ

■私たちの活動は千差万別。こうすべし、ああすべしといった規範を作るなど出来ない。もし出来たら人間はロボットになってしまう。人間がロボットと違うのは何をするかについては全て、私たち自身が考えなければならないということにある
頭はそのためにある
そのための観性である
そうであるからこそ、私たちは自由である
これを面倒くさい、厄介といっていたのでは、人間はロボットになる。命令されて動く不自由な人間ロボット

■良識、良心、正義が私たちの心に否定形で働いているからこそ、私たちは人間であり、自由なのである
そこに3つの否定形の働きの最大の意味がある




社会的身体共通化から良識・良心・正義が生まれる。それは人々の単なる行動規範ではない

2021-06-24 12:37:28 | 日記
■社会的身体
感覚は共通感覚によって共通化
感情は共通概念によって共通化
情念は怒の情念によって共通化

■共通化された社会的感覚を
【良識】
社会的身体の安全をベースに
各人が他人の身体に対して十分配慮する形で働く
他人の身体に危害を与えない
他人に不愉快な感じを与えない
エチケット、マナー

■共通化された社会的感情を
【良心】
感情を述べる、述べないについての反省心。反省心は人々が[社会的な共通概念]を察知し尊重する心から生まれる
[恥の意識]による[心のとがめ]

ウソをつくのはいけない
堂々と意見を述べないの卑怯
卑しい感情、気狂いじみた感情をを述べるのはよくない

■共通化された社会的情念を
【正義心】
不正や不義を許さない
そういったことは断固として抗議する

♦️この3つは社会を明るくいきいきさせ、統合的に働くことにより、社会的観性の力をつくりだす
この3つは観性との関連でとらえて始めて、その意味も力も明らかになる
このことを忘れると、良識、良心、正義が、通り一遍の人々の行動の規範ととらえられ、本来の意味も力も見失われてしまいがち




社会的身体・個から全体へ

2021-06-24 11:57:12 | 日記
♦️感覚の共通化
感覚は共通化しやすい
感覚には共通項のような感覚が明確に存在する。それは【体感としての共通感覚】。これが社会的身体の感覚の共通項になる

人間は同じ身体を持つので、体感感覚は万人に共通する

感覚の共通化は、個の人々の【共通感覚】によってなされ、社会的身体の共通感覚になる

♦️感情の共通化
2つの条件がある

★感情が感覚型感情でなく
激情型感情であること

★それが能動化された能動感情であること
【精神の力によって、激情(マイナス)から情熱(プラス)に変化した激情感情】

感情はこの条件内の感情を対象にしないと、それこそとりとめなくなる

★感情の具体的な共通化
1
意見をのべる
感情の共通化は、人々が感情を言葉で表す、意見を述べあうことから始まる。そこから感情の調整が行われるようになるからだ。みんなで意見を述べあっているうちに、話がおさまるところに、おさまるわけである
すなわち感情が共通化されたの

感情そのものが共通化されるのではなく、共通化されるのは、人々が感情を述べあう中で自然と起こってくる心(自分の意見の自覚し直し・反省・批判)。それによって意見はストップし、おさまるところに、おさまる

2
【共通概念】
人々が感情を述べあう中で、共通概念が生まれてくる。それは感情ではなく、互いが【自らへの自覚、自らへの反省、自らへの批判】という形での、あるいは満足感という形での概念を内包させた心でもある
その心が共通化される

3
人々が意見を述べあうことが多いほど、社会はよくなる。社会とは人々によって自然につくられた人間の共同体である。それがどうあるべきかについては誰も何とも言えない。これといった定まった方法も手段もないからだ
ただ、共同体に住む人々が、共同体を良くしようと思い、そのため努力し協力しあうだけである
共同体が良くなるか、悪くなるかは人々の考え方次第、感情次第、つまり意見次第。だから社会を動かすものは世論だと言われるのである

真理についてでなく、各人が真理と思うことを述べることが、社会のために大事であり、それが本当の意見である。そのような強い感情が働いていなければならない

■情念の共通化
それほど難しくない
情念は方向性(はけ口)を与えられることで簡単に共通化される

怒りの情念が共通項となり共通化にならざるをえない

情念は普段出口のないところに押し込められて、欲求不満になっている情動(怒りの情念)であるから、出口さえ与えられたら、どちらの方向に向かっているかはおかまいなく、たとえ地獄に向かってであろうと、喜んで一斉に走り出す
だから共通化はいたって簡単

★簡単だがいい加減な共通化は危険
情念は幻想化しやすい
無責任な煽動
ナチズム
ファシズム
には警戒しなければならない

そのためには精神、気力がしっかりしていなければならない
精神が情念の怒りをコントロール出来れば、情念は社会の不正監視の方向に向かい働く。すなわち怒りは暴発する前に、世の中の不正をかぎつける触感となる。熱い怒りは冷めた怒りに変わる

そうゆう方向に情念を能動化し共通化する
それが可能かどうかは、社会的精神が強く、しっかりしているかどうかにかかっている

戦前の日本人は、その精神力が弱かった。だから情念の共通化が幻想、魔性の方向に向けられてしまったのである。大和魂、武士道精神、軍人精神だとか盛んに精神が鼓吹されながら、結果的には日本人全体が魔性に取り憑かれてしまった。きわめて皮肉なことである





社会とは私である・個の共通化

2021-06-24 10:29:12 | 日記
♦️個体から社会的身体へ♦️
観性の源は社会的身体である

■社会とは1つの身体
人々の身体を媒介としてつながっている生命的身体共同体であり、社会そのものが1つの生命的身体である

この社会的身体は、歴史的身体
なぜなら社会とは、歴史的人間形成の場だから

■常に統合的な社会的観性
生きた社会的身体には、当然、観性が働く。働き方は個体と大きく違う
個体の動きはバラバラ

社会的身体の働きは常に統合的
社会は身体的統合体だから、社会的身体の中で働く観受性、観受態、感覚、感情、情念、精神、何もかも統合的でなければならない

特に、感覚、感情、情念の3つの社会的統合性が大事。でないと、観受性や観受体が不安定になり、社会的身体の統合活動が保証されない

■社会的身体という観点から
共通化し統合する

感覚、感情、情念は、社会的身体という観点から共通化され
感覚は共通感覚
感情は共通感情
情念は共通情念
となる
つまり
個体の感覚、感情、情念から
その個体差部分を削り落とし共通化

★感覚なら感覚の共通項だけ残し

★感情は各人の感情の違いを調整することにより生まれる第3の感情を基準とし共通化をはかり

★情念はその本質を抑え共通化をはかる

それが共通化
共通化によって社会的身体としての統合活動は保障される