「徳分」について
人間誰でも必要があって生かされて生きている。何の為に生か
されているのか。
それを早く悟るべきです。決してお金を稼ぐ、お金を貯める、物
を沢山買い込む為に生かされている訳ではないのです。
この世の仕組みに沿って、良い行ない、善業を積んで自分の
「器」を大きくする「徳分」増やす事が、人として成すべき事です。
「徳分」とは
自分の器を大きくして、十分な「徳分」を備え悠々と人生を歩み
たい。それにはまず、「正見」=正しく物事を見ること。から始め
たいものです。
我見を捨てて、人様に良かれと思う見方でこの世を眺める。
お釈迦様の説いた「八正道」に沿って物事を成してゆく事です。
すると次第に「気根」が高まってきます。
「気根」とは「自分の中の性質」と考えればよいでしょう。「気根」
が高まれば、良い縁に触れるチャンスがやってきます。良い人
にめぐり会ったり、自分にとって大切な話を聞くチャンスを得たり、
正しい忠告を得たりします。
「観世音菩薩」はあなたの身の周りの人に化けて「仏様の知恵を
与え、助けてくれる」と言われています。
「気根」が高まらずに「我見」に捉われていると、せっかくの観音様
の大切な助言も耳に入らないものです。何故なら、観音様は、あま
りにも貴方の身近な人や、年少者、苦手に思っている人、あるいは、
たまたま出会った人を通じてメッセージを与えてくれるからです。
「気根」が高まり、このような因縁に触れて、「宿命の余罪重障に
して」の罪を消すために何かしよう。と考え、ありがたい仏様の話
を聞いたり、お墓参りに行こうとかしますが、でもそういう事をして
いるうちは、まだ前世の罪の償いをしているだけなのです。
みんな罪の償いで、残念ながら「徳」にはなっていないのです。
「徳分」にまだ入ってこないのです。
自分から進んで仏縁に触れる事は、前世の償いをしているだけな
のです。償いだけだと、つまりローンを払っている様なものだから、
ちっとも貯金にならない。
償いとは、銀行からお金を借りて、その利子をせっせと払っている
ようなもので貯金にはなっていない。「徳分」にはなっていないので
す。
「徳分」とは悩んでいる人に、親身になってその悩みを聞いてあげ
て、仏様の知恵を教えてあげる。また、仏様の知恵を教えてくれる
人に導いてあげる。
そこで初めて「徳分」になるのです。仏の智慧に触れさせて「ああ、
なる程」と悟らせてあげる事。これが「徳を積む」ことになるのです。
相手の身になって聞き、知っている事を話してあげる。その心が
大切です。
この世の仕組みに沿って、良い行い、善業を積んで自分の「器を
大きくする。「徳分」を増やす事が人として成すべき行為です。